好物の干し柿をいただいた。水分がほどよく残っていて深い甘みのあるあんぽ柿である。柿は日本人にとってなじみのある果物なので、日本原産だと思われているが、どうやら奈良時代に中国から伝わったというのが真説のようだ。この起源説を知ると、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)という句によりいっそう親近感を覚える。
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「座右の銘」考
二ヵ月ほど前に、本ブログで座右の銘について一行だけさらりと書いた。「忍耐と寛容は、三、四番目にランクしているぼくの座右の銘……」というのがそれだ。明らかに複数の座右の銘を想定している。ところが、この直後に「これはキーボードを打った勢いだ」と反省した。座右の銘が複数あると辻褄が合わなくなるのである。
そこで、フェースブックのクエスチョン機能を使って、さほど多くない友達に聞いてみたのである。「座右の銘は一つでなければならないのか、それとも複数あってもよいのか?」という問い。回答は18人。このうち10人が「一つ」、さらに、うち4人が「一つだが、変わってもよい」と答えた。残りのうち6人が「複数でもオーケー」、あと二人が「ケースバイケース」であった。念のために記しておくと、『新明解』には「常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉」とある。この定義によれば、一つでも複数でもよさそうなので、ケースバイケースも含めて全回答が妥当ということになる。
三方よしで終わらせてしまうとせっかくのクエスチョンが生かされない。というわけで、初出とされている『文選』に再度あたってみた。古のお偉方たちは、新明解が定義するようなことばを鐘や金や石碑などの器物に「刻んだ」のが由来である。簡潔な一文の銘もあれば、一篇の詩句体裁の場合もあった。座右であるか「座左」であるかは、この際あまり重要ではない。
さて、銘は唯一不変か、唯一可変か、それとも種々あってよいものか。単純に考えれば、器物に刻むのは終生変わらないと覚悟したからに違いない。そうでなければ、メモ用紙か何かに書いておけばいい。もっといいのは鉛筆で書いておけばいつでも消せる。しかし、この時点ですでに銘の精神に反している。ある人に座右の銘を揮毫したものの、数年後に人生観が変わったという理由で別の銘を揮毫していては、「いったいどこが座右の銘なのか」と茶化されてもしかたがない。
相手に応じてそのつど座右の銘を変幻自在に書き分けたり唱え分けたりするのも奇妙である。複数の座右の銘を掲げていれば、揮毫を求めてきた相手に応じていずれかを選択することになる。まるで日替わりであるから、良識ある他人は言うだろう、「いったいあなたの正真正銘の座右の銘はどれか?」と。いや、他人の意見などどうでもいい。座右の銘は己への言い聞かせだ。銘として刻もうと心に誓ったのならば、そう易々と取り替えたりキャンセルしたり品揃えしたりしていいはずがない。
もし座右の銘を変えるとなれば、結果的にそれは座右の銘に値しなかったことになる。また、複数あれば銘どうしの間で諸矛盾やニュアンスの相違も起こるだろうから、それらは流動的な好きなことばの域を出ていない。どうやら人生道半ばの若輩にとっては、座右の銘などは不変的に定まりそうもない。「もうオレの人生の教訓は、ただ一つ、これしかない。何が何でも生涯これで生きるぞ」と覚悟を決めた者こそが、座右の銘を刻み謳うことができるのではないか。まだ変わるかもしれぬ、一つに絞り切れぬという状況では、座右の銘は時期尚早なのだ。
未熟なぼくなどは目先の金言格言にのべつまくなしに目を奪われるので、めったなことでは座右の銘などと口走ってはいけないことがわかった。これまで座右の銘だと思っていた教えの数々を、今日から「座周辺のお気に入り」と呼ぶことにする。座右の銘、未だ定まらずである。