一つの正解の非現実性

一問多答.jpg「一つの問いに対応する唯一の答え」というケースが現実にないわけではない。簡単な例で言えば、「22を足すといくつになるか?」という一つの問いには「4」という、ただ一つの答え(正答)が対置する。「アメリカ大陸は西暦何年に発見されたか?」への答えは「1492年」であり、少なくとも学校世界史においてはそれだけが唯一の正答であり、それ以外はすべて誤答ということになる。 

わが国の教育制度に十代後半までどっぷり浸かってきた青少年は、当面の正答欲しさ――ひいては成績のため――ゆえに、このような一問一正答方式をいぶかることはなかった。では、教育現場では一問一正答という形式がなぜ成り立っているのか。一つの問いが示されてから答えが生まれるからではない。むしろ、すでに唯一絶対の答えが確定しているところに後付けで問いが作られて一問一正答が出来上がる。たとえば、コロンブスという答えを出させたいがために、「誰がアメリカ大陸を発見したのか?」という問いが発案される。要するに、教師が答えを知っているから成り立つ形式なのである。

さて、一問一正答に慣れきった学生は、その一答が正しいと認められて歓喜する。あるいは、誤っていると指摘されて悔しがる。こういう単純な正誤評価を当たり前と信じたまま、学生は学校を出て実社会に船出することになる。ここでも問いが提示され、それが一つであることも稀ではない。しかし、「誰が、いつ、どこで、誰に、何を」などという過去に関する事実探しは二者間の問答としてはほとんど生じなくなる。これらは、知らなければ「調べれば済む」という調査の対象に切り替わるのである。実社会では「誰が、いつ、どこで、誰に、何を」という問いは、不確定の未来に仮定的に向けられる。そして、さらに不確定な「なぜ、どのように」が頻繁に問われる。ここに到って、一問一正答方式の出番は激減し、一問多答もしくは多問多答という形式が優勢になってくる。


ぼくの従事する企画という仕事では、誰も近未来の答えを知らないことが前提にある。にもかかわらず、「これは正解でしょうか?」と、いつも不安な顔をしてぼくに尋ねてくるスタッフがいた。たとえば「この商品のターゲットとしてどんな顧客を想定すればいいだろうか?」とぼくが問えば、彼は机に戻ってしばらく考えてから、「こういう顧客を想定しました。間違いありませんか?」と聞いてくるのだった。 

「きみ、ぼくが近未来の事柄について知っているはずがない。ぼくには正答がわからない。いや、正答なんてそもそもないのかもしれない。きみが想定した顧客が一つの答えとして成り立つかどうかは、きみの理由づけや説明の妥当性次第なんだ。そして、そのことについて二人で論じ合ってはじめて『答えらしきもの』が仮説的に定まるのだよ」と返事したものである。ぼくの一問には複数の答えがありうる。そして、ぽつんと提示するだけでは答えは有効にはなりえない。数ある答えのうち、自分が選んだ答えに理由と説明を加えて蓋然性を高めてやらねばならない。すでに存在する正答を発見するのではなく、正答を創造するというのが本筋なのだ。

ヒナがあんぐりと口を開けてエサを待つように、一つの問いが上司や顧客から投げられるのを待つ。しかも、その一つの問いに必ず一つの正答があると信じ切ってあれこれと考える。そんな正答発見型の頭の使い方でいいのなら、調査能力に長けた人材が一人いればいいことになる。実際、嘆かわしいことだが、創意工夫が求められる仕事でありながら、依然として調べ上手が重宝されている組織が少なからずある。

一問多答、そして多答からもっとも蓋然性の高そうな答えに絞り込んでいく。こうでなければ一人前のプロフェッショナルになりきれない。この先には、多問多答が当たり前の複雑怪奇な場面が待ち構えている。さらにその先では、他者から問われることなく、自ら問いを発して答えを導出しなければならない状況に遭遇するだろう。バカの一つ覚えのようにウィトゲンシュタインを引く。

言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる 

傍線部は意味深い。問いが立てば答えが見つかるなどとは言っていない。問いが立てられなければ答える資格が得られないと言っているのだ。問いがあるからこそ答えようとする。正答や誤答は別問題、一答でなければならないと気負うのは論外である。答えるという仕事に参加するためには、まず問いがいる。そして、その問いを自ら立ててみる。問いを立てるその瞬間から答える行為が始まる。困り果てたら腕を組むのではなく、言語的に突破口を見つける。言うまでもなく、問答の技術、問答による解決能力は、ほぼ言語の技術に対応するのである。

