イタリア紀行53 「アルケオバス二周目」

ローマⅪ

アッピア街道を巡るアルケオバスは、停留所で手を上げて乗車し、降りたい場所をサインで知らせる、「ストップ・アンド・ゴー方式」。サン・カッリストのカタコンベで下車して軽く見学。バスは20分毎に来る。再乗車してチェチーリア・メテッラの墓で下車する。復路はまったく同じではないが、牧歌的な風景の中、狭い道路も勢いよくアルケオバスは走り抜ける。このまま終点のテルミニ駅まで行くか、それともカラカラ浴場あたりでもう一度下車するか……。

迷うまでもない。ポケットに入っているのは一日乗車券である。当時はユーロ高につき、バス代13ユーロは2100円くらい。結構な料金である。アッピア街道を一周して、はいおしまいではもったいない。というわけで、復路の途中、カラカラ浴場の停留所で降りることにした。テレビや雑誌の古代ローマ特集では必ず取り上げられる遺跡。カラカラ帝によっておよそ1800年前に築造された。内部見学するかどうかしばし思案したが、意外に広大なのであきらめた。ややロングショットに眺めても見応え十分である。

ふと耳を澄ませば、遠くから鐘と太鼓の音が聞こえてくる。赤っぽい衣装に身を纏って行進する人たちが見えてきた。やがてカラカラ浴場外壁前の緑地帯までやって来て行進が止まる。どうやら小休止のようである。聞けば「ローマ文化保存協会」会員によるPR・啓発パレードであった。所望すれば、生け捕った敵に見立てて短剣を首に突きつけて撮影シーンを演出してくれる。

カラカラ浴場からアルケオバスに再乗車して、アッピア街道を見納めようともう一巡りすることにした。不思議なもので、一周目にはあまり視界に入らなかった風景や、ロムルスの廟、チェチーリア・メテッラの墓などがしっかりと見えてくる。街道沿いの遺跡は半壊したり劣化しているが、チェチーリア・メテッラの墓はよく整った建造物の佇まいを今に残している。春を告げるミモザを眺め、さわやかな風を受けながらの二周目。復路は真実の口経由で終着点のテルミニ鉄道駅まで乗り続けた。

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カラカラ浴場の外壁。
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緑地帯を挟んで見渡す遺跡は古代を偲ばせる。
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アッピア街道沿いのの光景。
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マクセンティウス帝が息子ロムルスのために造営した廟。
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チェチーリア・メテッラの墓の前の古代街道。
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古代ローマ軍人や当時の市民の衣装を纏った保存協会員たち。

イタリア紀行52 「アッピア旧街道へ」

ローマⅩ

雨が多かったこの年のローマ。あまり天気予報も当たっていなかったような気がする。ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂見学の日は雨時々曇。コロッセオ見学の日も強めの雨。その翌日のオルヴィエートへの遠出は運よく晴天だったが、翌日の日曜日は再び雨。残る二日のうち月曜日にアッピア旧街道へ行くことにした。朝方の雨が止み好天になった。最終滞在日の火曜日は雨と雷で散々な日だったので、結果的にはラストチャンスだった。

アパートからゆっくり20分ほど歩いてナヴォナ広場へ。この一角に〔i〕のマークのついた観光案内所を探す。アッピア旧街道を巡るアルケオバス(archeobus)の切符を買うためだ。小ぶりなブースのような案内所にはすでに女性スタッフが一人いた。ドアには鍵がかかっている。ドアの前に立ったぼくに気づかない。ドアをトントンと叩いた。こっちに顔を向けたので「アルケオバスのチケットを買いたい」と言いかけたら、口を開こうとするぼくを制して、壁の時計を示し「まだ営業時間じゃない」とジェスチャー。「では、どこで買い求めればいいのか?」と聞こうとしても、あとは知らん顔で取り付く島もない。

