2016年の年賀状

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かつてカルタ遊びは正月の風物詩の一つとして人気があった。百人一首にいろはカルタ。庶民は特に後者に親しみ、「犬も歩けば棒に当たる」などの読み上げに反応してはカルタ取りに興じた。

古今東西、一枚一枚のカルタに印された文言は処世訓でもあった。生きる上での教訓には二様あって、一つは善き言行のすすめ、いま一つは悪しき言行の戒めである。目上の人間から諭されると素直には聞きづらい道徳色の強い諺や教えも、ゲームとして親しんでいるうちにすっと頭に入り覚えたのだろう。

さて、企画を志す者の心得集を考えていた折り、ふといろはカルタが浮かんだ。正月に間に合うよう執筆編集に努め、遊び感覚を備えたわが国初の『いろはカルタ発想辞典』がついに完成した。知的作業や構想に悩む方々のヒントになれば幸いである。 


  一を知って十を考えよ
一を聞いて十を知るでは不十分。考えに到らぬ知は功が少ない。

  論も証拠も
証拠に論拠が伴わなければ、手抜きしている印象が強くなる。

  話し上手が聞き上手
聞き上手だけでは場はもたない。

  逃げては事は片付かない
整理整頓や問題解決は保守とは無縁の、攻める闘いである。

  惚れたテーマに三度は挑め
何事も回を重ねてよくなるもの。諦める前に三回試してみよう。

  ペンはキーボードより強し
文字盤を叩いても頭への刺激は小さい。書けば脳が鋭く響く。

  当意即妙がほんとうの力
想定外の事情が生じれば、備えあっても憂うことがある。

  地をよく見て図を描く
図の上手下手は前提や条件に合っているかどうかで決まる。

  理屈が付いてこその値打ち
ぽつんと置かれただけのモノは価値を自ら語ることができない。

  ヌーヴォー万能にあらず
新しさが常にいいわけではない。

  類は集まってバカになる
同類・同質は進化に逆行する。

 (……)

  わが主観に溺れるなかれ
客観でなく主観で考えていい。ただ、絶対としてはいけない。

  カタカナ語に偏見持つな
大量の外国語がカタカナ日本語になった。使わねば不便である。

  よく語りよく書けて一人前
プロフェッショナルはアウトプット型言語行動を顕在化させる。

  棚から出さぬ本はレンガ
読まぬ本はかさばって高くつく。

  礼儀過ぎて誠意足りぬ
社交辞令人間は心ここにあらず、仕事のできる者もあまりいない。

  それあれこれでごまかすな
危機管理するなら代名詞追放。

 つまらぬ空想もネタになる
たいていのグッドアイデアは元々小馬鹿にされた経緯をもつ。

 猫の手よりも自分の脳みそ
猫は傍にいない時があるが、脳みそはいつも頭の中にあるはず。

 習って慣れれば習慣となる
習うのは一瞬、だが慣れるには年単位の歳月を要する。

 楽と苦はワンセット
楽の後に苦でもなく苦の後に楽でもなく、二つは表裏一体。

  無理と道理は紙一重
たった一枚の紙で無理な話も道理あるシナリオに変わる。

  売り言葉に誠意を込めよ
買い手にホンネで約束し、その約束を果たすことが信用を得る。

ゐ  (……)

