語句の断章(8) 剽窃

学生時代、アルファベット順に英単語を覚えようと何度か試みた。今にして思えばバカらしい方法ではあるが、大まじめに取り組んだ。ところが何度も頓挫するから、気持ちを入れ替えて再び最初の“a”から始める。その結果、“abandon”という動詞だけをみんなよく覚えたはずである。この動詞、ぼくはこれまで英語の原書や雑誌で二、三度しか出くわしていない。あまり頻出しない単語なのである。

剽窃ひょうせつ」も頻出語ではない。しかし、どういうわけか覚えている。剽とは「かすめ取ること」、窃とは「盗むこと」。ゆえに、剽窃とは盗みのダブルなので強い意味になる。「へぇ~、こんなことばがあるんだ」と驚いたのは三十代半ばだったろうか。よく類義語辞典を引いていた頃だ。ほとんど盗作と同じ意味なのに、なぜわざわざ剽窃という表現を使う必要があるのかと疑問を抱いたのを覚えている。

死語にならずに生き残っている類義語には、それぞれの存在理由がある。盗作でなく剽窃でなければならない理由もある。うまく説明はできないが、単純なコピー&ペーストが盗作で、他人の作品の一説や学説そのものをいかにも自分のオリジナルであるかのように発表するのが剽窃のようである。共通概念は「パクリ」である。

情報は極限まで自由貿易され無償公開されるようになった。もはや何でもありの様相を呈している。したがって、原典の流用であるか変形であるか、インターネットからの引用であるか、はたまた「他に類を見ないオリジナル」なのか、剽窃などではなく偶然の一致であるのか……などを判じることができなくなっている。

いずれにしても、ぼくたちの誰もが「その知識はオリジナル?」と聞かれたら返答に困ってしまう。素性を明らかにできるほど知識が確かではないから、情報源を遡ることははなはだ困難だ。ぼくたちの知のトレーサビリティは、信頼できる無農薬野菜ほど高くはないのである。学んだ引用先も示さず無断で薀蓄を傾けている知識の大部分は、「剽窃だろ?」と迫られれば、素直なぼくなどは「は、はい」と言ってしまいそうだ。

剽窃と疑われたくなければ、固有経験的なオリジナリティを用いなければならない。あるいは、少なくとも誰からどのように知りえたのかの経緯または出典を示すべきだろう。わざわざ知識の起源まで調べることはないし、そんなことをしてもキリがない。ただ、できるかぎり自分がその知識といつどのように出合ったのかという記憶をまさぐってみせるのが良識というものだ。

最後にずばり書いておく。ぼくの知識の大半は剽窃でありパクリである。人の話、書物、マスコミなどからやってきたものである。但し、ぼくの意見と論拠は大部分ぼくに由来するものだと自負している。そして、意見と論拠は他者によって「知識」と呼ばれて誰かに剽窃され、稀に微かに役立ってもらえるのだと思う。人類の知の歴史は剽窃の伝承によって成り立ってきたのである。