皆がみなこうではないが、公務員や観光関係にはつっけんどんな女性が目立つ。一見さんには愛想のよくない振る舞いをするという説、クールに規則に従っているだけという説、いやイタリア女性は見た目は強そうだが、実はシャイなのだという説……いろいろあると聞いた。にこにこ顔のホスピタリティが目立ってしまうイタリア人男性だが、あくまでも女性と対比するからそう見えるのであって、イタリア人には男女ともに人見知りの傾向が強い。

しかたなくアルケオバスのルートになっているヴェネツィア広場の停車場へ行く。乗り放題一日券が13ユーロ(これが通常料金。ガイドブックには8ユーロと書いてあったが、何がしかの優待カード所有者のみ適用らしい)。しばらく待つと黄緑色のバスが来た。乗車時に配られるイヤホンで8ヵ国語のオーディオガイドが聞ける。固有名詞チェックも兼ねて、とりあえずイタリア語にチャンネルを合わせた。アルケオバスは真実の口の広場からチルコ・マッシモを経てカラカラ浴場へ。乗車時に少し会話を交わしたぼくと同年代の日本人男性は早速ここで下車した。

彼のように丹念にバスの乗降を繰り返し、そこに旧跡見学と散策を交えるのが正しいアッピア旧街道の辿り方なのだろう。あるいは、思い切ってレンタサイクルを借りて、まだ石畳がそのまま残っている旧街道を巡ってみればさぞかし満喫できるかもしれない。ぼくはと言えば、地下墓地(カタコンベ)や教会・聖堂などよりも、原始的な街道を紀元前312年から改修し延伸して敷設したこの旧街道そのものをこの目で見たかった。だからバスの周回だけで十分だったのである。それでもなお、衝動的に何度か途中下車することになった。

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城壁跡のサン・セバスティアーノ門をくぐると牧歌的風景が広がる。サン・カッリストのカタコンベ(墓)近辺。
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風景をそのままなぞるだけで絵になりそうな光景が続く。
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標識の“appia antica”が「アッピア旧街道」を示す。

イタリア紀行51 「古代ローマの時空間」

ローマⅨ

コロッセオから見ると、東にドムス・アウレア(皇帝ネロの地下黄金宮殿)、西にパラティーノの丘とフォロ・ロマーノ、北西に公共広場群のフォーリ・インペリアーリ、そして南西にはローマ時代の円形競技場チルコ・マッシモが広がる。チルコ・マッシモは映画『ベン・ハー』で知られた舞台。観客30万人を集めて馬車競走が繰り広げられた。ここから北西にすぐのところに有名な「真実の口」がある。

ローマにはそこかしこに古代遺跡が存在する。だが、極めつけはこの地域だろう。大半の建造物は半壊し劣化しているものの、どこかの国がロープを張って立入禁止にするのとは違って、この遺跡に足を踏み入れることができるのだ。周辺は交通量の多い喧騒の通りだが、いったんこのエリアに入ってしまうと、静寂空間の中で古代ローマの息遣いが聞こえてくる。

コロッセオの入場券と共通になっているパラティーノの丘に入る。雨に濡れた遺跡が点在し、高台が何か所かあり庭園もある。今では見る影もないが、古代ローマ時代には政治経済の力を握っていた貴族たちが居を構える高級邸宅地だった。遺跡になる前のフォロ・ロマーノやコロッセオやローマの街全体をこの場所から見渡せば、さぞかし壮観だったに違いない。いや、毎日眺めていたから珍しくもなかったか。

フォロ・ロマーノは古代ローマの中心地であった。「フォロ(Foro)」は英語の“forum”と同じで「広場」を意味する。だから、フォロ・ロマーノは「ローマの広場」である。ただ、そこらにある広場とは違い、祭事・政治・行政・司法・商業機能を一極集中させた公共空間だった。商取引市場あり、神殿あり、議会や裁判所あり、記念碑あり。しかも、一般民衆と無縁の存在だったのではなく、市民広場としても活気を帯びていた。

