再来週から京都で4年目を迎える私塾の第1講と第2講の講義テキストを併行して仕上げている。実は、まだだいぶ先の5月のほうが進んでいて、間近の『テーマと解決法の見つけ方』のほうに少しアタマを悩ませている。とか何とか言いながらも、テキストは明日仕上げるつもり。
話し慣れたテーマなのだが、いつも同じパターンではおもしろくない。そこで、仕事やビジネスの問題・課題と、プラトンから始まる哲学命題のいくつかを重ね合わせて新しいソリューション発見の切り口を提供しようと考えた。しかし、実際に考え編集していくと、きわめて無茶な試みであることがわかってきた。とても難解になってしまうのである。自分で悦に入っても、塾生にはチンプンカンプンの可能性がある。さりとて、もはや「やっぱりや~めた」というわけにもいかず、思案した挙句にテキストを「です・ます」で書くことにした。
順調にテキストの半ばまでそのように書いてきた。そして、出来上がったところまで再読したところ、「です・ますの欺瞞性」に気づいてしまった。「問題が山積する時代だ。完璧なる正解でなくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減する。」とふだん記述するぼくが、「問題が山積する時代です。完璧な正解が出なくても、問題の原因に少しでも斬り込める解法を携えることができれば、時間と苦労は半減します。」と書いているだけの、情けない一工夫だったのである。
これで硬派な文章がやわらいだ気になるのは、どう考えても錯覚である。その錯覚を利用する書き手の思いは欺瞞に満ちている。やっぱり「です・ますは、や~めた」とさっき決意し、午後から書き直すことにした。
「哲学入門」や「よくわかる哲学」などと題された本を読んでみて、何だかよくわかるような気がするのは、ひとえに「です・ます」の巧妙な罠のせいである。形而上学的な概念を表現するときは、概念そのものの専門性を控えるべきであって、文末で難度ショックをやわらげるなどというのは姑息な手法なのだ。
「君は何歳?」を「ぼく、おいくちゅですか?」と言い換えられる日本人の、言語表現における相手に応じた変わり身は大したものだと思う。だからと言って、「年齢を問う」という、実は高度な(?)抽象概念が変化しているわけではない。あるいは、厳密に言えば、表現がやさしくなっているわけでもない。年齢や性差に応じた表現バリエーションが豊富であるがゆえに、やむなく使い分けているにすぎない。
とにもかくにも、好んでぼくの話を聞きに来る人が、「です・ますオブラート効果」でわかりやすいと感嘆するとも思えない。いや、何人かいるかもしれないが、そんな類の梯子を使って彼らのところに降りて行くのなら、別の階段を用意してこちらの方に上がって来るように仕掛けるべきだろう。どんな階段? それは編集構成のわかりやすさである。