ネタバレと学習

Okano Note.jpg本ブログ〈Okano Noteオカノノート〉を始めてまもなく5年になる。およそ750本ほど書いてきただろうか。「あれを読んでいると、きみの意識の視線の先が何となく見えてくるよ」と知人がつぶやいたが、それはそうだろう。意識が乏しいテーマを取り上げるはずもないのだから。

ぼくは28歳の頃から、気になる事柄や術語を気の向くまま小さなノートに書き込み、自分なりの考えをしたためてきた。企画や講演という仕事柄、なるべく特定ジャンルに縛られることなく、広く浅くセンサーを多方面に向けてきたつもりである。小さなノートはぼくにとっての「ネタ帳」であり、そこに書き込んできたおびただしいテーマを企画や講演に生かし、このブログも書いてきた、という次第である。
同業界にはネタを小出しにする人もいるし、ぼくのように出し惜しみせずに自らネタを割ってみる者もいる。出し惜しみしないことを威張っているわけではない。ただ、秘伝のタレを守るような、一つの価値観に執着する生き方がどうも性に合わない。手持ちのネタや出所を公開することによって、ぼくは新ネタを仕込まねばならぬ。これはとてもきついことなのだが、そうすることによって無知化しかねない自分を叱咤激励できているような気がする。

映画好きだが、最近はあまり映画を観ていない男がいる。さほど映画好きでもないが、最近ちょくちょく映画を観るのがぼくだ。二人でランチしている時に、週末にぼくが観た映画のことを話したら、「どんな感じでした?」と興味を示したので、高速であらすじを喋り始めた。さわりに差し掛かったところで、突然彼は「ああっ~、ネタバレ~」と叫び、勢いよく両手で耳を覆った。ちなみにネタバレというのは、彼のような未鑑賞者の楽しみを奪うことに用いられる。「きみが聞きたそうだったから、話しただけじゃないか」と言って、ぼくはシナリオの顛末直前で話すのをやめた。
人というのは不思議な学習者である。興味のあることは聞きたい知りたい、しかしすべてを明かされるのは嫌で、ここぞというところは自分で見つけて感動したいのである。ところが、さほど興味のないことについては、その全体のことごとくを他人から教わって平然としている。いや、むしろ、やむなく学ばねばならないことなら、自分で知る楽しみも放棄してネタバレを大歓迎してしまうのである。
そもそも学習とは人や本によるネタバレにほかならない。ぼくたちの知識の大半はネタがそっくりバラされて形成されたものだろう。小説・映画と研究論文などのネタバレ感覚が違うことは認めるが、どちらにせよ、鑑賞したり学習したりするのはネタがバレていく過程なのである。ネタは欲しいがおいしいところはバラさないでくれと言うのなら、独学に限る。たとえば一冊の本を読んでネタを仕入れたら、究極の歓びを自らの想像で仕留めればよい。
なお、ネタとは「タネ」を逆さ読みした隠語である。アイデアのネタ(情報)、鮨ネタ(素材)、手品のネタ(仕掛け)など、ある究極形を生み出すための鍵にほかならない。ぼくもネタを仕入れ仕掛ける。それを公開しても何も困らない。なぜなら、同じネタを用いても究極形が違うからである。

売り込まない方法

ほとんどすべての命題は二律背反的に論議することができる。時々の情報に左右されるテーマならなおさらだ。たとえば、「調査から始めよ」と「調査から始めるな」は一般的にはつねに拮抗している。ぼくの場合は、もはやどんな企画も調査から始めることはないが……。

と言うわけで、「売り込まない方法」という主張とまったく正反対のことも書くことができる。明白なのはただ一つ、真理はわからないという点。何をこうしたから売れたとか、売れた理由はこうだなどというのは、すべて後付けであって、終わってみたから言えるのである。ほんとうに売れる理由がわかっているのなら、売る前にその理由を公開すべきだろう。
ぼくたちにできることは、「売れるだろう」という蓋然性に向けて工夫を凝らすことだけだ。そして、うまくいく可能性としては、「売り込まない方法」という選択もありうるのである。
あらゆるメディアを通じて売り込みを競っている状況を見てきて、「商品を売ってはいけない」という思いに至った。とりわけ、モノではなくサービス価値に関するかぎり、露骨に売っている人よりも「さりげなく知らせている人」のほうが健闘していることに気づく。ユーザーでもあるぼくは「売り込まれること」に疲れた。そして、市場に出回っている商品やサービスのうち売り込み過剰なものを差し引いてみた。すると、すぐれたものが浮かび上がってきたのである。

