早とちりから先入観へ

「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」

フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急げば、早とちりをしてしまう。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと、判断を見直すチャンスを失う。

ずっと「神山」だと思っていた洋服店の看板。道すがら目に入ってくるが、わざわざ立ち止まって注視しなかった。なにしろ神山としてすっかり刷り込まれていたのだから。ある日、カラスを目で追ったついでにじっと見ることになった。なんと「山」だった。神山も袖山も珍しいが、僅差で神山がぼくの認識に先入しやすかったようである。

テレビの番組でオードリーの春日が芸人相手にやっていたのを思い出す。「りがとうございまし」の最初の「あ」と最後の「た」だけ残して、適当に間を別のことばに変える。「リゲーターいまし」と言おうが「バラ折れまし」と言おうが、相手は状況から早とちりして「ありがとうございました」と聞いてしまう。

NHK大河ドラマは『いだてん』。ビールのおつまみに買ったのは「いか天」。大河ドラマを見ていそうな人に聞いてみる。「NHKの日曜日の大河ドラマ、『いか天』見てる?」「ああ、見てますよ」。相当はっきり「いか天」と発音しても大丈夫。文脈や語の前後関係から早とちりする。ことばを一音ずつしっかりと聞いてなどいない。白紙状態で他人の話を傾聴しているのではなく、自分がなじんできたやり方で認識しているのである。いわゆる〈認知のバイアス〉。なお、ダジャレはこれとは違う。ダジャレは違いに気づいてもらわないと成り立たない。