  ノーの数だけ精度が上がる
ノーは検証やチェックの別名。

  思いを言葉にする一工夫
ピンポイントの表現が見つかるまでは粘り腰で考えに考え抜く。

  苦しい時の紙頼み
腕を組んでも苦悶は増すだけ。素直に紙に書いてみるのが正解。

  やればできるは甘い慰め
ここ一番頑張っても普段できている以上の成果は生まれにくい。

  待つだけの身に果報なし
果報は寝て待て? その他力精神、厚かましいにもほどがある。

  芸は仕事の自然調味料
技術や経験だけで仕事に味は出ない。芸、遊び、ユーモアも少々。

  不思議がるほどにひらめく
なぜ、どのようにという問いが立てば答え探しの眺望が広がる。

  コンセプトはひねり出す
コンセプトはどこにもない。想いを貫いてひねり出すものである。

  絵に描いた餅は脳を満たす
食べる前にイメージを浮かべる。実用に先立つ想像が必要だ。

  出る杭だから気づかれる
出ない杭は存在しないに等しい。

  開けてびっくりポンな本
手に取らなかった読まず嫌いの本に望外の掘り出しヒントあり。

  三人寄っても知恵湧かず
三人の頭数が必要と思う時点で、三人は凡人の可能性大である。

  企画に勇気と異端発想を
時代は新しい企画を待望している。前例の真似事に出番はない。

  ゆうべの思いを今朝へと繋ぐ
アイデアは睡眠中に途切れる。線にして温めて孵化したい。

  目は時に真、時に偽を見る
百聞より一見と言われるが、目は案外偏見が好きなようだ。

  ミラクル頼みは仕事の敵
コツコツするのが仕事。やっていること以上の成果は生まれない。

  知るとおこなうは大違い
知る段階に達するのは多数。知ってから先に進むのは少数。

  (……)

  他人あってこその人間関係
関係の中心に自分を置いてもいいのは神と幼児だけである。

  モラトリアムの付け回し
仕事を先送りするグズのツケはまじめな仲間が背負わされる。

  拙速は巧遅に勝る
ウマオソよりもヘタハヤ。下手でもいいから、まずは機敏な動作。

  好きは最強の動力源
いつでもどこでも自家発電。石油も原子力も太陽光もいらない。

ん  (……)


【あとがき】 すべての諺や名言に反証例があるように、ここに紹介した教えも絶対ではない。実践効果がなかったとしても、異議申し立てはご遠慮願います。

敢えて面倒な検索

週末に古書店で『ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集』を見つけた。収録図版70点、150ページの文庫サイズだから、立ち読みで済ましてもよかったが、全六冊シリーズのうちすでに『京洛四季』を読んでいた縁があって、買って帰った。『ドイツ・オーストリア』に一通り目を通した後『京洛四季』と隣り合わせに置こうと思ったら、『京洛』が見当たらない。どうでもいいのだが、いったん気になると意地になる。ありそうな場所の本棚を丹念に探したがやはり見つからない。諦めた。日を変えると、案外容易に見つかったりするものだ。

電子書籍なら検索は便利に違いない。しかし、時間のかかる面倒な本探しも読書行為の一つだと観念しているし、若い頃からの習慣だから慣れている。用語を調べたいなら、辞書よりもウェブのほうが便利なことは知っている。ウェブなら一発検索できる。しかし、探している用語の意味だけを知れば当面の目的は完了する。そこには寄り道も脱線もない。辞書ならどうか。ページをめくり探し当てた見出し語以外に、その前後の用語が自然と視覚に入る。気になれば読んでみる。無関係かもしれない用語に望外の発見があったりする。それが楽しい。効率のよい検索だけが知につながるなどとは考えない。

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アナログノートを愛用している。長所と短所がある。そのことを十分に承知した上で35年以上続けてきた。つまり、うまく長所を生かして短所に耐えてきたわけだ。仕事柄考えなければならない。単に考えるのではなく、新しいことを考えなければならない。新しさは無から有を生み出すことではなく、既知の事柄の組み合わせである。知っていることをジャンルや時系列を越えて結ぶことである。腕を組んで脳内検索してもうまくいかない。記憶をまさぐってイメージを浮かべても雲散霧消するばかりである。記憶検索は難しい。しかし、記録検索なら何とかなる。


脳は整然とした秩序ではなく、カオスを特徴としている。カオスだからこそ知のダイナミズムが生まれる。しかし、脳を直接上手にマネジメントするには天才を要する。ゆえに、凡人は記憶したものを可視化できる作業所を用意しなければならない。記憶を文字化した記録の置き場所、それがノートである。混沌とした脳の記憶をいつでもどこでも一覧できるようにしてくれる。そんな記憶の記録帳をぼくは〈脳図ノート〉と命名し表現した。ルーズリーフ式のバイブルサイズの手帳である。前世紀の終わり頃に評判になり活用する人もかなりいたが、今ではすっかり出番の少なくなった代物だ。

