論理の指導をする身ではあるが、ひいきをしているわけではない。それでも、論理的思考は物事を明快にしてくれるし問題解決にかなり役立つ。「論理以前」の幼稚な思考だけで、あるいは、当てずっぽうや気まぐれ感覚だけで物事を受け流してきた者には学ぶところが多いはず。実際、事実誤認、話の飛躍、虚偽の一般化、総論的物言いなどは、論理能力の不在によって生じることが少なくない。
論理的思考や論理学の初歩になじみたいという入門者に、写真の『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹著)を薦める。一読した彼らはぼくに文句を言う。「やさしいと思ったら、めったやたらに難しいじゃないですか!?」 ぼくは返す、「文章はわかりやすいが、内容がやさしいなんて一言も言っていない。論理や思考がやさしいものなら、ぼくたちは苦労などしない。慣れないことはすべて難しいんだ」。
この分野に心惹かれる人たちの大半は、机上の論理を扱う論理学を学びたいのではない。彼らは論理的思考を求めているのであって、それは仕事や生活に役立つ思考方法のことにほかならない。では、論理的思考はどのように仕事や生活場面で機能するのか。情報の分類・整理には役立つだろう。構成・組み立て・手順化もはかどるだろう。矛盾点や疑問点も発見しやすくなるだろう。つまり、デカルト的な〈明証・分析・綜合・枚挙〉に関するかぎり、でたらめな思いつきよりも成果は上がる。
しかし、日々の自分を省察してみよう。ほんとうに論理的思考の頻度は高いのか。いま論理的思考をしているぞという自覚があるだろうか。おそらく確信できないはずだ。そもそも、アームチェア的な推論や推理は論理の鍛錬にはなるが、知っていることの確認作業の域を出ない。つまり、初耳の結論に至ることはめったになく、仮にそうなったとしてもその結論の〈蓋然性〉を判断するには総合的な認識力を用いなければならないのである。蓋然性とは「ありそうなこと」を意味する。
論理がもっとも活躍するのは、思考においてではなく、コミュニケーションにおいてなのである。自分の考えを他者に説明し、他者と意見を交わし、筋道や結論を共有したりするときに論理は威力を発揮する。論理は言論による説得や証明において出番が多いのだ。それゆえ、どんなタイトルがついていようと、ぼくは「ロジカルコミュニケーション」を念頭に置いて指導するようにしている。
論理的思考以外にも多様な思考方法や思考形態があり、アイデアやソリューションを求めるならばそれらを縦横無尽に駆使しない手はない。論理的思考を軽視してはいけない、だが、一人で悶々とする論理的思考一辺倒では発想が硬直化する。このことをわきまえておくべきだろう。
(本文は2010年6月3日の記事に加筆修正したもの)