いったい何が正しいのか?

二ヵ月前のゴールデンウィークの話。高速道路の渋滞の様子をテレビで見ていた。まるで静止画面を見ているようだった。いや、対向車線が流れていたので、かろうじてそれが生中継であることがわかった。車を運転しない、というか所有していないぼくから見れば、渋滞することを100パーセント想定しながら、なぜそこに入ってしまうのか、不思議でならない。もしかすると、ドライバーにとっては行列のできるラーメン屋に並ぶ程度の覚悟で済ませることができることなのか。

どちらかと言うと、世相を批判的に見る傾向があるぼくだ。「この高速道路を走る、いや歩くように動く自動車のドライバーたちは、みんな間違っているのではないか。正しいのは渋滞する高速道路以外の道を走っている人たちであり、もっと正しいのは車に乗っていない人たちであり、さらにもっと正しいのはどこにも出掛けずにじっとしている人たちなのではないか、そしてもっとも正しいのはこのようなことを考えているぼくなのではないか」と、気がつけば、とても危険な独我的思考に陥りそうになっている。

自惚れ過剰に注意しながら冷静に考えてみる。「55日が帰省のUターンラッシュと聞いていたので、今日(54日)に帰ることにしたんです。そうしたら、この状態で……」と、家族連れの三十代後半らしき男性がテレビのインタビューに答えていた。これは、やっぱり愚かしくはないだろうか。呆れ返るほどの愚かしさなのではないだろうか。


彼の推論を推論してみよう。「5日に混む」と誰が言ったのか知らないが、たぶんテレビのニュースでそんなふうに報道したのだろう。それで、彼は「5日を避けるのが賢明だ」と考えた。彼だけがひそかにこの情報を小耳に挟んだのならばこれでいい。だが、情報源は公器たるテレビであった。大勢がこの情報を入手したに違いない。彼のみならず、その他大勢が「5日を避けて、4日に戻ったほうがいい」と判断するのは当然だ(6日も休日だったが、7日から仕事が始まるので、6日にずらすよりは4日に変更するのがノーマルな決定だろう)。

しかし、ここで推論をやめずに、もう少し続けてみればどうなるか。「ちょっと待てよ、みんなオレと同じように4日に早めようと思うから、4日が混むのじゃないか。それなら当初の予定通りに5日に戻ればいい」――こういう演繹的導出もできたはずである。55日で正解!? 残念ながら、これも正解とは言い切れない。

なぜなら、その他大勢もここまで考えるかもしれないからだ。逆説的に事態を読み続けることはできる。しかし、どこかで読みをやめないかぎり意思決定などできなくなる。結果から言えば、4日が大渋滞になり5日はさほどではなかった。彼は予定していた5日を変える必要はなかった。だが、実際は変えた。他の大勢も(おそらく彼と同じような推論パターンを経て)変えた。変えなければよかったのに変えたしまったのが不特定多数の心理だったのか。真相は絶対にわからない。


確実に言えることが二つある。一つは、上記のような推論ゲームにぼくが参加しなかったという事実。もう一つは、ゲーム理論では何をどこまで読むかを自分が決めなければならないこと。ジャンケンで相手が「グーを出すよ」と言い、それを素直に信じてパーを出したらあなたが勝つかもしれない。いや、そんなの信じられないと考えて、パーを出すあなたに対して相手がチョキに変えると予想し、ならばとあなたはグーに変化……この読みは無限に続く。「相手がグーを出すよという情報」があってもなくても同じだということがわかる。グー、チョキ、パーで勝敗が決まる閉じたゲームにもかかわらず、永遠に踏ん切りがつかない。どこまで読むかもさることながら、読むのか読まないのかに関してもいずれが正しいかはわからないのである。 

情報はなかなか「知」にならない

数えたことはないが、年間延べ何千人という人たちに話を聞いてもらう。「延べ」だから、ぼくの話を十回近く聴く人もいる。言うまでもなく、同じ話を十回も聴いてくれる落語ファンのような人はあまりいない。つまり、ぼくの話を十回聴く人は、十種類のテーマの話を聴いてくれている。「プロとはいえ、異なったテーマの話を準備して、いろんな対象に話をするのは大変でしょう」とねぎらっていただくことがあるが、聴くことに比べれば話すことなどまったく大変ではないと思っている。

アウトプットの前にインプットがある。記憶力の良し悪しが問われる前に「記憶したかどうか」が問われる。何もせずに表現上手などということはない。どこかで表現を仕入れていなければ上手にはなれない。人が何事かを成している前段階では必ず何事かの仕入れがある。そして、前段階なくして次の段階がありえないように、聴く(あるいは読む)という認知段階は知的創造力に決定的な影響を及ぼす。わかりやすく言えば、学ばなければ使えるようにはならないのである。


だが、インプットとアウトプットのこの法則はなかなか成立しない。なかなか成立しない関係を法則と称すること自体おかしな話だが、必ずしも矛盾ではない。法則というのは「ある一定の条件のもとならば、つねに成り立つ」ものだから、裏返せば、「ある一定の条件を満たさないと、成り立たない」ものであってもよい。「多種多量の情報は知力の源になる」――この法則が成立するためには、(1) 取り込まれた点情報どうしが対角線を結び、かつ(2) 推論という思考の洗礼を受けることが欠かせない。

理屈上、知力10の人が取り込める情報は10である。この傾向は加齢とともに色濃くなる。つまり、ぼくたちは自分の知力でわかる範囲の、都合のよい情報だけを選択するようになる。人の話を聴いても知っていることだけを聴く(これを確認と言う)、本を読んでも納得できることだけを読む(これを共感と言う)。つまり、知らないことやわからないことを拒絶しているのだ。

もうお気づきだろう。この論法だと、人は永久に進化できないことになる。情報や知を「ことば」に置き換えてみよう。生を受けた時点でのことばの数はゼロ。知力ゼロだから何を学んでもゼロということになる。しかし、実際、乳幼児はゼロをに、2に、24にというふうに累乗的に語彙を増やしていく。知力が10であっても、その倍の情報をどんどん取り込んでいく。ある年齢までは、情報に接すれば接するほど、よく身につき知になっていく。


生きることが関係しているから、必死に情報と情報を結びつける。行間を読み文脈を類推する。知っている5つの単語で一つの知らない単語をからめとって理解しようとする。これによって、先の法則が成り立つのである。ところが、こうした対角線を引き未知を推論する努力を怠るようになってくる。自分が出来上がったと錯覚するのだ。

結論から言うと、いい大人になって思考力が身についていないと、いくら学んで情報を取り込んでも知にはならないのである。先ほど年齢と関わると書いたが、ここで言う年齢とは思考年齢である。だから、二十代・三十代であっても、いくら勉強しても知が拡張しない症状は起こりうる。