朝の支度中に、テレビの画面に食い入る時間はない。見るとすれば、かなりニュース性の高い映像に限られる。つけっぱなしの朝のテレビはラジオのようなもので、もっぱら音声を聞いている。いや、音声が流れてくる。このことと、自分が「みずがめ座」に属することを知っていることが一つになると、特別に関心があるわけでもない星占いの声も耳に届いてくる。
周囲には星座や血液型占いの好きな人がいる一方で、誰かが話題にしても素っ気なく反応する人もいる。ぼくはと言えば、占星術、手相、血液型などによって心を動かされたことはない。けれども、かつて占いに凝っていた母親が生年月日でぼくを専門家に占ってもらい、「あんたはこうこうだよ」と告げてきた時などは頷いておいた。正直なところ面倒なのだが、親孝行だと思って聞いた。
同様に、何かの拍子に運勢判断の話が出ると、心中まったく関心はないのだが、冗談を少々交えたりしながら調子合わせをすることがある。ぼくも一人で生きている人間ではないから、ほどほどの社交辞令で場をなめらかにする術を心得ねばならない。ただ、「うらない」という発音から先に浮かぶのは「売らない」のほうであって、「占い」という参照はめったに生じない。
仕事柄どんなことでもまったく知らんぷりできない。新聞の小さな記事や隣のテーブルのよもやま話から何かのヒントが生まれることだってあるから、占いの話題を門前払いするのもどうかと思う。というような寛容な姿勢なので、冒頭に書いたように勝手に星座占いが耳に入ってきてしまう。そして、苦笑いする。先月のある日の話である。ラッキーアイテムが「さざえ」であった。手の届かぬものではないが、出張中だったから口に入れるのは容易ではない。気が付いたら夕方だったし、少々酒を控えているから、この日は縁がなかった。
別の日。「みずがめ座のあなた、自分の意見が通らずストレスがたまります」と注意された。「他人の意見を参考に」という処方箋。いつもいつも自分の意見を抑制し反論もせずにイエスを捻り出しているぼくだ。いつも他人の意見を聞いてあげて、とんでもないトラブルに巻き込まれているというのに。
さらに別の日。「過去の経験を生かして大飛躍できる日」ときた。占いというものはヒントにはならないものである。過去のどんな経験かが不明であり、威勢よく「大」とついているが飛躍のほどがよくわからない。それはそうだろう、ぼくのための占いではなくてみずがめ座のための占いだ。克明に描写してしまうと大勢の人に当てはまらなくなってしまう。とはいえ、「メールは早めに返事しましょう」などとあると、後期高齢者がターゲットでないことはすぐにわかる。なお、この大飛躍のできる日のラッキーアイテムはババロアだった。毎日12の星座を占うのも大変な仕事である。