「みんな」とは「皆」のこと。みなさんや皆様のように「さん」や「様」をつけるのならいいが、単独で「皆」は使いにくい。「皆の者」や天皇陛下の「皆の幸せ」などを連想するからである。「みな」と言えるような立場ではない、と思ってしまう。いきおい誰もが「みんな」という言い方をするようになった。「みんな」イコール「すべての人」。誰もかも。ぼくもあなたも彼も彼女も。複数にすれば、ぼくたちもあなたたちも彼らも。「みな」が「みんな」に変わるような変化は専門的には〈撥音化〉と呼ばれる。
みんなと言えば、古くは「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」(ビートたけし)。歩行者による信号無視は始末が悪いが、大勢なら大胆にやってしまっても罪に問われにくいというふてぶてしい心理か。みんなが集まることによって、強がることができる。シェルター効果もある。自分一人でありながら、全体でもある便利さ。英語の“everybody”もそう。単数扱いながら、この語は複数の人々を念頭に置いている。あの「みんなの党」にも同じようなニュアンスを感じてしまう。
だいぶ前になるが、大阪の路上駐車違反をテーマにした総理府の広報ビデオがよく流れていた。買物から停めていた車に戻ってきたおばちゃんに警察官が違法駐車のチケットを切る。速攻の条件反射でおばちゃんが、詭弁を並べてまくしたてるのである。そのセリフが「みんなやってるやんか! 私だけちゃうやん!」だった。「みんなやっているでしょ! 私だけじゃないわ!」という標準語に翻訳しておく。
この一件だけを例外として認めさせないぞという力が「みんな」には備わっていそうだ。口実にもなるし自己正当化にもなる。しかも、説明もせず理由も示さずに説得する力も秘めている。「こちらの商品ですね、皆さん、よく買われていますよ」「こちらの料理は当店人気ナンバーワンです」(これ、すなわち「みんなの御用達」)、「どなたも、これをお土産にされています」……こんな常套句に騙されてなるものかと思いながらも、気がつけば、みんな買っている、みんな食べている、みんな土産にしてしまっている。
『世界の日本人ジョーク集』(早坂隆)という本から、一つジョークを紹介しよう。
ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。
アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないでください」
日本人には「みんな飛び込んでますよ」
今では知る人ぞ知るジョークになった。それぞれの国民性が見事にワンポイントで表されている。ヒーロー、紳士の心得、規則遵守、もてる男、アマノジャクが米英独伊仏でそれぞれ象徴されている。そして、日本人と「みんな」の相性の良さ! 「自分でも特定の誰かでもなく、みんなに従う日本人」は、世界の人たちの目に滑稽に映っているのだ。「みんな」は日本人に対して〈不特定多数の匿名的権威〉という確固たるポジションを築いているようである。