カエサルが議員たちに語りかけた元老院議会場「クリア」は何度か建立され直したが、現在は復元されフォロ・ロマーノの一画にあって当時の政治熱をうかがわせる。共和政の特徴として、このクリア、市民広場、演説のための演壇場が三点セットになっていた。ちなみにクリア(Curia)はラテン語に由来し、「人民とともに」という意味である。これこそ共和政の精神。その名残りは、今もローマ市内で見かける“SPQR”の四文字に示されている。これもラテン語で“Senatus Populusque Romanus”を略したもので、「元老院とローマ市民」という意味である。

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フォロ・ロマーノ側から見た丘一帯。この奥に高台が広がる。
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サトゥルヌスの神殿。円柱が8本、その柱頭はイオニア式で装飾されている。サトゥルヌスは農耕の神。聖なる場所とされている。
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大小三つのアーチが特徴のセヴェルスの凱旋門。この場所が古代ローマの中心点とされた。
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このSPQRはミケランジェロが設計したカンピドーリオの広場の階段近くに掲げられている。古代ローマ共和政の成立を記念したことばで、現在はローマ市のモットーになっている。

イタリア紀行50 「コロッセオまたは巨大物」

ローマⅧ

もう二世紀も前のことである。17861111日の夕方、ゲーテはコロッセオにやって来た。ローマに着いてから約10日後。オーストリアとイタリア国境を越えてイタリアの旅に就いてから、ちょうど二ヵ月が過ぎていた。

この円形劇場を眺めると、他のものがすべて小さく見えてくる。その像を心の中に留めることができないほど、コロッセオは大きい。離れてみると、小さかったような記憶がよみがえるのに、またそこへ戻ってみると、今度はなおいっそう大きく見えてくる。

ゲーテは『イタリア紀行』の中でこんなふうにコロッセオを語る。およそ一年後にも訪れることになるのだが、そのときも「コロッセオは、ぼくにとっては依然として壮大なものである」と語っている。

コロッセオは西暦72年から8年の歳月をかけて建設された円形競技場だ(闘技場でもあり劇場でもあった)。長径が188メートルで短径が156メートル。収容観客数5万人というのだから、「コロッセオは大きい」というゲーテは正しい。現代人のように高層ビルやスタジアムを見尽くしているのとは違い、200年以上も前のゲーテを襲った巨大感は途方もなかっただろう。少なくともぼくが受ける印象の何倍も圧倒されたに違いない。

コロッセオ(Colosseo)は遺跡となった競技場の固有名詞だが、実はこの名前、「巨大な物や像」を意味する“colosso”に由来する。形容詞“colossale”などは、ずばり「とてつもなく大きい」である。映画『グラディエーター』では、この巨大競技場での剣闘士対猛獣、剣闘士対剣闘士の血生臭いシーンが描かれた。ローマでキリスト教が公認されてからは、やがて見世物は禁止される。この時代、放置されたこのような建造物は、ほぼ例外なく建築資材として他用途に転用された。コロッセオの欠損部分は石材が持ち去られた名残りである。

四度目の正直でコロッセオの内部を見学した。それまでの三回は、ツアーの長蛇の列を見るたびに入場が億劫になった。「競技場内の遺跡は何度もテレビで見ているし、まあいいか」と変な具合に納得したりもしていた。しかし、強雨のその日、並ぶ人々の列は長くはなかった。先頭から20番目くらいである。雨という条件の悪さはあるが、だからこそ入場できる、今日を逃せば二度とチャンスはない、と決心した。「この雨が遺跡に古(いにしえ)の情感を添えてくれるかもしれない」と、すでに悪天候を礼賛すらしていた。

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コロッセオ全景のつもりが、近づきすぎたために全景は収まらない。
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やや遠景のコロッセオ。濡れた壁色のせいで以前見た印象とは異なる。
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ローマ発祥の地とされるパラティーノの丘から展望するコロッセオ。