考えたこと、気づいたこと、知りえたことのすべてをここに記す。あちこちに分散させないので、知識や情報は一元化できている。だいたい半年分から一年分の直近の事柄を書き込んだページを綴じている。枚数にして350枚程度、両面あるから700ページ分になる。いつも傍らに置くか携行している。日々新しいページが加わるが、それだけでは単なる記録にすぎない。たいせつなのは、書いたものを読み返すことだ。〈脳図〉を繰り返し読めば、脳のカオスの中に仮想のディレクトリーやインデックスが見つかる。まるで脳にアクセスして情報を閲覧するようなものだ。こうして新旧様々の異種情報間に対角線が引かれ相互参照が促される。関連しそうなページどうしは近接させる。ページの順番はつねに流動して更新統合される。

自分の手で書いたのだから、どこに何を書いたのか、大半は覚えている。もちろん探すのに手間取るのは日常茶飯事だが、ページを繰っている過程で探している情報と無関係なページに出くわす。この偶然が偶察になり新しい知を触発してくれる。DropboxEvernoteも使っているが、それらは写真や大容量ファイルやウェブページの切り抜きを保存するため。たまに図書館のように利用することがあるが、ぼく自身のアイデアや観察や読書の抜き書きはそこには書かず、すべて〈脳図〉にしたためる。

こんな話をすると、ある人は啓発されて試してみようと言い、別の人は「やっぱり検索が不便だと思う」と言う。「この時代に、今さらノート?」と懐疑する人もいる。たしかに、アプリやソフトを使えば一元化もできるし検索もうんと楽になる。しかし、統合作業は結局自分でやるしかないのだ。仮にAIで統合できる時代が来たとしても、自分という個性的存在が編み出すアイデアが欲しいのであって、統合の省力化をしたいのではない。過去様々な知的生産の技術が生まれては消えたが、古典的なアナログノートは知の一元化と統合にめっぽう強いのである。手間暇がかかり面倒である。しかし、料理と同じで、即席よりはかなりおいしい結果になる。

悲しき食品

自分で調理するにせよ店で食べるにせよ、一人の食事で食べものを残したことはない。好き嫌いがまったくないからでもあるが、食べられる分しか作らないし注文しないからである。しかし、数人または団体での食事となると、料理は残ってしまう。食べられた量よりも多い食べ残しは悲惨な残骸と化す。これをMOTTAINAIもったいない“の精神で使ったりすると、横流しだ、使いまわしだと批判される。ゆえに捨てる。

直近のデータによると、わが国の食品廃棄量は年間1,900万トンとのことである(2,700万トンという数字をはじき出している調査もある)。何かと比較しなければ、この数字がどの程度なのかを想像するのはむずかしい。さらに、この数字とは別に、まだ食べられる消費期限・賞味期限内なのに捨てられている、いわゆる「食品ロス」が500万~900万トンと推定されている。要するに、捨てられる食品の総量は2,500万~3,000万トンという数字に達するらしいのである。

こんなふうに数字を挙げられて、「すごい」と驚いたり「ひどい」と嘆いたりできるはずもない。力士の体重150キログラムなら、「そうか、自分の倍くらいか」などと類推できるが、なにしろ1,000万トン単位の重量である。想像の範囲には収まらない。重量だからわかりにくいと思うのなら、金額換算してみればどうか。実際、換算されたデータがある。総額100兆円を超すそうである。百万円や一千万円、頑張れば、あの強奪事件の3億円くらいまでなら何とかついて行けそうだが、兆までは無理である。


大きな数字というのは、左から右へとやり過ごされる幻想だとつくづく思う。しかし、わが国の食品事情をもっとわかりやすく嘆き悲しむ手立ては、ある。まず、「食べられるのに捨てている」という事実がひどいのである。何百グラムでも何万トンでも関係ない。次に、わが国の食料自給率はカロリーベースで39%であり、残りを海外から輸入している。上記で示した食品廃棄物の数字は、輸入食料の半分に相当する。つまり、海外から買い付けておいて、その半分を捨てている勘定になる。これはかなりひどい。

