論理的思考を再考する

論理の指導をする身ではあるが、ひいきをしているわけではない。それでも、論理的思考ロジカルシンキングは物事を明快にしてくれるし問題解決にかなり役立つ。「論理以前」の幼稚な思考だけで、あるいは、当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで物事を受け流してきた者には学ぶところが多いはず。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどは、論理能力の不在によって生じることが少なくない。

 

論理的思考や論理学の初歩になじみたいという入門者に、写真の『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹著)を薦める。一読した彼らはぼくに文句を言う。「やさしいと思ったら、めったやたらに難しいじゃないですか!?」 ぼくは返す、「文章はわかりやすいが、内容がやさしいなんて一言も言っていない。論理や思考がやさしいものなら、ぼくたちは苦労などしない。慣れないことはすべて難しいんだ」。

この分野に心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学を学びたいのではない。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な〈明証・分析・綜合・枚挙〉に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも成果は上がる。


しかし、日々の自分を省察してみよう。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。いま論理的思考をしているぞという自覚があるだろうか。おそらく確信できないはずだ。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、知っていることの確認作業の域を出ない。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の〈蓋然性〉を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。蓋然性とは「ありそうなこと」を意味する。

論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのである。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多いのだ。それゆえ、どんなタイトルがついていようと、ぼくは「ロジカルコミュニケーション」を念頭に置いて指導するようにしている。

論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが、一人で悶々とする論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきだろう。

(本文は201063日の記事に加筆修正したもの)

批判からの逃避

この話が当てはまる人々に老いも若きも男も女もない。批判からの逃避には二つの意味を込めている。一つは「批判することからの逃避」であり、もう一つは「批判されることからの逃避」である。対話にあって波風を立てないよう、批判することを避けてひたすら共感し同調する。これによって今度は批判されることを回避できる。

以前このテーマについて某所で話したときに、「批判と批評との違い」を尋ねられたことがある。即座に回答しかねる問いだが、ぼくも老獪な一面を持ち合わせているから、「非難と対比すれば、批判と批評は同じ仲間だ。この話に関しては同義と思ってもらっていい」と伝えた。後日辞書をチェックしてみたら、さほど苦し紛れの対応でもないことがわかった。批評がより価値論議に向けられるものの、批判も批評も物事の長所・短所を取り上げるという点では共通している。非難の「欠点や過失を取り上げて責めること」とは根本が違う。

批判でも批評でもいいのだが、とりあえず批判にしておく。この批判がいつの間にか「非難」と同義になってしまったかのようである。ぼくにとっては批判は改善・成長を視野に入れた、問題解決の処方箋である。問題を解決するためには問題を明らかにせねばならない。問題を明らかにするとは原因を探ることである。その原因探しと問題解決に助言をしようとするから批判するのである。どうでもいいことを取り上げて、どうでもいい人間にわざわざ改善や成長のための批判をするはずがないではないか。


批判は非難ではない。ぼくにとっては批判されることも批判することもつねに良薬である。苦くて刺々とげとげしい毒舌であっても毒ではない。ところが、「それって批判ですか?」「そう、批判」「ひどいなあ、いきなり非難するなんて」「非難じゃない、批判。全然違うものだ」「ケチをつけるんだから一緒ですよ」という類のやりとりが、嘆かわしいことに現実味を帯びてきた。

ストレートな話し方をするほうなので、辛辣な毒舌家と受け取られることが多いが、ぼくなどは穏健で温厚な「ゆるキャラ」だ。批判と非難の区別もつかない連中は、批判の中身に耳を傾けず、批判の語り口に神経を尖らせている。彼らにとってきつい表現は非難であって、助言などではないのだろう。

批判は成長の踏み台であり、非難は意見攻撃、ひいては人格否定につながる責めの行為だ。この違いがわからない者に助言しにくくなってしまった。批判から逃避する彼らはどうなるか。結局は差し障りのない関係を保ちながら、甘く低いレベルで折り合ってしまうことになる。切磋琢磨しようと思えば棘の一つや二つは刺さる。だが、そんなものは繰り返し慣れてしまえば、すぐに免疫ができる。批判というのは一種の人間関係ゲームなのである。逃げたらダメ、避けたらダメ。

