読書の気まま

「気ままな読書」ではなく、「読書の気まま」。はじめにしかるべき読書の姿があって、それに逆らうように気ままに読み継ぐのではない。読書そのものが本来気ままと相性がいいと考えるのである。


「そろそろ読書の集まりを再開したいですね」というメールがあった。願望か、催促か、それとも単純な問い合わせか……どういう意図だったのだろうか。読書会、会読会、書評輪講会などと名前を変えて小さな勉強会を主宰してきた。休会宣言をしたつもりはないが、気がつけば、最後の会からまもなく3年になる。「また、考えておきます」と返信した。そう答えてから数日、まだ何も考えていない。

本や読書についての私論はいくらあってもいいが、一般論はなくても困らない。本や読書は気ままが許される、珍しくも貴重な知的趣味だ。たとえば「電子書籍についてどう思うか」と聞かれ、その是非の理由を述べるには及ばない。ぼくにとって、電子書籍による読書は、ただ「非である」と言い放つだけで事足りるし、そのことを必死になって説明する必要を覚えない。「電子書籍は本を代替することはできない、少なくとも読書の気ままを失っている」と言えば済む。

どんな本を読むべきか、いかに読むべきかなどについても、他人の尺度を気にしなくてもいいのが、本の――読書の――よいところなのだ。気ままが許される。いや、誰かに許されるのではなく、自分が自分のやり方を認める。違法で捕まる心配はない。この国の今の時代、言論についてはとやかく言われるが、手に取る本と読書の方法についてはめったなことでは文句を言われないのである。


あるテーマに絞り込んだり体系的に関連付けたりして読書するには、おそらく雑多な本を買い過ぎた。生涯一万冊以上手に入れて、おそらくその半数くらいは読んだはずだが、趣旨やあらすじなどは忘却の彼方。しかし、断片的な表現やエピソードについては強く印象に残っている。なぜかと言えば、おもしろいと思ったら抜き書きしておくから。

カウボーイの古い笑い話を思い出すわ。草原を馬で駆けていると、天から声が聞こえてアビリーンへ行けと言う。アビリーンに着くとまた声がして、酒場に入れ、そしてルーレットのところへ行って持ち金すべてを数字の5に賭けろと言う。カウボーイは天の声にそそのかされてその通りにするのだけれど、ルーレットで出た数字は18。するとまた声がしてこう囁くの、「残念、我々の負けだ」って。(ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』)

こんな断片の一節が妙に響き、そうか、天の声という、一見絶対的なエビデンスも誤るのだ、知識や情報は、神の思し召しのように権威づけられていても信頼性に限度があるし、陳腐化する……。本から気ままに学ぶことがあるとすれば、それは決して記憶すべき筋書きや啓発的な知識ではなく、その場で瞬発的に一考することだと思われる。それが気ままを担保する。