ひどさを痛感するとどめは、食品廃棄の総額がほぼ東京都のGDPに匹敵するという事実だ。東京都の年間総生産が灰燼に帰し水泡に帰しているのである。東京を一国に見立てれば、GDPランキングで世界の16位になる。以前、世界ランク54位のニュージーランドのGDPがウォーレン・バフェットとビル・ゲイツの総資産の合計と同じと聞いてたまげたことがあるが、わが国の食品廃棄の実情には腰を抜かしそうになる。

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捨てるために食品を輸入し、捨てるために食品を加工しているようなものである。もし10個作って売るために11個が必然で、1個が「間引き」扱いされるのならやむをえない。この程度の売れ残りや期限切れには理解を示そう。しかし、最上流に位置する大手企業の、計画通りにならない作り過ぎこそが元凶なのだ。元凶はけろっとしてちゃんと儲けている。横流しや使いまわしも低俗だが、そうさせているのはいったい誰なのかを見極めておかねばならない。

残りものの食品が廃棄物という名に変わるのは、社会が効率やシステムを優先する文明指向だからである。文明というのは厄介で、後戻りを許さない。不法な横流しは論外として、「食品→廃棄→再食品化」に何の問題もない。これこそが本来の食文化の姿ではなかったか。しかし、作り過ぎは食文化の文明化にほかならない。グルメ大国だの食の宝庫だのと言ってみても、単に腹八分目の節度と美学を放棄してしまっただけの話ではないか。解決策は一つしかない。廃棄してもなお利益が生み出される構造を消費者が幇助しないことだ。上手に無駄なく食べることが「悲しき食品」を救い、無駄を作って上手に儲ける食文化の敵を追放するのである。

気の向くまま雑記

「気まぐれ雑記」を書く気になったが、先月と同じ題名では芸がないので、今回は「気の向くまま雑記」とした。次に書く時はまた一ひねりしなければならない。


ダリⅠ  「背徳的にして多角経営的、無政府主義者にして超現実主義者であるダリ、ルイス・ブニュエルと映画『アンダルシアの犬』や『黄金時代』を共同でつくったあのサルバドル・ダリをめぐる手紙の公刊は、何にもまして美味であるにちがいない」という一文がある。誰が書いているのか? ダリ自身である。ダリの『ダリとダリ』という本の「はじめに」の冒頭である。他人事のように堂々と書いているのがすごい。

ダリⅡ  二週間前に「日曜美術館」を観た。ダリのことばが紹介されていた。「もっとも写実的な絵がもっともシュールリアリズム」。そうかもしれない。たしかダリ自身が言ったと記憶しているが、コッペパンを精細に描けば描くほどレンガのように見えてしまうらしいのだ。ぼくにもそんな体験がある。写実的に描いたつもりの対象が別のものとして立ち現れてくる。それはまさにシュールだろう。

ヒルガオ  ルイス・ブニュエルと言えば、仏伊映画『昼顔』の監督でもある。主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。アサガオしか知らなかった十代半ばの少年は初めてヒルガオの存在を知った。ところで、アサガオはヒルガオ科に属する。昼のほうが朝よりも大きな概念なのである。あのようなストーリーの映画の題名に『朝顔』は清々し過ぎる。『昼顔』のほうがあやしさが出るから、妥当なタイトルであった。

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ブラックフライデー  昨日のこと。遠目に頻繁な人の出入りが見えた。近づくと店内はごった返している。「50%OFF」が目に入る。疎い世界なので、飲み込みに時間がかかった。そうか、これが噂のブラックフライデーか……。しかし、「今日はサタデーではないか」と思いつつ、入ってみることにした。

冬である。オフィスのぼくの席はエアコンの位置から遠い。暖房を入れても寒いのである。だからスーツの上着を着たままデスクワークをする。カーデガンを置いていたこともあるが、どういうわけかしっくりこなかった。そんなこんなの思いがよぎって、オフィス用にこの一着を選んだ。定価12,900円の半額ということは……と暗算していたら、この商品は3,900円だった。なんと70%OFFだ。定価との差が大きい。そうか、それで“GAP”なのか。

