フンデルトヴァッサー・ハウスの遊び心

昨日アサヒビールの大山崎山荘美術館に行った。大正時代から昭和初期にかけて建てられた英国風の洋館。地中に展示室がある新館は安藤忠雄の設計で、そこに睡蓮を含むクロード・モネの5作品が展示されている。年季の入った本館は見所が多々あって興味深い。帰路に立ち寄った古書店で『見える家と見えない家』という本を見つけた。著者の一人が先般亡くなった動物行動学の日高敏隆だ。この人の本は3冊ほど読んでいる。買って帰った。

長年住み慣れた郊外のマンションを売却し、現在ぼくは交通至便な大阪都心の一室に仮住まいしている。腰を据える住居を探さねばならない身ではあるが、だいたいが暮らしに贅を求めない性分なので、寝食さえできれば十分という住宅観しか持ち合わせていない。ところが、古い建築や他人が住んでいる住居には目を配る。実際に生活してみたいとまでは思わないが、見ているだけで何がしかの主題を訴えてくる佇まいにすこぶる強い関心を抱く。その最たる存在は、ウィーン都心のフンデルトヴァッサー・ハウス(Hundertwasserhaus)だろう。

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ハウスはフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928 – 2000)の手になる公共住宅だ。彼はもともと画家であり、やがて建築家となった。その建築思想や住宅ビジョンを哲学的と称する評論家もいる。フンデルトヴァッサーはハウスの設計を1977年に受託したものの、その設計そのものや建築理論を巡って意見や批判が噴出し、建築施工に着手するまでに6年も要してしまった。自然との共生をテーマにした住宅は、ついに1986年に完成した。いろいろあったが、ハウスの人気は入居倍率の高さによって市民が証明することとなった。

シティ・エア・ターミナルであるウィーン・ミッテ駅から東へ徒歩10分のエリアに立地している。すぐそばにドナウ運河、その外にドナウ川、新ドナウ川、旧ドナウ川が流れている(ドナウと呼ばれる川がこんなにあることをウィーンに行って初めて知った)。余談になるが、この場所から北西に直線で4キロメートルのシュピッテラウに、フンデルトヴァッサーが手掛けたゴミ焼却場(1991年)がある。これを先行範例として建設したのが、舞洲の大阪市環境局のゴミ処理工場(2001年)である。

フンデルトヴァッサー・ハウスは類い稀な公共住宅だ。難しい多色を使って遊びながら、植物と住宅を合体させている外観はどこから見ても斬新な現代作品である。にもかかわらず、どんなきっかけかは覚えていないが、恥ずかしいことにぼくはハウスが19世紀の終わりか20世紀初頭の建築だと思い込んでいた。そして、後日、1980年代の建築と知って少なからず驚いた。完全な認識間違いであるが、錯誤ついでに居直るならば、フンデルトヴァッサー・ハウスは19世紀末に建つこともできたと今でも思っている。カラフルでリズミカルで遊び心をモチーフにした住宅の出現が遅すぎただけの話である。

ウィーンの寒い朝の思い出

大阪の寒さなどたかが知れている。明日は冷え込むと天気予報が報じるので備えて外出すれば、何のことはない、日向ではポカポカしていたりする。講演や研修で全国に赴くが、冬場はだいたいシーズンオフになる。とりわけ雪国への真冬の出張はほとんどない。山陰や北陸で豪雪に見舞われて列車遅れを経験した程度だろうか。ぼくは厳冬の雪降る北国をまったく知らないのである。

もっとも凍てついたのは3月上旬のウィーンの朝だ。前日の午後5時頃に街に入った。時差のせいか感覚が鈍っていたのだろう、さほど寒さを感じることもなく街をうろついていた。ところが、翌朝、ホテルの窓外の光景が白へと一変していた。ビュッフェで腹ごしらえした後に外に出てみたら、昨夜の気温とはまったく違う。ありったけの服を重ね着して万全の防寒態勢で地下鉄駅へ向かった。

目指したのは8駅か9駅西南西方向に位置するシェーンブルン宮殿。ハプスブルク王朝の離宮である。同名の地下鉄駅を降りて雪道を歩く。宮殿の入口までほんの数分なのだが、この時に感じた凍えがぼくの生涯一番である。ウィーンは北緯43度の札幌より5度も北に位置する。つまり、北海道最北端よりもさらに北である。にもかかわらず、3月のウィーンの平均気温は最低が3.5℃、最高が10.2℃で、札幌の-4.0℃(最低)、4.0℃(最高)よりもはるかに暖かい。しかし、あの凍えようは尋常ではなかった。


