愛読書は何か、どのジャンルの本をよく読むのかと若い人たちに訊かれることがある。意地悪する気はないが、「ない!」と即答する。「ない!」と答えた上で、「本ではないけれども、ノートならよく読む」と付け加える。きょとんとした顔に向かって「ぼく自身のノート。それが愛読帳」と追い打ちをかけると、たいていきょとん顔が怪訝な顔に変化する。
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話をする人、耳を傾ける人
昨日と一昨日、二日間の企画研修を実施した。アタマも話も大丈夫だが、毎年少しずつ足腰に負荷がかかる。適度に立ったり座ったりし机間を歩いたりしていればいいのだが、熱が入るとついつい同じ場所に立ちっ放しで喋ってしまう。最近パワーポイントを遠隔操作できるリモコンを使い始めたので、ずっと立っていることが多くなった。座って話をするよりも立って語りかけるほうが性に合っているので悲観すべきではないが、歳相応に足腰を鍛錬せねばならないと実感する。
身体のどこかに不調があると、話しぶりに支障を来たす。さすがにキャリアを積んできたので、体調管理には気を遣っている。出張や研修の前には飲まないし人付き合いもしない。夜更かしは絶対にしない。したがって、過去に絶不調で研修や講演を迎えたことは一度もない。それでも、少々肩や背中が痛かったり足がだるかったりすることはある。たとえばふくらはぎや土踏まずに痛みがあると、話しながらも神経がそっちに過敏になったりする。
脳の働きと身体の調子と言語活動は密接につながっている。いや、一体と言ってもよい。アタマが活性化していない、あるいは身体が変調であるという場合には、満足のいく話ができない。但し、それは、調子のいい時と比較する話し手側の自覚であって、初対面の受講生が「今日の講師は調子が悪そうだ」などと認識することはない。彼らは、これまで受講した講師と比較して「今日の講師は下手くそだ」と判断するだけである。
講師と受講生、すなわち話をする人と耳を傾ける人の講義品質に対する評価は同じではない。話す側の自画像と聞く側の描く他者像が一致することは珍しいだろう。仮に一致していようと不一致であろうと、アンケート以外に知るすべはない。しかも、アンケートが受講生たちの所見を素直に表わしているともかぎらない。話す側が意図する効果・演出と、聞く側が期待する学習成果もだいたい乖離しているものである。
ぼくの研修や講座における意図は内容によっていろいろだが、おおむね五つに集約できる。それらは、(1) 新しい発見、(2) 好奇心をくすぐる愉快、(3) 適度にむずかしい、(4) 有用性、(5) わかりやすい、である。
ぼくにとって、話が受講生にとってわかりやすいことは最重要ではない。背伸びもせずに余裕綽々でわかってしまうような話では、後日あまり役に立たないのだ。つまり、(5)は(4)の妨げになることがある。ゆえに、(4)のためには(3)において手を抜けない。しかし、(3)への挑戦意欲を維持するためには(2)が必須になる。むずかしくても楽しければ集中が持続するものである。その結果、貴重な時間を費やしてもらうに値する新しい発見をプレゼントすることができる。以上の目論見を逆算すれば、上記の優先順位がぼくの意図になる。
塾生のIさんが先日のブログで、「岡野先生の話はおもしろい。でも、むずかしい」と評していた。ぼくの意図からすれば、ほぼ最高の褒め言葉である。そして、彼は時々講座で話した内容を「新たに学び発見した事柄」として取り上げてくれている。思惑通りに上位の三つが伝わっているのだ。自惚れてはいけないが、手応えを感じる。よし、有用性とわかりやすさにも一工夫をという気になってくる。