少々強引だが、シンプルマーケティングのジョセフ・シュガーマンなどは「情報の引き算」を提案している。「あれもこれも伝えたい」というがむしゃらさは情報乱舞の時代に目立たない。黙って一点のみを静かに伝えるのだ。ジョー・ジラードの言も借りてさらに言えば、真に売るべきは商品ではなく、商品を扱っている「人」であり、その人が顧客との関係づくりに注いでいる「意」のほうなのである。
誰もが売りたい売りたいと躍起になっている時代に、売り込まないという方法、ひいては「よろしければお売りします」というスタンスがあってもいいだろう。もっともすぐれた売り買いの形態は、売る価値と買う価値が等価として交換されることである。その交換をスムーズにするために売り込んできたわけだが、そうしてきた人たちや企業が必ずしも成果を残しているとはかぎらない。
マーケティングという用語が便利なので思考停止気味に使っているが、売りの戦略という意味で使っているのなら、ここから離脱することも検討すべきだろう。むしろ、古典的な〈パブリック・リレーションズ〉を醸成するほうがこれからの時代にふさわしい気がしている。ひたすらじっくり時間をかけて認知を促し関係づくりに励む。これなら売り込み下手でも謙虚に取り組めるはずだ。

語句の断章(2) 構想

企画を指導していて悩み多いのは〈構想〉の意味を伝えることである。構想というのはあるテーマの全体枠。枠そのものが未来を指向するシナリオであったり過去のリメークであったりする。

構想の中身は空想や想像でできている。空想も想像も「いま目の前にないものを思い描くこと」。但し、空想は脱経験的であるので、自由奔放であり、枠や時間という概念に強く縛られない。他方、想像は基本的には経験を下地にしている。経験したことから何かを思い浮かべようとすることだ。

さて、構想と言うと、漠然と未来を見据えようとしがちである。構想とビジョンは意味的に重なるが、「ビジョンをしっかり持て」と指示すると、どこにもないはずの未来を、たとえば天を仰ぐように見ようとしたり過去や現在から目を逸らそうとしたりしてしまう。どこかから未来を切り取ってくることはできない。過去や現在に知らん顔して未来だけを注視することなどできないのである。

実は、構想とは過去と現在を穴が開くまで見ることなのである。実際に経験したことからの連想なので、この点では空想よりも想像に近い。外や明日ばかり見ようとするのではなく、自分の〈脳内地図〉を見ることである。過去と現在を踏まえて、あるテーマについての願望をスケッチするのだ。過去の省察、現在へのまなざし、そして未来の願望を俯瞰して書き出す。構想とは事実の土台の上に希望のレンガを戦略的に積み上げる作業にほかならない。

構想が全体枠だと言うと、「全体=マクロ的」と考える人がいる。大きなことを考えてから小さなところに落とし込むのだと錯覚する。たとえば、樫の木からどんぐりを導くような感覚。そうではない。どんぐりから樫の木を構想すること自体が全体枠になる。「どんぐりはバーチャルな樫の木である」という発想こそが構想的なのだ。

幼さと情報依存

企画の勉強の際にいつも注意することがある。これは先に言っておかないと、ほとんどの受講生が誤ってしまうことであり、企画の終盤になってから指南しても手遅れになるのだ。「企画の出発点において調べるな!」というのがそれである。昨今、企画らしい企画にお目にかからないのは、企画に占める調査の比重が大きくなっているからだろう。いや、実は、大きくなどなっているのではなく、企画者自身が勝手に重要視してしまっているのである。

企画が調査の同義語になってしまった。最重要な企画コンセプトをろくに煮詰めもせずに、せっせと情報で外堀を埋めてしまう。気がつけば先行企画事例やデータでがんじがらめになり、企画者の独自の視点、アイデア、思考が従属的もしくはお情け程度の付け足しになっているのである。誰もが企画の仕事に従事するわけではないだろう。だから、部分的には調査偏重の企画技法で事足りる人たちがいる。しかし、企画にはもう一つ見過ごせない学びがある。もう一つというどころか、それは根幹的命題にかかわるものだ。すなわち、「自分で考える」という能力である。

「自分で考えることは重要である」という、いかにもぼくたちの共通感覚であると思われる命題を、上滑りせずにいざ証明しようとすれば、事のほかむずかしいのである。たとえば、「考えなくっても、どこかの先行事例をちょいちょいとアレンジすればいい。どんなにあがいても、創造的な企画を考え抜くなど凡人には不可能なんだから」という、アンチテーゼになっていないお粗末な反論で自力思考の尊さが崩されてしまうのである。