問題とモンダイモドキ

問題を解決すればすっきりする。苦労した末の解決なら爽快感もいっそう格別である。では、問題解決という満足を得るための第一歩――あるいは、欠かせない前提――が何だかわかるだろうか。

答えはとても簡単である。問題を解決するための第一歩、あるいは必要な前提は、問題が存在することだ。発生するのもよし、抱えるのもよし。いずれにしても、問題がなければ解きようがない。つまり、問題に直面したことがない人は問題を解いたことがないのである。また、問題解決能力のある人は、問題によく出くわすか問題が発生する環境にいるか、よく問題を投げかけられるか任されるかに違いない。断っておくが、詭弁を弄しているのではない。変なたとえになるが、自分の風邪を治すためには、風邪を引いていることが絶対条件と言っているのである。

問題とは困り事であり難しいものでなければならない。さもなければ、困りもせず難しくもなければ、解決などしなくて放置しておけばいいからだ。緊急であり、放っておくと事態が深刻化しそうで、しかも抱えていると非常に困る――問題はこのような要件を備えなければならない。問題解決も容易ではないが、問題を抱えるのもさほど簡単ではないことがわかるだろう。


本格的で真性の問題など、そこらに転がってなどいない。ぼくたちが「問題だ、問題だ」と称している現象のほとんどは、そのまま放置しておいてもまったく困ることもない「モンダイモドキ」にほかならない。モンダイモドキを問題と錯覚して右往左往している人を見て、内心、次のようにつぶやいている。

「きみ、そんなもの問題になりそこねた単なる現象なのだよ。問題に値しない、可も不可もない現象。きみは問題と言いながら、ちっとも困ってなどいないじゃないか。ただの現象を問題に格上げするきみの見誤りに気づいたぼくにとっては、きみ自身が問題ではあるけれどね……」

本物の人間などという言い回しがあるように、本物の問題というのがある。器が大きくて威風堂々とした問題、どっしりとして根深い問題、人を魅了し、かつ困惑させてやまない問題……「速やかに鮮やかに巧みにスパッと斬ってくれないと、大変なことになるぞ!」と挑発してくる問題。こんな「出来のいい問題」に遭遇できているだろうか。自称「問題で困っている人たち」をよく見ていると、みんなモンダイモドキに化かされてしまっている。付き合う甲斐もない似非問題に惑わされている。

さあ、しこたま抱えてきたモンダイモドキをさっさと追い払おう。一見絶望させられそうな難問を抱えたり呼び込んだりできることは一つの能力なのである。そして、難問こそが、「解決」というもう一つの能力を練磨してくれる。強い相手を見つけて練習する。これはスポーツ上達と同じ理屈だ。いや、練達や円熟への道はそれ以外にありそうにない。

知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

難易の別を超えて

難易度ということばを聞くと、受験テストの問題集を思い浮かべてしまう。星印が三つ付いていたら難度が高く、一つだったら易しい。星一つばかりの設問を解いていたら簡単だ。途中で易しい問題ということを忘れて、解ける快感だけを覚えていく。できた気になるから、学習心理上のストレスはほとんどたまらない。しかし、本番で少々難度が上がればたちまちアウト! リハーサル段階では少々難度の高いものに挑戦しておかねばならないのだ。

少々何度の高い問題というのが微妙である。半分くらい解けるのがいいのだろうが、解けるか解けないかは現在の力量にかかわる。完全な全問正解にはほとんど学習効果がない。かと言って、全問解けないようではやる気も出ない。しかし二者択一なら、手も足も出ないことを何度も体験しておくほうが現実世界の問題解決には役立つ。リハーサルだからこそオール不正解でも許される。要は、解こうとしたプロセスの質だろう。

語学を例に取ればわかりやすい。たとえば英会話学習のゴールをあいさつやショッピングに置いていても、学習した範囲内で現実の会話が収まることはまずない。自分が話す分には知っていることだけ伝えればいいが、相手は自分がわからないことを話し伝えてくる。認識という点では、入門も基礎もない。ぼくたちは学んだ範囲内でコミュニケーションを統御することはできない。相手は難易の別などおかまいなしなのである。すべての幼児は家庭内および社会的コミュニケーションの場で、自分の力以上の困難な状況を乗り越えて成人していく。すべての人間は、ヒナが羽ばたきを覚えるように、大人世界のことばに齧りついて生きている。