シェーンブルンとはドイツ語で「美しい泉」を意味する。マリア・テレジアの時代の1693年に完成している。この宮殿内では美しく花が咲き誇るので、ほとんどの写真や絵葉書は春先から夏にかけて撮影されるようだ。実際、手元に残っている入場券には緑に囲まれた宮殿が写っている。それはそうだ、ここは「夏の離宮」なのだから。しかし、ぼくにとってシェーンブルン宮殿はすっかり冬のイメージと連動してしまった。

凍てついた分、宮殿内のカフェで飲んだミルクたっぷりのメランジェ(ウィーン版カプチーノ)は温かくて格別にうまかった。

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早朝、ホテルの窓を開けてみた。透明な冷気に触れると同時に、一変した冬景色が目に飛び込んできた。
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地下鉄駅への道すがら。歩道に雪は積もっていないが、静けさと相まって突き刺すような寒さが襲ってくる。
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宮殿の入口。
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全長200メートル近くある建物の中央部分。
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噴水も花壇も真っ白になっている宮殿の裏手。小高い丘の上にグロリエッテがある。ここにはレストランとカフェがあるらしく、また屋上から俯瞰する宮殿方面の景観が絶景らしい。さすがにこの雪では歩けない。夏場に坂を上がった人は、猛暑でばてたと言う。寒すぎるのも暑すぎるのも困る。

ドビュッシーとパリ近郊の街

一昨日のことである。ふと旋律が浮かんだ。ドビュッシーの『夢』。題名を知らなくても、誰もが一度や二度は耳にしたことのあるメロディだ。ドビュッシーには、他によく知られた作品として『月の光』や『アラベスク』がある。テレビドラマの挿入歌としても使われていたらしい。たしかに、クラシック音楽としてはイージーリスニング系に属すのだろう。肩の凝らない小曲だからBGMにも向いている。

少し前のバージョンのiPodも持っているのだけれど、ほとんど使っていない。最近はあまり音楽を聴かないし、聴くときは気まぐれに取り出したCDをかけている。ジャンル分けもせずに適当に収納しているCDがおよそ600枚。本は買って一度も読んでいないのが5冊に一冊くらいあるが、CDは買った直後に聴く。どんなにハズレのCDでも一度は聴いているので、縁あってもう一度聴けばだいたい旋律を覚えている。読書に比べたら聴覚記憶はだいぶよさそうな気がする。

たしかあったはずのドビュッシーのCDがどこにも見当たらない。この場所以外にまぎれこむ可能性などない。もしかしてオムニバス編集のうちの数曲だったのだろうか。いや、そんなことはない……。やがて思い出し、ひとつの確信を得た。中学高校時代に買い集めたレコードのうちの一枚だったのだ。中学2年生のときに、クラシック音楽好きの友人に誘われて「コンサートホール」なる頒布会に入会し、数年間で数10枚ほどLPを買い漁った。コレクションはすでにとうの昔に処分してしまった。


昨年31日、土曜日。パリ11区はサンタンブロワーズ(St-Ambroise)のアパートを午前10時に出て地下鉄経由でリヨン駅(Gare de Lyon)へ向かった。そこで高速郊外鉄道(RER)に乗り換えて一路西北西へ。わずか半時間ほどのうちにパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー(St-Germain-en-Laye)に到着した。あのルイ14世ゆかりの垢抜けた近郊の街。セーヌ川が流れている。

ドビュッシーは1862年にここに生まれ、パリ音楽院に入学する10歳まで育った。駅から教会に向かって歩いてすぐの所にドビュッシーの像がある。小ぢんまりとした街中の通りを歩いてみた。色合いも佇まいもセンスのいい街だ。小さな避暑地のような観光風情もある。通りを隔てたすぐそばに城があり、現在は国立考古学博物館に転用されている。店頭で売られていた小さなパンを口に運び、カフェに寄って濃厚な一杯を楽しむ。

ドビュッシーの旋律から一年半前のパリ近郊の街へタイムスリップしてしまった。

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教会
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ドビュッシーの銅像
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街角
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店の看板
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考古学博物館の外観
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中庭の景観
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RER線を走る列車。フランス国旗のトリコロールをモチーフにしたデザイン。

イタリア紀行54「アリヴェデルチ、ローマ」

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通りの名もわからない、場所も定かではない。名所であれ無名の街角であれ、歩いてはカメラを構え、時々バールに入って地図を確認する。写真ファイルを見ていると、まったく思い出せない光景が、まるで勝手に撮り収められたかのように現れてくる。これはローマに限った話ではない。自分の記憶と照合できない対象――珍しいもの、おもしろいもの、落ち着いて見えるもの、何となくいいもの――は無意識のうちに写真として取り込んでいるものだ。