ハピネス  ここまでの小見出しに合わせてカタカナで表記する。幸せは英語で“happiness”だが、昔から「ハピネス」の語感にあまり幸せを感じたことがない。たまに「ハッピネス」とも発音するが滑稽味が出てしまう。なお、「はっぴねす」と入力してもカタカナ変換してくれない。

いつもの寺の今月の標語に「幸せとはご恩を見つけること」とあった。幸せの代わりに「ハピネス」と書けば有難味が薄くなる。さて、幸せとはご恩を見つけることなのか。そうではないと思う。幸せは見つけるものではなく、感じるものではないか。幸せを感じる人が幸せになれるのではないか。

アメ  机の上にスーパーメントールののど飴がある。置いているだけでめったに口に放り込まない。喉が痛まないようにというおまじないみたいなものだ。机の上にアメ、外もアメ。外で用事があったが断念して引きこもることにした。音楽でも聴くか。どんな音楽を聴くか。雨の曲はどうだろう。

雨は歌詞になりやすく曲を付けやすそうである。調べてみればきっと雨をテーマにした歌はいくらでも出てくるに違いない。しかし、晴天はどうか。歌にしにくいのだろうか。青々とした空の歌は思い浮かばず、洗濯機の「青空」しか出てこない。青空が出てきたら「からまん棒」である。知っている人は知っている、知らない人は知らない。

苦楽同居説

「いちず」だの「一意専心」だのと言っても、したいことやしなければならないことを一つに絞るのは凡人には容易でない。仮に一つに絞れたとしよう。それでも、相容れない二つの要素の葛藤がありうる。それらを「両立」させようとする。しかし、そもそも両立ということばに出番がある間は成就への道は遠い。仕事と家庭、趣味と仕事……最近はやりのことばを引き合いに出せば「ワーク・ライフ・バランス」だが、調和を目指そうとする時点でワークとライフが元々調和しにくいことを認めていることになりはしないか。

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「楽は苦の種」「苦は楽の種」という。もし因果関係だけを説いているのだとしたら、矛盾をはらむことになる。今日楽ばかりすると明日に苦労が増える、だから今日苦労しておけば明日は楽になれる。こんなふうに解釈すると、今日楽をしたら明日は苦しむが、明日苦しむので明後日は楽になり、明後日の楽は……と、苦と楽が交互に日替わりでやって来ることになる。

苦が先にあって楽が後にあるのではないし、楽の後に苦がやって来るのでもない。楽には苦がつきまとい、苦の中にこそ楽がある。苦と楽は相伴う。あるいは同期する。苦楽は同じ屋根の下で同居しているのだ。楽を、「らく」ではなく「たの(しい)」、つまり歓びと考えると、苦楽同居説にうなずけるはずである。


こんな遠回りな話をしなくても、自分の仕事や趣味、スポーツのことを考えればわかることだ。好きな対象があり、それを楽しもうとする動機も意欲もある。対象をレベルアップしたりものにしたりできれば歓びとなる。結果だけが歓びではない。過程に身を置くこと自体が歓びなのである。その過程では上昇志向に伴う刻苦精励が欠かせない。刻苦は楽しみの前段階に位置するのではなく、歓びの付属品のようなものだ。快を求めて快を実感しながらも、その快は「快苦」と呼ぶべきものなのである。

苦か楽かと考えると二律背反になる。同様に、好き嫌いで生きるのも、得意不得意で生きるのも、両者相容れないという前提に立つ。すなわち、事をするにあたって居心地の良し悪しが優先判断されている。人生の辛酸がわからぬ幼児ならまだしも、一人前の人間が苦や嫌いや不得意を避けて、楽や好きや得意だけで生きれば、自己免疫力が高まるはずもない。

