過剰と不足

需要と供給の経済学ではなく、サービスを施す人々の接遇や態度や表情などにまつわる過剰と不足の話。

守破離に見る型の心得とは似て非なる要領がある。「そんな守るためだけのマニュアルなど解体してしまえばいい」と常々考えてきたし発言もしてきた。案の定、「過激だ」とよく批判された。批判されて困ったわけではなかったが、わざわざ下手に世渡りすることもないだろうと考えて、あっさりと言い換えることにした。「くだらないマニュアルなど解体してしまえばいい」と。くだらないマニュアルとしたら、一気に賛同者が増え始めた。要するに、マニュアル必要論者にしても、くだらないマニュアルにはブーイングしているのだ。

くだらないマニュアルが、まっとうな人たちにくだらない所作やことば遣いを強いる。そして、強いられて日々繰り返しているうちに、臨機応変や融通がサービスの原点にあることをすっかり忘れてしまう。マニュアルを遵守しようとすれば、下手に気など利かせてはいけない。応用的な思考を完全に停止させて、ひたすらアルゴリズムに従う必要がある。やがてまっとうな人が音声合成機能付きの自販機みたいになってしまう。


今日の午後、博多方面ののぞみの切符を新大阪駅で変更したら、車両の最前列、ドアのすぐ前の席になってしまった。昼寝するつもりもなく、別にその場所に不満はなかった。乗客の出入りは頻繁であるが、読書の妨げにはならない。新神戸駅の手前、ドアが開いてワゴンサービスの女性の声が耳をつんざいた。職業柄、彼女たちの声はメタリックで車両の後方までよく響く。すぐそばで突然発声されるとびっくりする。顔もメークアップしているが、笑顔も声もメークアップしている。そして丸暗記された定番のセリフ。

心理学を学んだことは一度もないが、他人の言動をつぶさに観察すれば、したくてしているのか、やむなくしているのかの違いくらいはわかる。疲れていて笑顔を浮かべるのもつらい時があるだろう。それでも、サービスのプロフェッショナルたるもの、マニュアルがあろうとなかろうと、仕事への情熱をごく自然に言動に現してしかるべきである。

ぼくもそうだが、客の立場になると人はわがままに振る舞う。かまってくれないと文句を言い、かまわれすぎると放っておいてくれと言う。しかし、難しいことを突きつけているのではない。「良い加減」でいいのである。ワゴンサービスも車掌もドアから出入りする時に一礼などいらない。このバカ丁寧な所作、作り笑い、ノイズに近い呼び声は過剰である。くだらないマニュアルが垂範する数々の不自然な造作を見るにつけ、プロフェッショナル精神の不足に気づく今日この頃だ。

道徳とマニュアルと鞭

堅苦しいことや押し付けがましいことが苦手である。だから、堅苦しい式次第の会合から足が遠のくし、押し付けがましい話ばかりの講演にも行かない。義理があっても立てない。ついでながら、押し付けがましい料理を堅苦しい雰囲気の店で食べるのはものすごく苦手である。それ以上に苦手なのが、堅苦しくて押し付けがましい道徳である。ぼく自身は「控え目な道徳」のよき実践者であると自覚しているが、いくばくかの常識さえ備えていれば、わざわざ道徳に出しゃばってもらう必要はない。

しかし、人間というものは必ずしも性善ではなく、都合によっては性悪的に立ち居振舞う。それゆえに、暴風雨の日に安全心得を強く促すように、非行や非情がはびこる時代には道徳に目を向けさせる動きが強まる。控え目であることが持ち味の道徳に、肩肘張った硬派な役割を担わせるようになるのである。本来常識と道徳は同じものではない。だが、非常識と非道徳はよく似た性質を帯びてくる。

誤解を恐れずに極言すると、道徳が声高に叫ばれるときはだいたい情けない時代になっているものだ。誰もが人間関係のルールを守り組織や社会の規範を常識的に保持していれば、道徳が頻繁に出る幕はない。嘘をつくな、約束を守れとダメな大人が躾けられ、まともな大人も「挨拶と感謝の意」をつねに強要されている。実に情けない光景ではないか。道徳は隠然いんぜん的な存在である時にもっとも効力を発揮していると思う。


たいていのルールや規範は常識や共通感覚で十分に遵守できる。しかし、言わずもがなの道徳訓を垂れなければならない時がある。常識と共通感覚によって理性的に諭しても、うんともすんとも反応せず、相変わらず襟を正さない場合である。いっそのこと反社会的行動にまで至ってくれれば、道徳よりもはるかに強制力のある法によって裁くことができるのだが、そこまで罪が重くも深くもない。

常識不足と法律違反の中間にあり、何度注意しても直らず、かと言って処罰できない所業に対して道徳が出動する。多くの職場でこのような困った所業が当たり前になってきている。たとえば「相手がわかっていると思って、わざわざ確認しなかった」とか、「誰も何も言わなかったので先例に従った」とか……。良識を欠いたというだけで片付けられず、また大失態と烙印も押せないもどかしさが襲ってくる。