アルケオバスでアッピア街道を二周した後に、バールに入りエスプレッソで神経をなだめる。アパートに戻ってリフレッシュしてから再度外出した。目指す先は、市内を眺望できるジャニコロの丘。数年前、ローマ在住の知人に車で連れてきてもらった。晴天に恵まれ、ローマ市街地とその彼方に広がる郊外を一望して感嘆した。その時の再現を目論んだ。アパートを出てサンピエトロ広場を横切り、さらに裏道の坂を上って遊歩道を進むこと小一時間、やっと丘の上に到着した。しばらくして大きな虹が出た。

ローマを唄う、バラード調で少しペーソスのきいたカンツォーネがある。“Arrivederci, Roma”(アリヴェデルチ、ローマ)という題名だ。「さようなら、ローマ」。語りの出だしがあって、そのあとArrivederci, Roma. Goodbye, au revoir”と唄い始める。イタリア語と英語とフランス語の「さようなら」を並べている。テーマは「さようなら」だが、想い出を記憶にとどめて「あなた(ローマ)のことを決して忘れない」と締めくくる。

ヴァチカン地区クレシェンツィオ通りに面した建物。大きな門を入ると、この敷地の一角に一週間快適に滞在したアパートがある。どこに行くにも便利なロケーションだった。出発の日の朝7時すぎ。アパートの責任者のフランチェスコが、とても上品なお父さんを伴って見送りにきてくれた。銀行家でシスティーナ礼拝堂の仕事にも関与しているそうだ。システィーナを紹介するポジ写真が入ったプレゼンテーションキットをプレゼントしてくれた。

旅から帰って再び旅をする。帰った直後に旅をして、半年後にまた旅をする。そして、ローマの旅から一年半経った今、また旅をしている。一回の旅で、繰り返し何度も記憶の旅を楽しめる。そして、そのつど「アリヴェデルチ、ローマ。グッバイ、オルヴォワー」と口ずさむ。

ところで、トレヴィの泉で硬貨を投げてこなかったが、ぼくは再びローマに「戻れる」だろうか。 《ローマ完》

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一週間滞在したアパート。
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理由は不明だが、当時の写真にはこの種の構図が多い。
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遠近法に忠実な、こんな無名の通りも気に入っている。
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ジャニコロの丘はローマ市民の散歩道になっている。
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ヴァチカンから南へ1.5キロメートル、そこがジャニコロの丘。上りはきつく散歩感覚どころではない。この日の夕景は幻想的に刻一刻変化した。
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遊歩道を上りつめると小高い丘のガリバルディ広場に出る。ここが絶好の展望位置。前に来た時のパノラマに惹かれて再び街を一望。旅立ちの前日、黄昏前の雨上がりの空に虹が架かった。

ローマの最終回、そして「イタリア紀行」の最終回。訪れながらもまだ取り上げていないイタリアの都市がいくつかある。気の向くまま折を見て紀行記を綴りたいと思う。

イタリア紀行53 「アルケオバス二周目」

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アッピア街道を巡るアルケオバスは、停留所で手を上げて乗車し、降りたい場所をサインで知らせる、「ストップ・アンド・ゴー方式」。サン・カッリストのカタコンベで下車して軽く見学。バスは20分毎に来る。再乗車してチェチーリア・メテッラの墓で下車する。復路はまったく同じではないが、牧歌的な風景の中、狭い道路も勢いよくアルケオバスは走り抜ける。このまま終点のテルミニ駅まで行くか、それともカラカラ浴場あたりでもう一度下車するか……。

迷うまでもない。ポケットに入っているのは一日乗車券である。当時はユーロ高につき、バス代13ユーロは2100円くらい。結構な料金である。アッピア街道を一周して、はいおしまいではもったいない。というわけで、復路の途中、カラカラ浴場の停留所で降りることにした。テレビや雑誌の古代ローマ特集では必ず取り上げられる遺跡。カラカラ帝によっておよそ1800年前に築造された。内部見学するかどうかしばし思案したが、意外に広大なのであきらめた。ややロングショットに眺めても見応え十分である。

ふと耳を澄ませば、遠くから鐘と太鼓の音が聞こえてくる。赤っぽい衣装に身を纏って行進する人たちが見えてきた。やがてカラカラ浴場外壁前の緑地帯までやって来て行進が止まる。どうやら小休止のようである。聞けば「ローマ文化保存協会」会員によるPR・啓発パレードであった。所望すれば、生け捕った敵に見立てて短剣を首に突きつけて撮影シーンを演出してくれる。