「好きこそものの上手なれ」を買い被ってはいけない。好きな事には必然熱中するから上達が早いなどというのは希望的美談に過ぎない。好きの対義語は嫌いとされているが、嫌いを排除した後の好きに、別の対義語が立ち現れる。たとえば、面倒くさいがそれだ。あの店のラーメンが好きだ、しかし雨の中を歩くのは面倒、しかたがない、カツ丼の出前でも頼むか……好きと面倒くさいが対立して、面倒くさいの顔が立ってしまう。苦と楽が同居するように、好き嫌いも得意不得意も同居する。砂金とただの砂を選別するような調子でいいとこ取りはできない。人生にも仕事にも苦楽の線引きはなく、苦しいけれど楽しく、楽しいけれど苦しいものなのだろう。

並べ替え

ものは言いようと言われる。言いたいことは一つでも、表し方はいくらでもある。だから、ことばの表現をあれこれと吟味することになる。しかし、ものは言いようだけにとどまらない。ことばの配列にも意を注がねばならない。ものは並べ替えようでもあるのだ。

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ここに簡単な計算式が4つある。伝えようとしている数字の関係性は同じ(23を足すと5になるという関係性)。しかし、数字の配列を変え、の表現にしてみると、意味も変わるような気がするから不思議だ。並び方が変わって、視座が変位するのである。


Normal

豊かにして貧しく

健やかにして病み

微笑んでいても寂しく

颯爽として疲れている

Reverse

貧しくても豊かで

病んでいても健やか

寂しいのに微笑み

疲れても颯爽としている

こんなはずじゃなかった……

民主主義が完全だとは思わない。その完全でない民主主義社会の意思決定方法である裁判や選挙が完全だとも思わない。しかし、不完全な民主主義に代わるオプションが発明されるまでは、裁判や選挙の結果が己の意に反したとしても、潔く受け入れるしかない。アメリカの次期大統領がドナルド・トランプに決まった。反対派は怒りや怨念を早々に鎮めて、今後はしっかりと働きぶりを検証し、必要に応じて批判するのがいい。何を決めるにせよ、思惑が外れた側は言う、「こんなはずじゃなかった……。」

四か月前の本ブログで『思惑外れ』と題して書いた。最後の段落を次のように締めくくった。

トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。

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素人が三人寄って文殊の知恵になるのなら、エリートや専門家が何人も集まれば超文殊の知恵になると思ってしまう。しかし、買いかぶりは禁物である。新国立競技場や豊洲市場の顛末は、専門性に罠や陥穽がつきものであることを示した。専門家もメディアの見解や推理もたかが知れているのである。

「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とニューヨーク市民に皮肉られたトランプ。反知性主義者を諷刺的な戯画にしたら、あのような人物、あのような話し方・ことば遣いになるのだろうとぼくも思っていた。その反知性主義の権化が勝った。得票率を見れば、アメリカ人の半数が支持したのである。既存体系における知性の象徴、ヒラリー・クリントンと互角の評価を受けたことを素直に認めざるをえない。


「トランプが大統領とは情けない」と嘆くなかれ。その情けないトランプに敗北したクリントンはさらに情けない存在になったのだ。ところで、トランプを反知性主義者だとぼくは書いた。そのトランプが大統領になったのは、アメリカが反知性の風土へとシフトしている兆しの証だろうか。必ずしもそうとは言えない。反知性派だと胸を張る中に知性派がいたりして、知性と反知性に明確な線引きができないのである。「クリントン=知性」に立ち向かうには、反知性という対抗スタンスは戦略的に必然であった。多分にそのように演じたはずである。だから、既存の知性にうんざりした知性派なら「隠れトランプ」になった。つまり、トランプ支持者でありながら、支持者であることを明かさなかった人たちである。

タイガースの話で盛り上がっている時に、その場にジャイアンツファンが居合わせているとしよう。賢明な人なら話に適当に順応してその場をやり過ごすだろう。大阪にはそんな「隠れジャイアンツ」が少なからずいるのだが、めったなことではファンであることを明かさない。会議の席上にしても同じことが起こっている。人は時に自論を露わにする一方で、場の状況を見ながら自論を隠す。どんな職場でもホンネとタテマエが入り混じり、何がホンネで何がタテマエかは、実はわからなくなっている。