イタリア紀行49 「街歩きオムニバス」

ローマⅦ

コロッセオにアッピア街道、ジャニコロの丘……。ローマ滞在記はまだ数回は続く。ここで一息入れて、これまでのローマでのぼくの足跡を未公開写真で紹介することにしたい。橋、丘、広場……朝、昼、夜……オムニバス風の一日仕立てにして綴ってみた。

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城側から見た、テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋。コピーだがベルニーニの天使像が歩行専用の橋に情緒を添える。
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夕暮れ時のヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世橋。同名の通りがヴァチカンからヴェネチア広場、テルミニ駅へと続く。
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ローマ市内にある七つの丘のうち一番高いクイリナーレの丘からの街並み。ローマ時代から続く歴史のある住宅地区。
La Salumeria.JPG
ヴァチカン近くの市場の肉屋。羊肉を買おうとしたら「半身しか売れない」。さすがにそんなには食べられない。
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オープンカフェとバール。バールの入口には年配の常連客がたむろして会話を愉しんでいる。
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ヴェネチア広場はふだんから交通量が多く、おまけに地下鉄C線の工事中。それでも観光馬車は悠然とゆっくり駆け巡る。
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ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂上手のカンピドーリオの丘の広場。ミケランジェロの設計。俯瞰で見れば白のラインが織り成す紋様が異彩を放つ。
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ナポレオンⅠ世広場から臨むポポロ広場とフラミニオ門方面。中央に建つオベリスクは三千年以上前にエジプトで造形された。道標に十分な36.5メートルの高さがある。この広場は、北からローマにやって来る巡礼者の「税関」の役割を果たしていた。
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丘の多いローマだから、市内を一望するスポットには事欠かないが、ピンチョの丘からの眺望はなかなかのものである。もっと広角のパノラマなら、ここにポポロ広場も含めることができる。直線距離にして2キロメートル強、ヴァチカンのクーポラが威風堂々と鎮座している。

イタリア紀行48 「カトリックの総本山」

ローマⅥ

ヴァチカンの表記もそうだが、ヴァチカンを象徴する表現も多彩だ。今回のタイトルのように「カトリックの総本山」もある。「ローマ法王庁(教皇庁)」という言い方も可能だし、観光で来れば「サンピエトロ大聖堂に行こう」でもオーケーだろう。外交的には、たとえば「ヴァチカン市国および日本両国は……」という具合になるかもしれない。

航空写真でないとわかりにくいが、サンピエトロ大聖堂とその広場周辺は「円形劇場」の様相を呈している。実際、ここではカトリックの儀式が最大30万人という多数の信者を集めて執り行われる。前回紹介したコンチリアツィオーネ通りからサンピエトロ広場に入る。広場は楕円形で、北側と南側にそれぞれコロネード(柱廊)がある。ドーリア式の円柱が全部で284本あるという。広場中央にはオベリスク(方尖塔)が聳え、その北側にマテルノの噴水、南側にはベルニーニの噴水を配している。

正面に構えて威風を周囲に払っているのが大聖堂。大ドームはミケランジェロが設計し、1590年に完成した。ファサードに行くまでにバッグの検査を受けて大聖堂の内部に入る。カトリック信者であるかそうでないかによって印象も見るところも大いに異なるのだろう。ほとんど事前学習せずに見学するぼくには、恋焦がれるように総本山にやってきた信者のこころの振幅はわからない。

イタリアのラクイラ・サミット終了後の去る710日、オバマ大統領がヴァチカンにローマ法王ベネディクト16世を表敬訪問した。二人は何を語ったのだろうか。たまたま昨日の新聞に関連記事を見つけた。大統領の20081月の就任演説の一節が紹介されていた。「我々はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして無宗教者(non-believers)の国なのだ」がそれ。実は、この後、「我々は、地球上のあらゆる場所から集まってきて、あらゆる言語や文化で形作られている」と続く。