語学を始める人にぼくは中上級から始めよと助言する。いや、正確に言うと、現在の母語の語学力と知識に見合ったレベルで学習すべきだと教えてあげる。知識には未知の事柄を想像する機能がある。ことばや概念の何から何まで知らなくても、行間や文脈を読む想像力が働くものだ。ぼくは英語もイタリア語も中上級からスタートした。CDは倍速にして聴いた。こんな早口のネイティブはいないだろうと思えるくらいのスピードに食らいつく。それで本番はちょうどよい。初めてイタリアに行ったとき、バールのバーテンダーは第二次世界大戦の話を持ちかけてきたが、理解できた。「はじめまして」「こんにちは」程度の学習しかしていなかったら手も足も出なかったはずである。

話は語学だけにとどまらない。一般的な学習(つまり、リハーサル)は易から難へと想定しているが、本番には難易が混在している。いや、すでにそこにはそんな区別すらない。ぼくはいま、社会人のためにこの記事を書いている。社会人になって何事かについて学ぶのと学生で学ぶのとは大違いである。社会人にとっては目的は明日の行動と一体化しなければならない。どこか遠くにある目的などではなく、明日の仕事で学びが現実的な効果を発揮してもらわねば困るのだ。悠長な猶予期間はない。

「難しい」という泣き言をほざくのをやめよう。現実世界は、ある意味ですべて難しいのだ。唯一、現実のハードルを低くできるとすれば、リハーサルでのハードルを自分の現在の能力よりも高く設定するしかない。「あのセミナーは易しかった、わかりやすかった」と感想をもらすのはよい。しかし、それが現実世界を生き抜く糧になったかどうかこそが問われるべきである。そして、易しく身につく糧よりも苦労して身につけた糧のほうが実践では役に立つ。「良薬は口に苦し」という常套句を引くまでもない。苦いとか難しいとコメントをする暇があったら、黙って口に放り込むべきなのだ。 

打たれ強い無難主義

先週末の私塾のテーマは『解決の手法』。そのテキストの第2話「現実、理想、解決型思考」の冒頭を次のように書き始めている。

漠然と考えたり意識が弱かったりすると、問題に気づくことなく、無難に日々を過ごしてしまう。ゆえに、そういう人は問題解決の経験が少ないため、方法を変えることもない。現代人は目先にとらわれた、単発で短期的な思考に偏重している。時代を象徴する新しい問題や状況に対して、人間らしく対応することができない。(後略)

迅速に意思決定をしたり問題解決をしたりするのは「ある種の戦闘」だと思う。もちろん戦闘には規模とリスクの大小はある。たとえば、洋服のボタンが一つ取れた程度の「マイナスの変化」を迅速な意思決定の対象とし、なおかつその変化を「ゆゆしき問題」と見なしてタックルすることはない。だが、理不尽なクレームを突きつけられたりしたら本能的に戦うべきだろうし、負けないための戦術も練らねばならない。意思決定から逃げてペンディングにしても問題は勝手に解けてはくれない。


巣立ちをして社会に飛び出すのを躊躇したり遅らせる人たちをモラトリアム人間と呼んだ時代があった(1970年代後半)。この頃に大学生をしていた連中がいま五十歳前後である。彼らがモラトリアム世代と呼ばれたフシもあったが、わが国ではいつの時代のどの世代でもモラトリアムは多数派を占めている。ぼくよりほんの三歳ほど上の団塊の世代にだってモラトリアム人間が大勢いる。世代ごとに特徴はあるのだが、日本人には無難主義の精神が備わっており、その精神はすべての世代に浸透している。

企画研修で演習をおこなう。現実離れをしてもいいから、思い切った企画案(問題解決案)を期待するが、十中八九無難に終わる。やさしいテーマと難しいテーマがあれば、ほぼ全員が前者を選ぶ。問題と向き合わない、睨み合いしない、したがって戦うことはない。まるで「かくあらねばならないという絶対的な知の法則」に支配されているかのようだ。