企画には思考力が不可欠である。自分で考えなければ、誰かが考えたことを用いるしかない。つまり、思考を外部に依存するしかない。そして、それは情報を自分のアタマ以外のところで検索することを意味する。ろくに考えもせずに「考えてもわからない」とあきらめて、情報を取り込もうとするのは精神的幼さにほかならない。但し、幼児の場合は知性も教養も不十分であるから、それもやむをえない。そもそもそうして学習することによって彼らは自ら思考する習慣を身につけていくのである。いま問題にしているのは大人の話である。

どんなに力量を備えても、考える材料の不足はいつまでも付きまとう。だから、どこかで勇気を奮い「不足→調査」という流れを断ち切らねばならないのだ。さもなければ、「考えない」あるいは「考えなくてもいい」という習慣が繰り返され、やがて「考える」という習慣よりも強く形成されてしまうからである。これは親離れできない精神構造によく似ていて、努力しないかぎりひとりでに依存症が解消することはない。集めても集めても情報は尽きることはない。小さな池だと思って泳いでいたら知らないうちに大海で溺れていたということになる。

自力で考えるのはたやすくない。誰もが考え抜くために突破口を求める。その突破口が調べれば簡単に手に入るようになった。たいがいのことは検索すれば見つかるし、実際のところヒントにもなってくれるだろう。しかし、企画に唯一絶対の正解などないのに、調べれば答えらしきものに出合える、この「検索即解答」という便利さが、企画に不可欠な「勘」を奪ってしまう。勘とは、言い換えれば、自分で考えて蓋然性の高い方向で仮説を立てる力である。誤解なきよう。調べてもいいのだ。考えて苦悶し、勇気をもってひとまず自分なりの決断を下したあとに、ねらいを絞って情報を参照すればいい。

情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ。ここまで書き綴ってきて、ある書物を思い出した。カントの『啓蒙とは何か』である。機会を見つけて近いうちに続編をしたためたい。 

企画に言霊が宿る時

別に内緒にしていたわけではないが、何を隠そう、昨今リピートの多い研修は「企画」である。主催する側によって名称は変わる。「企画力研修」というストレートなものから、「企画能力向上研修」「企画提案力研修」「企画書作成研修」「政策企画力研修」などバリエーションは豊富である。もともと「スーパー企画発想術」と名付けていた二日間プログラムで、学習の基本軸は「発想>企画>企画書」。つまり、企画書に先立って企画があり、企画に先立って発想があるという考え方。その発想の拠り所は日々の変化への感受性である。

企画とは好ましい変化をつくることであり、その作戦をシナリオ化することと言えるだろう。何から何への変化かと言うと、Before(使用前)からAfter(使用後)への変化である。使用するのは企画という処方箋。つまり、さらに詳しく言えば、企画とは、現状の問題なり不満を解決・解消して、より理想的な状況を生み出す方策なのだ。こんなわかりきった(つもりの)企画という用語をわざわざ辞書で引くことはないだろうが、念のために手元の『新明解』を調べてみた。正直驚いた。「新しい事業・イベントなどを計画すること。また、その事業・イベント。プラン」とある。これはかなり偏見の入った定義である。まるで企画という仕事を広告代理店の代名詞のように扱っているではないか。

企画をしてみようという動機の背景には、まず何を企画するかというテーマへの着眼がある。そして、そのテーマ領域内の、ある具体的な事柄をよく観察していると、何だか問題がありそうだ、と気づく。いや、必ずしもゆゆしき問題でなくてもよい。ちょっとした気掛かりでもいいのだ。もしプラスの変化を起こすことができたら、きっと今よりもよくなるだろう―こうして方策を編み出そうとする。着眼力、観察力、発想力、分析力、情報力、立案力、解決力、構想力、構成力……数えあげたらキリがないほど、「〇〇力」の長いリストが連なる。


こんな多彩な能力の持ち主はスーパーマン? そうかもしれない。一言で片付けられるほど企画力は簡単ではない。だが、つかみどころのなさそうな企画力ではあるが、つまるところ、その最終価値を決めるのは「言語力」を除いて他にはない。コンセプトだの因果関係だのアイデアだのと言ってみても、下手な表現や説明に時間がかかっては企画の中身がさっぱり伝わらないのである。もっと言えば、新しくて効果的な提案がそこにあるのなら、使い古した陳腐なことば遣いに満足してはいけない。「固有であり旬であること」を表現したいのなら、「新しいワインは新しい皮袋に」入れなければならないのだ。