ぼくの視点の先は「あらゆる言語や文化」に向くのだが、ローマ法王は「無宗教者の国」というくだりに視線が延びて「内心穏やかでなかったはずだ」とその記事には書かれている。リベラルなアメリカの社会政策と硬派な倫理・道徳観という構図なのである。ちなみに、アメリカのカトリック信者は人口の24パーセントを占めている。カトリック総本山からの一言一句には、ぼくたちの想像以上の重みがあるに違いない。

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広場側から臨むサンピエトロ大聖堂。
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ローマ法王庁の警備担当はスイス衛兵隊。軍服のデザインはミケランジェロ。
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大聖堂入口近くの「聖なる扉」。
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大聖堂内の正面。奥行きが200メートルあると聞けば、その空間の圧倒ぶりが想像できるだろう。
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精細な細工ぶりまでよく見えるクーポラ(円蓋)。天井部の大きな円の部分がドーム、その下の帯の部分がドラム。
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ベルニーニ作「聖ロンジーノの像」。
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聖ペテロの椅子。
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大理石で埋め尽くされた聖堂内の床。
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サン・ピエトロ大聖堂の全景。柱廊付近で間近に聞いた鐘の音の響きは荘厳だ。

イタリア紀行47 「雨のヴァチカン市国」

ローマⅤ

ローマで大雨に打たれたことはまったくなかった。大雨どころか、小雨が降った記憶さえなかった。ところが、今回は一週間のうち3日間が「雨のち雨」という天候。しかも、時折り歩けないほどの土砂降りに出くわす始末。もちろん、散歩や観光には晴れた日がいいに決まっている。けれども、古代や中世の建築物は、濡れると「遠過去の色」を見せてくれる。しっかりと陽光を吸収する光景とは違い、雨の日は情緒纏綿てんめんの風景に変化する。

雨の降りしきるヴァチカンはふだんより粛然とした趣を見せた。色とりどりに開く傘の花も邪魔にはならない。ところで、表記はヴァチカン、バチカン、それともヴァティカン? ぼくのイタリア紀行ではヴァチカンと表記している。もっとも“Vatican”に忠実な発音は「ヴァティカン」だろう。観光ガイドの類いはこのように表記している。ほぼこのまま発音すれば通じるので、ガイドブックとしては正しい選択だ。しかし、「バチカン」も見慣れた表記だから悪くない。発音は滅茶苦茶になるが、見た目はわかりやすい。

何でもかんでも広辞苑で調べるというのも芸がないのを承知の上で引いてみた。「バチカン」の項には「⇒ヴァチカン」と書いてある。ぼくの表記と一致した。それで、「ヴァチカン」の項へ移動すると、三つの定義を挙げている。①ローマ市西端ヴァチカノ丘にある教皇宮殿。②ローマ教皇庁の別称。③ローマ教皇の統治するローマ市内にある小独立国。一九二九年成立。ヴァチカン宮殿・サン・ピエトロ大聖堂を含む。面積〇・四四平方キロメートル。人口八二二(二〇〇六)。ヴァチカン市国。

今日のこの紀行文では、この③の意味でヴァチカンを書いている。さらに詳しく言うと、一般的なテーマパークよりも少し大きめのこの市国の「領土」には、宮殿・大聖堂以外に博物館、システィーナ礼拝堂、広場、法王の謁見ホールなどがある。独自の切手を発行しており、その切手を絵はがきに貼ってここで投函すれば、ヴァチカン市国の消印が押される。広場の左右に土産物店のような郵便局があり、敷地内には印刷所もある。