1960年のジョン・F・ケネディ(民主党) vs リチャード・ニクソン(共和党)がもっとも古いぼくの記憶である。以来、米国大統領選挙を十数回「観戦」してきた。2000年のジョージ・W・ブッシュ(共和党) vs アル・ゴア(民主党)は史上稀に見る、獲得選挙人数「271 vs 266」という大接戦で、速報から目が離せなかった。今年の選挙はそれに劣らないスリリングな展開、結果となった。

負けた候補者に投票した市民はつぶやく、「こんなはずじゃなかった……」。そう、選挙のみならず、人生、いつも何かにつけて「こんなはずじゃなかった」という思いは生じるのだ。「こんなはずじゃなかった」が案外多いのだから、負けていつまでもむのではなく、頭を切り替えるのが一つの身の処し方なのである。

ターゲティング極まる

ワンフロアーにおびただしい種類の品々を揃えて売る店がある。百円ショップとスーパーマーケットとコンビニなどだ。食料品や日用雑貨はたいてい間に合う。こうした何でも屋は誰にでも門戸を開いている。十分条件は満たせないが、不特定多数の必要条件ならある程度は満たす。かつてはすべての業種でこんな万屋よろずやが五万とあった。しかし、「大衆から分衆の時代へ」と言われ始めてから、もう三十年の歳月が過ぎた。今日、多様化が進み、大半の店は専門色を色濃く出さなければ生き残れなくなった。

「出掛ける時は忘れずに」というスローガンで有名な大手クレジット会社のDMが来た。DMは忘れた頃に送られてくる。以前この会社のゴールドカードの会員だったが、複数のクレジットカードの年会費がバカにならないので、整理対象にした。もちろん会員履歴が残っているから、ぼくの個人情報はリストに入っているに違いない。今回のDMは個人カードの復活を促すものではなく、法人のビジネス・プラチナカードの案内。年会費が消費税別で130,000円という「怖ろしいカード」だ。

DM20cm×20cmの正方形サイズで12ページ。不特定多数を対象にしているはずもない。ターゲットを絞り込んで想定している。十数年前ならいざ知らず、今のぼくをそのターゲットに含めているのは買いかぶりである。では、ターゲットは誰か? 景気のいい会社の経営者かプロフェッショナルであり、ステータス志向者であり、そこそこのインテリジェンスを備えた顧客のように思える。なぜインテリジェンスを備えた顧客かと言えば、表紙をめくった表紙裏のページがいきなりこれだからだ。

働く喜びが仕事を完璧なものにする。
――アリストテレス


哲学者の名前に違和感を覚えたり尊大な姿勢に見えたりする人が共感するはずもない。アリストテレスに響く可能性の高いターゲットを定めているはずである。ページをさらにめくると、次に出てくるのがアリストテレスの師匠筋のことば。

世界を動かそうと思ったら、まず自分自身を動かせ。
――ソクラテス

さらに続く。

最も生きた人間とは、最も年を経た人間のことではない。最も人生を楽しんだ人間のことである。
――ルソー

「最も生きた人間」というこなれない翻訳的表現に違和感があるが、見逃そう。とどめはこちら。

うまく使えば、時間はいつも十分にある。
――ゲーテ

偉人たちのキーワードを並べると、働く喜び、仕事、世界、自分自身、人生の楽しみ、時間……ということになる。こうした概念がそこそこのステータスに辿り着き、さらに上を目指す人たちに訴求し、カードを手にしたくなるという目論見のようである。このDMの効果のほどは知る由もないが、何を売るか、何を伝えるかという古典的マーケティング手法でないことは確かだ。誰に売るか、誰に伝えるかというターゲティングを意図している。

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人は他人と同じものを欲しがり、何が何でも欲しがるというピークはとうの昔に過ぎている。要らないものは要らない。たとえ欲しくてたまらなくても、要らないものは手にしないというのが当世の傾向である。“Marketing”を修正して“Targeting”に置き換える時代ということだ。定価500円の商品を100人に売って5万円を売り上げるのではなく、定価5万円の商品を一人に売る。売上額は同じである。

