誰かが話すのを真剣に聴いているものの、注意が内容にではなく、「ことばのこなれ具合」のほうに向いてしまうことがないだろうか。ぼくはしょっちゅうそんな体験をしている。話の中身を聴いてもらえない人やことばの表現と流暢さに悩んでいる人には、今日の話は参考になると思う。少々難しいかもしれないが……。
ことばのこなれ具合に関連して、連語〈コロケーション〉の話を二年前の『ことばの技法』という講座で少し取り上げたことがある。そのニューバージョンのためにおもしろい演習を作ってみようと思い立ったのが週始め。直後、塾生Mさんのブログで「コーパス(corpus)」についてのくだりを見つけた。Mさんは日本語の専門家だから、この方面の言語習得理論によく精通している。
来月の私塾大阪講座のテーマが言語なので、記事中の反チョムスキーやピンカー贔屓の話も興味深く読ませてもらった。ぼくの講座の半分はソシュールがらみだが、ほんの少しだけチョムスキーとピンカーにも言及するつもりだったので、よい参照ができた。私塾では最後の15分間を一人の塾生のコメントタイムに充てている。そして、来月のそのクローザー役を務めるのが彼なのである。きっと別の視点からぼくの生兵法を補足してくれるだろうと勝手に期待している。
さて、コンピュータ処理機能の高度化によってコーパスが加速していることは想像できる。ただ、ぼくのコーパス観は相当に古くて陳腐化しているかもしれない。なにしろ最初にコーパスに関心を抱いたのが、27年前に発行された『現代米語コーパス辞典』。1,200ページの分厚い本だが、共著ではなく、坂下昇が一人で書き下ろして編んだもの。アメリカではコーパスが当時以前から重要視されていた。
さて、そのコーパス。「ことばの素材大全集」という意味だ。もう少し説明すると、一定期間に発行された書物からありとあらゆることばを拾い集めて収録し、コンピュータ処理によって言語の推移や特徴を統計的に分類する、膨大な標本データベースということになる。現在のコーパスの認識もこんなふうでいいのだろうか。いや、高度な技術の恩恵を受けて、想像外の分類や検索が可能になっているに違いない。
前掲の辞典に続き、翌年に同じ著者が『現代米語慣用句コーパス辞典』を出した。ちょうどその頃、ぼくは国際広告・海外広報の仕事で英文を書いていたので、こちらの本をよく活用した覚えがある。慣用句とは「決まり文句」のこと。見方を変えれば、ことわざや金言などを含む定番的な表現は、耳にタコができそうな常套句でもあるのだ。しかし、頻繁に使われてきただけによくこなれているし、文化や精神の共有基盤に根ざしてもいる。そんな慣用句を適材適所的に使いこなす人には「ことば巧者」という印象を抱く。
少し迂回したが、やっと冒頭のコロケーション(collocation)に戻ってきた。コーパスという、膨大なことばの標本から、時代ごとにどんな慣用句の頻度が高いかということがわかる。そして、慣用句というのはおおむね二語以上で表現されるから、ことばとことばのつながり、すなわち「こなれた連語」の事例があぶり出されてくる。手元の日本語コロケーション辞典を適当にめくると、【調子】という項目があり、相性のよい動詞と連語になった「調子が出る」「調子が外れる」「調子に乗る」「調子を合わせる」「調子を崩す」が挙がっている。
広告の見出しや実験小説の表現、それに新商品の命名などでは、時折りコロケーションを崩す冒険を試みる。新しい語の組み合わが注意を喚起しアヴァンギャルドな効果を出すからだ。しかし、ふだんのコミュニケーションになると話は別で、スムーズに二つ以上の語がつながるほうが文意がよく伝わるのは当然。だから、こなれ具合が悪いと耳障りで、肝心のメッセージに集中できなくなってしまう。
二つ三つの語が慣用的に手をつなぎ、一語のように機能するのがコロケーション。形容詞と名詞あるいは名詞と動詞の組み合わせをそのつど考えていては話がはかどらない。だから、ぼくたちはコロケーションを身につけて言語活動を省エネ化しているのだ。コロケーションセンスを磨く近道は、アタマで覚えるのではなく、口慣らしによる身体への刷り込みに尽きる。自分が気に入っていて波長の合う、よくこなれた文章を音読するのがいい。必ずしも名文である必要はない。