プロに期待すること、しないこと

知人の戯言たわごとも織り混ぜて気まぐれにプロフェッショナル論を書いてみる。

「ただ今の時間は薬剤師が不在ですので、この薬品は……」云々と札がかかっているドラッグストア。この時間帯、この店の店員さんに薬に関して専門的な説明を求めようとはしない。不躾ぶしつけでさえなければ、アマチュアで十分である。

以前住んでいた町内に「酒屋」と呼ぶにふさわしい、昔ながらの酒店があった。目当ての焼酎があったので尋ねたら、「知らないし、置いていない」と言う。では、やや辛口でさっぱりの麦焼酎を一本奨めてくれと言うと、「私、酒を飲まないんですよ」と照れ笑いする。タクシーに客を乗せてから、「すみません、私、運転できないんです」と言うよりはましだが、聞いてみれば、日本酒や焼酎のことをほとんど知らないのだ。「じゃあ、(新しい銘柄の何々)ビールを2缶ください」と言うと、「あ、冷えてないんで、表の自動販売機で買ってもらえますか」。忍耐と寛容は三、四番目にランクしているぼくの座右の銘なので、これしきのことでキレることはない。

ここ何年も行っていないが、ステーキと伊勢エビ専門の鉄板焼店でのシェフの手さばきは見事だと思う。少々デフォルメが過ぎるが、あれだけの料金を取るのだから、あれぐらいのエンターテイメントをしてもらってもいい。ところが、家庭用プリンターのインクカートリッジの販売に手さばきは余計だろう。若い男性店員が「お求めはこちらですね」と言って、棚から小箱を、まるでマジシャンのように指先で回転させるように引き寄せたのである。申し訳ないが、この技をぼくはプロに期待していない。

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プロフェッショナルと呼ばれているなら、楽な商売をしていてはいけない。そもそも、プロは小さな技術や経験の「足し算」で成り立ってなどいないのだ。英語、数学、国語などの教科の成績の合計がその学生の全人格を象徴しないように。辛口で言えば、「日々コツコツ努力していること」を自慢すべきではないのである。精度の高いルーチンワークを積み重ねた足し算だけでは不十分で、「掛け算効果」でぼくたちを圧倒するのが正真正銘のプロだろう。但し、掛け算だから、一つでもゼロがあるとすべてがゼロになる。それでこそ、厳しいプロの世界ではないか。

手間暇かけて素材を厳選し、レシピには独自の工夫を凝らし、見事な皿に繊細に料理を盛りつけるフランス料理店。そのフレンチの厨房の奥から電子レンジの”チン”の音がして、それが仕上げの温めだったりするとがっかりしてしまう。これではコンビニ気分にさせられる。いや、黙って”チン”するシェフよりも、一言「温めますか?」の声を掛けるコンビニの店員さんが良心的に見えてくる。

もし主婦が自分一人のお昼を冷凍うどんで済ませようと思うのなら、レンジで”チン”して生醤油をかけて食べればいい。何なら生卵を一つ落としてもいいだろう。しかし、テレビのコマーシャルではないが、ネギを切り、ゆずを用意し、自分で天ぷらまで揚げたのなら、冷凍うどんではなく、少なくとも半生のうどんをじっくりと七、八分間見張るように茹でてほしい。

プロに期待することを暗に書いてきたつもりだが、プロにとってもアマチュアにとっても「とことんやること」と「上手な手の抜きどころ」は同じなのかもしれない。

語句の断章(4) 安い・安っぽい

ことばは〈差異のネットワーク〉だから、違いを踏まえて複数同時に覚えていくのがいい。一つずつ順番に覚えていくのは効率が悪い。新たな語を学ぶたびに、既知の語の意味を微妙に修正しなければならないからだ。中学英語で“cheap”を教わったときは、品質が劣っているというニュアンスまでは知らず、「安い」と覚えた。高校英語で“reasonable”(お手頃な)や“inexpensive”(低価格の)に出合ってから、“cheap”は「安い」と言うよりも「安っぽい」に近いことを知った。

かつて「安い」と「安っぽい」が同義の時代があった。中学で英語を学んでいた1960年代の前半、日本製品には「安かろう、悪かろう」のイメージがこびりついていた。「安っぽい」は値段は安いが品質も悪い製品を表わす表現であった。長らくの間、安価は高価に対して質的にも劣るというイメージを背負ってきた。

だが、「安い」と「安っぽい」は本質的に同じではない。5段階で言えば、かつてはクラスAに対して、安いはクラスE(=安っぽい)だったが、今ではクラスCやクラスBにまで地位を上げてきた。価格の差ほど品質の差がなくなってきたのである。

低価格で品質に不満がなければ、高価格・高品質が苦戦するのもうなずける。高価格・高品質組は、ステータスとブランド以外に何か訴求点を見つけないと、先行き危うくなるだろう。安っぽさと決別した「安さ」を侮ってはいけないのである。