中世の街のフレーム

井上陽水に『長い坂の絵のフレーム』という歌がある。すんなりと意味が伝わってこない歌詞が静かなメロディーで紡がれる。主題はさておき、「♪ たそがれたら街灯りに溶け込んだり……」という一節を旅先で体感することがある。

目にする街の風景は時間帯によって移り変わり、感受する旅人の気分も変わる。いや、変化を仕掛けているのは時間の流れだけではない。もっとデリケートなのは観察者の視座だろう。立ち位置が意図したものか偶然だったのかという違いはどうでもよく、どこから何を見たのかが後日の回想に大きな意味を持つ。

数年前までイタリアの中世都市によく出掛けた。古代もいいが、ルネサンス前後の中世の名残りをとどめる街並みが気に入っている。街歩きをしていると、地上のシーンだけでは飽き足らず、塔の上から街全体の構図を俯瞰したくなる。どちらかと言うと高所は苦手なのだが、景観のご褒美は少々の恐怖を帳消しにして余りある。

 ボローニャではいつ倒壊しても不思議でない斜塔の、きしむ木製階段を慎重に踏みしめて上り、ベルガモでは下りてくる人と背中合わせになるほどの狭い階段を昇った。どの街でも、塔の先端の眺望点に立てば深呼吸を忘れるほどのパノラマに目を奪われる。だが、見惚れてしまうのはパノラマだけではない。

Toscana1 164 web.jpgフィレンツェのジョットの鐘楼の半ばあたり、街の一角が絵のように嵌め込まれたフレームがあった。この写真のような風景の見え方を「借景」と呼ぶ人がいるが、正しくない。借景は、遠くの景色や近くの樹木などをあたかも自分の庭の一部のように見立てること。自分の庭園と外部の遠景のコラージュと言うのがふさわしい。窓越しに風景や街並みを額縁で囲むのは借景ではなく、建物の構造が成せる景観の〈切り取りトリミング〉と言うべきだろう。
 
偶然出くわすこの切り取りがパノラマの印象を凌ぐことがある。パノラマがぼくたちを圧倒して受動的にさせるのに対し、フレームの絵はぼくたちに意味を探らせようとする。円窓や小窓越しに見る景色は全体のごく一部にすぎない。フレームの外はどうなっているのかが気になり、街の文脈を読み始める。上り下りする人たちの迷惑にならないのなら、ずっと覗き続けていたい衝動に駆られる。これは雪見障子によく似た演出ではないか。
 
このフレームの向こうに街のすべても中世という時代も見えない。ましてや世界や未来が見えるはずもない。いったい何が見えるのだろうかと問うても、陽水の歌の解釈に似て焦点は定まらず、不可解である。ただ、何を見て何を考えて何を語っても、ぼくたちはフレーム内なのだという諦観の境地に入り、ある種の謙虚さに目覚めるような気がするのである。

付箋紙メモの行き先

いろいろと自問していることがおびただしい。問われていることも多数、ここに依頼されているテーマが上乗せされて、少々収拾がつかなくなっている。かと言って、忙しくなったり慌ただしくなったり気が急いたりしているわけではない。ただ、何と言うか、散漫としていて焦点を絞り切れない感覚に陥っている。こういう感じを「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」とぼくは呼んでいる。

「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」に良いも悪いもない。その状態は価値判断と無縁の現象にすぎない。もし無理にでも意味を見い出そうとするなら、どちらかと言えば好ましくないことが一点だけある。それは、ここまで書いてきてもなお、頭の中は一行メモの付箋紙で溢れ返っていて、何を書こうとしているのか未だに定まっていないことだ。カオスの中からカオスをなだめる術は生まれてこない。カオスの状態は外部からの強い刺激か、あるいは外部に対する執拗な働きかけによってのみ秩序へと向かう。

考えたい・深めたい・広げたいテーマが山ほどあって、思考・深耕・展開への意欲も指向性も強いのだが、何から手をつけて何と何を関連づけていくかがよく見えない。誰もが身に覚えがあるはず。抱えているすべてのテーマについて、浅瀬で逍遥している時間が延々と続くのだ。繰り返すが、それでもここに良し悪しなどない。なぜなら、一寸先は闇かもしれないが、視界の開けた眺望点かもしれないからである。


秩序へ向かう一つの方法は、一枚の付箋紙だけを偶発的に取り上げて、他を見えないところに格納してしまうことである。今日のところ、こうして手元に残ったのが「事業の目的、顧客の創造」というメモである。ピーター・ドラッカーのあまりにも有名な次の箇所が、この付箋紙メモの発端になっている。

If we want to know what a business is we have to start with its purpose. And its purpose must lie outside of the business itself. In fact, it must be in society since a business enterprise is an organ of society. There is only one valid definition of business purpose: to create a customer. (……)
「事業とは何かを知ろうとすれば、まず事業目的が出発点になる。しかも、事業目的は事業それ自体の外部に見出さねばならない。実際、企業は社会の一器官であるから、事業目的は社会にあってしかるべきだ。唯一妥当な事業目的の定義は顧客の創造である」(拙訳)

事業目的が顧客の創造であり、それがすべてで最終目的であるという議論を、いろんな機会に耳にしてきた。しかし、目的と手段がある時、なぜ目的のほうが手段よりも重要なのかを説明できた人はいない。このドラッカーの説を引く人たちは、事業目的が顧客の創造にあるのだから「それが一番重要だ」と、あまりにも短絡的なのである。人生の最高善であり最終目的を「幸福」だとする時、その幸福に近づく行程や手段を重要度で下位に見立ててよいのか。ノーである。上記の文章から三、四段落後に書かれている次の文章と併せて考えてみる必要がある。

Because it is its purpose to create a customer, any business enterprise has two――and only two――basic functions: marketing and innovation.
「事業の目的は顧客の創造であるから、いかなる企業も二つの、たった二つの基本的な機能を持つことになる。すなわち、マーケティングとイノベーションである」(拙訳)

マーケティングとイノベーションという機能によって顧客の創造へと向かう……これが事業なのだというわけである。一点注目せねばならないのは、顧客の創造の「顧客」が原文では“a customer”と「一顧客」になっている点である。決して集合名詞ではない。ドラッカーに与するかそうでないかの前に、きちんと解釈だけはしておきたいものだ。この先いくら書いても一晩で答えが出るわけでもないのでここでピリオド。続きはいずれ取り上げるが、ビジネスマンなら暇な折りに一考する価値があると思う。


脳内が収拾不能になったら、とりあえず上記のように書いてみることである。何もしないよりもきっと少しは見晴らしがよくなるはずだから。