ヴァチカンもサンピエトロ大聖堂もぼくの中では同義語だ。「ヴァチカン市国」と呼んではじめて、大聖堂を含む大きな概念になる。この国の小ささを語っても、決して小馬鹿にしているのではない。なにしろこのヴァチカン内にある博物館には大小合わせて10以上の美術館や博物館や回廊やがある。八年前、ぼくはこの博物館を見学中 、楽しみにしていたラファエロの間を目前にして忽然と自分自身の居場所を見失った。見学者でごった返す博物館の中の図書館やギャラリーをくぐり抜けてシスティーナ礼拝堂に戻ったものの、結局ラファエロの間を再度目指すも叶わず、疲れ果ててサンピエトロ広場に出てきた。

そのサンピエトロ広場と大聖堂は次回紹介する。しかし、いったいこの紀行文と次回の紀行文の間にどんな違いを描き出すことができるのか自信がない。大聖堂と広場や周辺をカメラで収めたらヴァチカン市国になり、カトリックの総本山だけに向けてシャッターを切れば、それがサンピエトロ大聖堂になる。写真を選んでいたら、何だか写真の見せ方だけの違いのように思えてきた。

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ヴァチカン近くのテヴェレ川。
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右端にサン・ピエトロ大聖堂を望むヴァチカン一帯。
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サン・ピエトロ広場から大聖堂へのアプローチ。ローマ全体がそうだが、晴れでも雨でも観光客の賑わいに差はない。団体ツアーはつねに「雨天決行」だ。
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雨の中、大聖堂に入るのに30分は並んだだろうか。博物館なら時間待ちは当たり前のようである。広場に面した回廊にはドーリア式の円柱が284本建っている。
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サンタンジェロ城の前からコンチリアツィオーネ通りを西へ行くとサン・ピエトロ広場。コンチリアツィオーネは調停や和解という意味。
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雨上がりの広場。噴水は二つあり、対に配置されている。
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ヴァチカン市国正面。
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大聖堂の裏通りから。

イタリア紀行46 「パンテオンとナヴォーナ広場」

ローマⅣ

高密度で味わいのある空間。広場と教会が目白押しで、ぶらりと歩くだけでも楽しみの多い地区だ。パンテオンにやって来たのは6年ぶり。世界最大級のこの建築は、約1900年前に14代ローマ皇帝ハドリアヌスによって建造された。初代が焼失したので、現存するパンテオンは二代目になる。セメントと火山灰を成分とするコンクリートでできていて、ドームに代表される高度な建築技術は圧巻だ。

ギリシア語起源のパンテオン(Pantheon)は、“pan+theos”に由来する。「すべての神々」という意味で、パンテオンは「万神殿」と訳される。後世にはキリスト教だけを崇めるようになるが、当時は「神様のデパート」だった。ちなみにインフルエンザがらみで最近よく耳にする「パンデミック(pandemic)」もギリシア起源で、こちらは“pan+demos”。「すべての人々」というのがおもしろい。病は人々の間で蔓延するからか。

手元の資料によれば、パンテオン上部に設けられているクーポラ(円堂)の直径は43.2メートル。そして、おそらく計算の上なのだろうが、床からドームの尖端までの高さが同じく43.2メートルなのである。その尖端には「オクルス」という採光のための天窓があって、パンテオン内部の装飾をいかにも「神々しく」演出している。

パンテオンから西へおよそ300メートル歩けばナヴォーナ広場に出る。古代ローマ時代の競技場跡だけに、特有の細長い形状の空間になっている。晴れた日には、オープンカフェに座って集まってくる人たちや噴水をぼんやりと眺めるのがいい。雨の日には人は少なくなるが、濡れた建造物の壁と広い空間が何とも落ち着いた空気を醸し出してくれる。

広場には三つの噴水がバランスよく配置されている。北に『ネプチューンの噴水(Fontana del Nettuno)』、中央にオベリスクとともに『四大河の噴水(Fontana del Fiumi)』、そして南に『ムーア人の噴水(Fontana del Moro)』。いずれも噴水と呼ぶだけですまないほどの芸術性の高い彫刻で彩られている。肉体をくねらせた力強さと構図は、いくら眺めていても飽きることはない。

