何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

読書の方法と揺れ動く心

過去に大した読書習慣を持たなかった人が一念発起して本を読もうと決意した。しかし、その気になったものの、どんな本をどのように読めばいいのかさっぱりわからない。そこで手始めに読書術や読書論に目を通すことにした。読んでみると、何だかわくわくしてくる。本をこんなふうに読めばさぞかし楽しいだろうと、いよいよ「その気」になってきた。ところが、読書の方法と推薦図書の書名に精通してきたものの、いつまでたっても読みたい本に手をつけられない。気がつけば、読書術と読書論の本ばかり読んでいた……。


よく似た話に、「○○入門」ならあれこれと手広く読むくせに、本家本元の「〇〇」の著作を一度も読んだことがないというのがある。たとえば「カント入門」や「よくわかるカント」の類いに目を通し、『純粋理性批判』や『啓蒙とは何か』は読んだことがない。と言うよりも、これらのカントの哲学書に挑戦するために入門書や指南書を読んでいるわけでもなさそうなのだ。いずれにしても、誰かがカントについて書いたものとカント自身が書いたものは同じではないことだけは確かである。

読書の方法を説く書物はおびただしく、ぼくの書棚にも、古くは『読書について』(ショウペンハウエル)から最近の『多読術』(松岡正剛)まで十数冊が並ぶ。ただこれらの本の数ほどぼくは熱心な読書術の読者ではなく、誰かの意見を参考にすることはあまりない。二十代まではいろいろと漁って読みはしたが、記憶に残っているのは、若かりし加藤周一が昭和三十年代にカジュアルに書いた『読書術』のみ。そして、なるべく文庫本を買うことと、本を読まずに済ませる方法の二つを学んだ。ぼくにとって偉い人たちが書く読書術の大半は、ぼくの方法を客観的に検証するチェックシートにすぎない。


読書の本ではないが、「読んだ本から山のような抜き書きをして、それに『注釈』めいたものを書き連ねることをやめて伸びやかになった」(鷲田小彌太)などの、読んだものは忘れていいという潔い考え方もある。膨大な知識や情報をアタマ以外のところに蓄積できるようになったから、こういう思い切りのいいことが言えるようになった。アタマは記憶のためにではなく思考のために使え、というわけである。

この考えに与しないわけではないが、メモや抜き書きには効能もある。熱心な読書家でもないぼくには成果の確認という意味もある。それに、思考中心にアタマを使うといったところで、思考には知識が欠かせないわけだから、アタマの中に何らかの読書した情報を蓄えておいて悪いはずがない。


かつて速読術がはやり、昨今では併読術に多読術だ。これらすべてを今も実践しているが、誰かに教えてもらわなくても、読書していれば誰だって速読、併読、多読に辿り着く。同時に、これらと相反する読み方、すなわち精読や熟読や寡読の良さにも気づいてくる。こちらの読み方の延長線上には、必然的に「本を読まずに済ませる方法」も浮かんでくる。

先のショウペンハウエルの本には次の一節がある。

本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。

さもありなん。一般の読書家はゆめゆめ書物の批評家や職業的読書家や書誌学者のような読み方に影響されてはいけない。一日に一冊読んだとしても、そのこと自体何の自慢にもならない。知を蓄えるためという、ごく当たり前のような読書の位置づけすらたまには疑ってみるのもいいだろう。読んだ本の中身を若干アレンジして披瀝するのか、あるいは書物を固有の思考のための触媒にするのか――この分岐点においておそらく読書のあり方は決定的に違ってくる。