そのつど無い知恵を絞って、手作りさながら少人数ターゲットに多品種小量を提供する仕事をしてきた身である。そこに仕事の楽しみを見い出してきたのが精一杯の自負かもしれない。研修の仕事一つを取っても、ターゲティングが極まっている。千人集めて話すようなテーマに挑むよりも、せいぜい十人、二十人程度の極小勉強会のほうがやりがいがある。欲張ってターゲットを広げると画一的にならざるをえない。画一的であるということは、一人ひとりの個性や個別ニーズに目を向けていないということにほかならない。

時間の自浄作用

何ヵ月か前に故障していたフランス製の掛け時計が偶然動き出し、機嫌よく動いていたが、数日前から時の刻みが遅れ出した。現在37分の遅れである。何に対して遅れているのかと言えば、「正規の時間」に対してである。しかし、この時計、遅れていることを気にしているようには見えない。堂々とした遅れぶりである。

今日は月曜日。自宅にいて養生している。先週水曜日の出張明けに喉の痛みがあり、大事に到らないようにと在宅で仕事をすることにした。翌日の木曜日、オフィスで仕事をして早々に帰宅した。金曜日に休み、土曜日と日曜日を挟んで今日である。大した症状でもないのに、これほど自宅で時間を過ごすのは何年ぶりだろうか。仕事は職場のほうがはかどる。しかし、在宅ワークには、疲れたら横になれるという長所がある。

ふだんとは違う時間がある。「時間が流れる」という表現があるが、時間に目盛りなど付いていない。時計は時間の流れを感知できない人間の発明品である。数日間独りの時間に向き合うと、時間感覚の変化を体験する。時計による時間経過の確認ではなく、たとえば窓外の明から暗への移り変わりに時間を認識する。そして、「ああ、あっという間に時間が過ぎた」などとも思わず、また、ろくに仕事ができなかった数日間への悔悛の念もなく、時間が時間そのものを自浄していることに気づく。常日頃正規品の時間に生きている者が自分の時間に救われるかのようだ。


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先日古本屋で買った『時の本』をめくってみた。文章1に対して写真やコラージュが2という、絵本のような構成である。中身は絵本とはほど遠く、小難しい理屈が綴られる。「過去はもう去ってしまった。未来はまだ来ていない。この今は短すぎる。時間はいったい何を残してくれるのだろう」というアリストテレスの言がいきなり出てくるという具合。今日は理屈を読み解くほどの熱意がないから、写真やコラージュばかり眺め、時折り各章の冒頭の数行だけ読む。シティローストしたインドモンスーンの濃厚なコーヒーを淹れてみた。

語り続けるには情熱がいる。しかし、独りの時間にあっては語ることはない。自覚したことはないが、たぶん独り言をつぶやいたりしていないだろう。語ることに比べれば、書くための情熱は小量でよい。その代わり、集中力を高めなければならない。集中力は時間を忘れさせるだろうか。いや、逆に時間を意識することになる。意識した時間は整い始める。ちょうど姿勢を意識すると背筋がピンと伸びるように。時間が整った気がする時点で、書いていた文章が終わりかける。コーヒーと時間には強い関係がありそうだ。

アリストテレス風に言えば、書いていた時間はもう去ったし、この先の時間がどうなるのかは分からない。しかし、アリストテレスと違って、この今の時間を短いとは思わなかった。ましてや、今過ぎた時間がいったい何を残してくれるのだろうかなどと問いもしない。ただ、一つの自浄作用が完了したことを実感している。コーヒーカップが空になり、文章が打ち止めとなる。

休日の倦怠と幸福

早朝の喧騒はムクドリ、姿は見えない。

鈍角な陽射しに流れ込むバロック音楽。

挽きたてのタンザニア珈琲、甘く香る。

異様なほど尖がっている短編小説の書評。

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文字盤の秒針、せわしなく上滑りしている。

遠近法的に立ち並ぶ散歩道の電信柱。

じっと握られたままの萬年筆、文を綴らない。

大きな溜め息とあくびのような深呼吸。

 

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Katsushi Okano
Holiday’s ennui and happiness
2016

Pastel and ink