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パンテオン前のロトンダ広場。
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パンテノン正面の柱廊。
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巨大な列柱。
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強くもなく弱くもなく、絶妙な採光を可能にしている天窓の明りを見上げる。「オクルス」という名のこの天窓は「目」を意味する。
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パンテオン内部。ルネサンス期の人気画家ラファエロの墓がある。
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雨上がりのナヴォーナ広場。ムーア人の噴水。
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ネプチューンの噴水。
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オベリスクを中央に見る広場。
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昼下がりのカフェ。
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よく晴れた日のナヴォーナ広場の朝。この日は空が澄みわたり絶好の観光日和となった。いずれ紹介するアッピア旧街道に出掛けたのはこの日だった。

♪ 想い出のサンフランシスコ

あっという間に過ぎた。サンフランシスコの坂をケーブルカーで上り下りしながら、I left my heart in San Francisco……と口ずさんでから一ヵ月が過ぎた。写真の整理をしていたら、ふとこのメロディが脳裏をよぎった。フランク・シナトラのCDを取り出して聴こうと思ったら、この曲が入っていない。そんなバカな……。もしかしてと、トニー・ベネットのCDジャケットを見たら、ちゃんと入っていた。一曲目だ。正確に言えば、こちらのほうが本家ではある。

 

念のために調べてみたら、YouTubeでシナトラバージョンも聴けた。ついでに他にも探してみたら、歌詞と動画をシンクロさせているのもあっておもしろかった。少々こじつけっぽい箇所もあるが、許容範囲である。


下記に歌詞を掲載してみたが、最初の四行は歌っているようで歌っていないセリフ。実はこのセリフのようなイントロがあるからこそ、 I left my heart 以下に哀愁が漂う。字面に影響されぬよう意味を汲むが、なかなかこなれた日本語にはなってくれない。だが、とりあえず試訳してみようと思った。

The loveliness of Paris seems somehow sadly gay
The glory that was Rome is of another day
I’ve been terribly alone and forgotten in Manhattan
I’m going’ home to my city by the bay.

パリの魅力はなぜか悲しげなまでに華やかで、

ローマがほしいままにした輝きも過ぎた日々。

孤独にさいなまれたマンハッタンを後にして、

いまわたしは湾のある生まれ故郷の街へ帰る。


一行目、二行目、四行目それぞれの最後の単語は、gay(ゲイ)、day(デイ)、bay(ベイ)と韻を踏んでいる。こう口ずさんでから耳に親しいあのメロディーで歌が始まる。引き続き日本語を付けてみた。

 
I left my heart in San Francisco
High on a hill it calls to me

心残りだったサンフランシスコが

丘の上からわたしに呼びかけてくる。

 

To be where little cable cars
Climb halfway to the stars

その街では小さなケーブルカーが

星へと向かって坂を登りつめる。

The morning fog may chill the air
I don’t care

朝霧で空気が凍えても苦にならない。

 

My love waits there in San Francisco
Above the blue and windy sea

愛しい人が待つサンフランシスコ。

風が吹きさらす青い海の上。

 

When I come home to you San Francisco
Your golden sun will shine for me.

故郷のサンフランシスコに帰るわたしに

黄金色の太陽が輝いてくれるだろう。


最後の二行では、サンフランシスコが「あなた」と擬人化されている。「サンフランシスコというあなた」、「あなたの太陽」になっている。

☆     ☆     ☆


ここまで書いて、締めのことばが継げない。PCの電源を落として夕食を済ませ、9時頃自宅近くを散歩することにした。先週の土曜日のことである。いつも前を通りながら、一度も入ったことのないバーがビルの2階にある。行って見た。オーナーは日本人ではない(後の会話でわかったことだが、スパニッシュ系アメリカ人でニューヨーク出身と言った)。