学校時代に一つの正解を求めなければならない難問に苦しめられたために、実社会では〈アポリア〉という、解決不可能に思える超難問を避けようとする。あらゆる妙案も打たれ強い無難主義の前では無力の烙印を押されてしまう。誰もが無難であることに気づいていないから、その無意識の強さは鉄板のごとしだ。「マイナスの変化」にプラスのエネルギーを注いでやっとプラスマイナスゼロなのに、無難主義はマイナスの大半を受容してしまう。その変化の次なる変化は次世代へと先送りされる。

「問題ない」という問題

MONDAINAI(モンダイナイ)。

ローマ字・カタカナのいずれの表記も、いまや堂々たる国際語になったMOTTAINAI(モッタイナイ)と酷似している。だが、モンダイナイは世界の市民権を得るには至らなかった。

1980年頃からアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人らと一緒に仕事をしていた。日本企業の海外向けPR担当ディレクターとして英文コピーライターチームを率いていたのである。彼らはみんな親日家であり、日本の企業で生き残ろうと自己アピールをし、自分の文章スタイルに関してはとても頑固であった。

日本語に堪能なライターもいればカタコトしか解せぬ者もいた。しかし、どういうわけか、「ノープロブレム(心配無用)」を「モンダイナイ」と言う傾向があった。これはあくまでも想像だが、彼らは「日本人が問題を水に流したり棚に上げたりするのが得意」ということを知っていて、別に解決していなくても当面問題が見えなければ良しとする習性に波長を合わせていたのではないか。

「モンダイナイ」とつぶやいておけば、とりあえず日本人は安心するだろうという一種の悪知恵であり処世訓だったかもしれない。しかし、彼らを責めることはできない。「腫れ物と問題は三日でひく」という諺があっても不思議でないほど、この国では「問題の自然解消」に期待する。さらに、小学校から慣れ親しんだマルバツ式テストのせいで、当てずっぽうでも50%の正解を得てしまう。問題がまぐれでも解けてしまうと錯覚している。


問題に対する姿勢を見るにつけ、日本人にとって問題解決は厄払いに近いと親日家たちが判断したのも無理はない。問題を水に流すなど、まさに厄払いそっくりだ。問題を棚に上げるように、祈願の札も神棚に奉る。TQCさえやれば問題なんてへっちゃらと思うのは、厄をぜんざいの中に放り込んでみんなで食べてしまうみたいだ。

こうした観察が「モンダイナイ」を生み出した。しかし、彼らは日本語の助詞が苦手である。そのため、三つの文脈すべてにおいて「モンダイナイ」を使ってしまう。正しく言えば、「モンダイナイ」は、(1) 問題(にし)ない、(2) 問題(を見)ない、(3) 問題(は解決して、もうここには)ない、というニュアンスを秘めている。

この用語の使い手の名人はアメリカ人のCだった。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、それでモンダイナイ」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「でも、モンダイナイから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、モンダイナイから平気」

と、まあ、会話の中にキーワードがふんだんに織り込まれるのである。これは禅問答ではない。彼は理路整然と受け答えしているのだ。上記の会話にニュアンスを足し算すると、次のようになる。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、その文章の問題はすでに解決して、もうここにはない」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「仮に問題があっても、それを見ないから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、問題にしないから平気」

ここまで解釈できない日本人スタッフはみんな「モンダイナイ」の三連発に安堵して、後日責任を負ってしまう。リスク管理に神経を使うぼくだが、それでも二度痛い目に合った。これは容赦できんとばかりに二度目の後に徹底的に詰問した。

Cさん、あれだけ自信をもって大丈夫だと繰り返していたくせに、問題が出たじゃないか! どういうつもりなんだ!?」とぼく。Cは身長190cmの巨体を縮め肩も狭め、小さくかすれた声でつぶやいた。「ごめん。モンダイナイ……つもりだった」。

彼はまだ素直なほうなのだ。彼以上に日本慣れしてくると、「どうしてくれるんだ!?」という怒号に対して、「じゃあ、もう一度モンダイナイようにしてあげよう」とケロリと言ってのける。そして、このときにかぎって英語で”ノープロブレム”と付け足すのだった。

「問題ない」を口癖にしている問題児、水に流し棚に上げて知らんぷりしている社員、あなたの回りにも必ずいる。たぶんそいつにオフィスの着席権を与えてはいけない。