言語力が企画の価値を決定づける。もっと極端な例を挙げれば、タイトルが企画の表現形式をも規定してしまう。話は先週の研修。あるグループが順調に企画を進めていき、企画の終盤に『涼しい夏の過ごし方』というタイトルに辿り着いた。現状分析も悪くなく、「暑い夏→涼しい夏」という変化を可能にする詳細なプログラムをきちんと提示していた。しかし、総じて平凡な印象を受けた。「新しいワインを古い皮袋に」入れてしまったのである。

仮に『灼熱の夏と闘う!』としていればどうだったか。同じ企画内容が、タイトルの強さに見合った表現形式になったのではないか。ハウツーの説明に終わった『涼しい夏の過ごし方』に比べて、『灼熱の……』には企画者の意志が込められ、「夏との対決」の様子を実況生中継するような迫力を醸し出せたのではないだろうか。いや、もちろん企画者にはそれぞれの性格があるから、必ずしもそうなるわけではない。だが、その性格要因を差し引いても、命名が企画内容の表現形式にもたらす影響は想像以上に大きい。

ちなみに、「コンテンツ→タイトル」という帰納型よりも「タイトル→コンテンツ」という演繹型のほうが、メリハリのきいたダイナミックな企画になる可能性が大きい。これは、数百ものグループの企画実習の指導・評価経験から導かれた揺るぎない法則である。できたモノや企画に名前を付けるのではない。名前という一種のゴールや概念に向けてモノや企画をデザインする――このほうが言霊が企画に宿りやすいのだ。

企画と表現のリノベーション業

アメリカ大統領のスピーチ原稿ライターで思い出した。看板は一度も掲げたことはないが、ぼく自身も企画書の代筆をしたりプレゼンテーションの代行をしたりしたことがある。

どんな提案項目を含めればいいのか、どのように構成すればいいのかがわからないという外部のプランナーが助言を求めてくる。但し、助言でどうこうなるものではないので、場合によっては「一から書きます」ということになり、小一時間ヒアリングをして資料をもらって書き上げる。まだパソコンを使っておらず、書院というワープロでペーパーを仕上げていた。もう二十年も前の話である。

もちろん報酬はいただいた。その報酬が菓子の詰め合わせやディナーのこともあった。関西ではよくあることだ。報酬が金銭であれ菓子であれ食事であれ、れっきとした「企画書代行業」であった。注意していただきたい。これは「企画書」の代行業であって、「企画」の代行業ではない。

そもそも企画と企画書は似て非なるものである。企画は発想や教養や情報や才覚などの総合力だが、企画書のほうは純然たるテクニックだ。そして、不思議なことに、企画よりも企画書のほうが金額設定はしやすいのである。企画は下手をするとタダにさせられてしまうが、企画書をリライトしたり編集したりすれば、値切られたり菓子で賄われたりするものの、報酬は期待できる。


世間は企画書という「型と形」を有するものには予算を用意するが、企画という「無形のアイデア」への出費を渋る。以前大手薬品会社の研究所長が「ディベート研修の相談」でアポイントメントを取り、わざわざ来社された。しこたまヒアリングされ、気づけば3時間経過。その所長の大学ノートにはメモが何十ページもびっしり。「当社でぜひ研修を導入したいと思う」とおっしゃってお帰りになった。それっきりである。アイデアはミネラルウォーターよりも安い。というか、タダになることさえある。

落語にも登場するが、「代書屋」というれっきとした商売があった。識字率の低い時代、口頭で伝えて書いてもらう。おそらく字が下手な者にとっては「清書屋」の役割も果たしただろうと想像できる。ぼくに関して言えば、講演や研修の閑散期に、提案書やカタログやパワーポイントの資料をチェックして欲しいと依頼されることがある。これまで無償でおこなってきたが、考えようによっては、看板を上げてもいいのではないか。たとえば、「企画修繕屋」とか「文書推敲屋」はどうだろう。

アイデアのある企画で食えないのなら、誰かの企画を修理するほうが手っ取り早いのではないか。自分でオリジナルの文章を工夫して書き下ろすよりも、下手な表現や壊れた文法を見直すほうが報われるのではないか。もちろん本意ではないが、そういう可能性も検討するのが自称「アイディエーター」の本分である。