ギネスビールを飲みナッツをつまみながら、「つい先月までサンフランシスコとロサンゼルスにいた」という話からアメリカ談義に及び、やがて彼が日本で店を始めた経緯へと会話が弾んだ。「故郷での疎外感がつらかった。だから日本へ来た」と彼はつぶやいた。それを聞いて、ぼくは夕方に訳していた歌詞の冒頭を思い出してこう言った、「“I’ve been terribly alone and forgotten in Manhattan”という感じかな?」 彼はうなずき、人懐こく笑った。 

イタリア紀行45 「そぞろ歩き時々観光」

ローマⅢ

この紀行シリーズで紹介しているローマの写真に不満足なわけではない。だが正直なところ、これらの写真よりも一番最初にローマを訪れたときの写真のほうがバリエーションに富んでいる。それもそのはず、それから後に何度かローマに戻ってくるなどとは思いもしなかったから、できるかぎり方々へ足を運んで見るものすべてをカメラに収めたのだ。当時の写真を繰ると、彫刻家ベルニーニの手になる噴水の作品やトレヴィの泉、スペイン階段などがアングルと構図を変えて何枚も何枚も出てくる。「おのぼりさん的観光」をしていたのは間違いない。

トレヴィの泉もスペイン階段もコロッセオももう十分、それよりもまだ足を踏み入れたことのない裏町や路地に行けばいい。こんなふうに思って街歩きに出る。しかし、観光名所の近くに差し掛かりながら、脇目も振らずに一つ隣りの脇道にそれていくのはあまりにもひねくれている。過去に何度も見たからと言っても、あれから四年も過ぎている。足の向くまま気の向くままがそぞろ歩き(パッセジャータの原点なのだから、ついでに立ち寄ればいいと思い直したりした。

ローマにある7つの丘のうち一番高いクイリナーレの丘に初めて上る。道なりになだらかに坂を上がっていくので、高い所に来たという実感が湧かない。ここからトレヴィの泉は目と鼻の先なので、寄ってみる。トレヴィ(Trevi)は「三つの通り」という意味で、三つの通りが集まった角地に泉がつくられている。雑誌の写真などでは、巨大な彫刻と噴水を囲むように大勢の人だかりを見せるが、実際は「あっと驚く狭さ」である。何度行っても、どの通りから入っても、予想外の狭くて高密度の空間だ。

めったに土産物の依頼を受けないが、知人に皮の手袋を頼まれた。ご指名の店は、スペイン階段の前にあり、イタリア人店員が全員日本語を話すという、露骨なまでに日本人観光客をターゲットにしている。ふつうはこの種の店で絶対に買物しない。でも、店指定の頼まれ物だから仕方がない。割り切ってスペイン階段方面へ歩を進めた。

カンポ・ディ・フィオーリへも初めて行ってみた。この広場は名前の由来通り、もともとは花の市場だったらしいが、今では大半が八百屋、一部ハム・ソーセージ・チーズの店や乾物屋。花屋さんは少ない。素直に感想を述べれば、ローマの名門市場というには「がっかり」である。

ただ、ここにある19世紀に建てられた像には注目だ。コペルニクスやガリレオと同様に「地球自転説」を唱えた哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548―1600)の像。元司祭だったが、天文学にも精通していて地球外生命の存在も主張していた。処刑を前にして、「真に恐れているのは、私ではなく、私を死刑にしようとしているあなたがたの方だ」と語ったという。司祭だった彼はカトリック教会を破門され異端審問を逃れるためフランスやドイツを転々とした後に、幽閉されて16002月にこの広場で火あぶりにされた。

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人だかりのトレヴィの泉。
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実際に見るとこのスケール感はない。
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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。
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記念堂の階段から見下ろしたヴェネツィア広場のスケッチ。
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雨上がりのスペイン階段。
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        カンポ・ディ・フィオーリの市場。
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パリのバスティーユのマルシェをイメージしていたので、少々期待外れだった。
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ジョルダーノ・ブルーノの像。火刑後280年の歳月を経て建てられた。