思い立ったが吉日

「思い立ったが吉日」は、「思い立つ日が吉日」という表現もあるように、思いついた日をよき日として物事に着手せよという意味。その昔、仕事や生活も現在とは比べようもないほどゆっくりだったから、「日」でよかったに違いない。今なら、「思い立つ その瞬間が 吉時間」と、時・分・秒のアレンジが必要だ。


一昨日、昨日と特急内で難しい本を読み耽っていた。昨日、大阪梅田経由で帰りがけに書店に立ち寄り、『続・世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)を見つけた。前作は3年前に読んでいる。他にも同じ著者のジョーク集を3冊ほど拾い読みしている。「こいつ、本ばかり買って……」という己の自戒のつぶやきもあったが、疲れているせいか、一笑いしてみたらという慰労の声も聞こえた。本を手に取らずに迷っている。そして決めた、適当に開いたページのジョークがよければ買おうと。結果、思い立ったら吉日とばかりに買ってしまった。そのジョークがこれ。

日本人がアメリカ人に言った。
「最近、新しいジョークを仕入れたんだ。もう君には言ったかな?」
「どうだろう。そのジョークは面白いの?」
「ああ、とても面白いよ」
「そうか、じゃあ、まだ聞いてないな」


笑えなかった人、ゆっくり話を追い直してみよう。わかったけれど、さほどおもしろくなかった人、「ごめんなさい」。大笑いした人、「そこまで笑うことはないかも」。

さて、一昨日の講座。話が来月の講座『ことば――技巧の手法』に脱線したとき、「ボキャブラリーの質量と自分の世界が比例する」という話を紹介した。正確に言えば、「私の言語の限界とは私の世界の限界を指している」という命題番号5.6の話だ。これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』からの引用。ふつうの人には難解すぎて歯が立たない。ぼくもその一人だが、「ことばと論理」は企画の仕事と講座テーマには欠かせないので一応勉強はする。

目の前に座っていたKさんが、即座にメモして聞き取りにくかったウィトゲンシュタインの名前を確認された。「またいつか」ではなく、その場でチェックする。Kさんがこの超難解なユダヤ人哲学者の本をひもとくのかどうかはわからない。しかし、思い立ったこと同様に、気になったことは聞く、またはメモする。こういう吉日志向の人にぼくは老若問わず敬意を表する。


リスクがないのなら、「思い立てば即実行」がまずいはずはない。仮にリスクがあっても自分一人でどうにか回避したり面倒を見れるならば、案ずるより実行を取るべきだろう。しかし、例外もある。リスクを回避してくれ、また差し迫ったマイナスにならないのなら、「検証中につきしばらく留保」という手がある。いくら思い立ったが吉日と言っても、理性ある大人の世界にあっては「無思考即実行」では話になるまい。