このような状況で顔を出す道徳は、ただ堅苦しくて押し付けがましいだけのお説教にすぎない。「相手の立場に立とう」や「そのつど臨機応変に考えよう」などのステレオタイプな道徳訓で鼓舞しておしまいになってしまうのである。常識を働かせよとか道徳心を持てとか言っても、問題は解決しない。方法なくして問題解決はありえない。しかも、精神的なものではなく、具体的で誰が試みてもうまくいく方法が望ましい。それって、結局マニュアル? いかにも! ああ、情けない。常識の範囲でできることを怠ると、職場はマニュアル化を加速させ、それでもうまくいかなくなるとステレオタイプな道徳、それでもまだダメなら法という鞭が唸る。当たり前のことを当たり前のようにしていれば、マニュアルも道徳も鞭もいらない。

ネガティブマニュアルを解体せよ

今週の月曜日、昼にうどんを食べに行った。午後1時前、すでに賑わいのピークは過ぎているはずなのに、カウンターは満員。「お一人ですか? そちらのテーブルでお相席願えますか?」 示されたテーブルには女性が一人。そこに進みかけた矢先、別のテーブルが空いたのでそちらに座った。「お相席になるかもしれませんが、よろしいですか?」と念押しされてから、注文を聞かれた。

注文してからおよそ5分、うどん定食がきた。ランチタイムは客が引き潮のように消えていく。店に入ってからわずか10分ほどの間に、カウンター席も6つあるテーブル(各4席)も半数は空き、一つのテーブルに一人か二人が座っている状況になっている。誰が見たって、がらんとしている。

にもかかわらず、入店から食事を終えるまでの20分間、ぼくはホールを仕切るオバチャンの「お相席でお願いします」と「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」という声を少なくとも5回耳にした。ピークを過ぎてもお客さんは一人、二人と来る。そのつど、このオバチャンはそう声をかけるのである。他のテーブルが空いているのに、「こちらのテーブルで相席お願いします」と誘導し、知らん顔されて空いているテーブルに座られると「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」

このオバチャン、もはやうどん屋であることを忘れている。ピーク時の満席をどうやりくりして席を割り振るかに必死だ。これは、店長にきつく叱られたトラウマか。おいしいうどんをゆっくり食べてもらうどころではなく、限られた時間に何人捌くかがオバチャンの仕事になっている。未だ来ていない客との相席を当面の客に乞うのはネガティブ接客である。閑散とした時間帯にまでいちいち「相席」云々はないだろう。正直言って、うどんを食べた気はしなかった。落ち着かないこの店には二度と行かない。


「エスプレッソのほう、こちらの小さなカップでごく少量のコーヒーになりますが、よろしいでしょうか?」 エスプレッソを注文すると、5店舗のうち3店舗でこう確認される。飲んだことのないエスプレッソを注文したのはいいが、出てきた小さなカップを見てイチャモンをつける客が月に一回か二回かあるのだろう。そんな客対策としてマニュアルに「エスプレッソ注文時の確認事項」が追加されたのに違いない。

注文カウンターでアイスだのホットだの、レギュラーだのカフェラテだのと書いてあるメニューを見つめること数分、迷いあぐねて「エスプレッソ」と注文する客には、臨機応変を条件にそのように確認してもいいだろう。エスプレッソを知らない可能性があるからだ。だが、小銭をポケットから取り出しながら、メニューも見ず一秒たりとも逡巡せずに「エスプレッソ!」と威勢よく注文する客に断りはいらない。その対応は、喫茶業としては野暮である。

百円硬貨を二枚カウンターに差し出して、「ごく少量の濃いコーヒーの入った小さなカップのエスプレッソをください」と客のほうが先手で攻めたら、カウンターの向こうのアルバイトの女子、どんな反応を見せるのか。「エスプレッソのほう、ダブルにもできますが……」と対応するようマニュアルには書かれているかもしれない。 


リスクを未然に防ぐことは重要である。しかし、必要以上にクレームの影に怯えることはない。怯えて構える「転ばぬ先の杖」が目立ちすぎて逆効果だ。こうして編集されるマニュアルを「ネガティブマニュアル」とぼくは勝手に名付けている。正社員・パート社員は「後で文句を言われないための単純ハウツー」を徹底的に仕込まれ、まるで機械のようにワンパターンで反応する。こんな書き方をすると、人間に失礼? いやいや、センサーで状況判断できる機械に失礼だ。

思い上がるカスタマーや理不尽クレーマーが激増する昨今、ネガティブマニュアルによる自己防衛に走らざるをえない心情も察する。だが、行き過ぎだ。商売の本来あるべき姿から逸脱している。一握りの消費者への過剰対策が多数の良識ある消費者の気分を損ねることだってある。そのことに気づくべきだ。