カラカラ浴場からアルケオバスに再乗車して、アッピア街道を見納めようともう一巡りすることにした。不思議なもので、一周目にはあまり視界に入らなかった風景や、ロムルスの廟、チェチーリア・メテッラの墓などがしっかりと見えてくる。街道沿いの遺跡は半壊したり劣化しているが、チェチーリア・メテッラの墓はよく整った建造物の佇まいを今に残している。春を告げるミモザを眺め、さわやかな風を受けながらの二周目。復路は真実の口経由で終着点のテルミニ鉄道駅まで乗り続けた。

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カラカラ浴場の外壁。
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緑地帯を挟んで見渡す遺跡は古代を偲ばせる。
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アッピア街道沿いのの光景。
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マクセンティウス帝が息子ロムルスのために造営した廟。
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チェチーリア・メテッラの墓の前の古代街道。
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古代ローマ軍人や当時の市民の衣装を纏った保存協会員たち。

イタリア紀行52 「アッピア旧街道へ」

ローマⅩ

雨が多かったこの年のローマ。あまり天気予報も当たっていなかったような気がする。ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂見学の日は雨時々曇。コロッセオ見学の日も強めの雨。その翌日のオルヴィエートへの遠出は運よく晴天だったが、翌日の日曜日は再び雨。残る二日のうち月曜日にアッピア旧街道へ行くことにした。朝方の雨が止み好天になった。最終滞在日の火曜日は雨と雷で散々な日だったので、結果的にはラストチャンスだった。

アパートからゆっくり20分ほど歩いてナヴォナ広場へ。この一角に〔i〕のマークのついた観光案内所を探す。アッピア旧街道を巡るアルケオバス(archeobus)の切符を買うためだ。小ぶりなブースのような案内所にはすでに女性スタッフが一人いた。ドアには鍵がかかっている。ドアの前に立ったぼくに気づかない。ドアをトントンと叩いた。こっちに顔を向けたので「アルケオバスのチケットを買いたい」と言いかけたら、口を開こうとするぼくを制して、壁の時計を示し「まだ営業時間じゃない」とジェスチャー。「では、どこで買い求めればいいのか?」と聞こうとしても、あとは知らん顔で取り付く島もない。

皆がみなこうではないが、公務員や観光関係にはつっけんどんな女性が目立つ。一見さんには愛想のよくない振る舞いをするという説、クールに規則に従っているだけという説、いやイタリア女性は見た目は強そうだが、実はシャイなのだという説……いろいろあると聞いた。にこにこ顔のホスピタリティが目立ってしまうイタリア人男性だが、あくまでも女性と対比するからそう見えるのであって、イタリア人には男女ともに人見知りの傾向が強い。

しかたなくアルケオバスのルートになっているヴェネツィア広場の停車場へ行く。乗り放題一日券が13ユーロ(これが通常料金。ガイドブックには8ユーロと書いてあったが、何がしかの優待カード所有者のみ適用らしい)。しばらく待つと黄緑色のバスが来た。乗車時に配られるイヤホンで8ヵ国語のオーディオガイドが聞ける。固有名詞チェックも兼ねて、とりあえずイタリア語にチャンネルを合わせた。アルケオバスは真実の口の広場からチルコ・マッシモを経てカラカラ浴場へ。乗車時に少し会話を交わしたぼくと同年代の日本人男性は早速ここで下車した。

彼のように丹念にバスの乗降を繰り返し、そこに旧跡見学と散策を交えるのが正しいアッピア旧街道の辿り方なのだろう。あるいは、思い切ってレンタサイクルを借りて、まだ石畳がそのまま残っている旧街道を巡ってみればさぞかし満喫できるかもしれない。ぼくはと言えば、地下墓地(カタコンベ)や教会・聖堂などよりも、原始的な街道を紀元前312年から改修し延伸して敷設したこの旧街道そのものをこの目で見たかった。だからバスの周回だけで十分だったのである。それでもなお、衝動的に何度か途中下車することになった。

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城壁跡のサン・セバスティアーノ門をくぐると牧歌的風景が広がる。サン・カッリストのカタコンベ(墓)近辺。
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風景をそのままなぞるだけで絵になりそうな光景が続く。
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標識の“appia antica”が「アッピア旧街道」を示す。

イタリア紀行51 「古代ローマの時空間」

ローマⅨ

コロッセオから見ると、東にドムス・アウレア(皇帝ネロの地下黄金宮殿)、西にパラティーノの丘とフォロ・ロマーノ、北西に公共広場群のフォーリ・インペリアーリ、そして南西にはローマ時代の円形競技場チルコ・マッシモが広がる。チルコ・マッシモは映画『ベン・ハー』で知られた舞台。観客30万人を集めて馬車競走が繰り広げられた。ここから北西にすぐのところに有名な「真実の口」がある。

ローマにはそこかしこに古代遺跡が存在する。だが、極めつけはこの地域だろう。大半の建造物は半壊し劣化しているものの、どこかの国がロープを張って立入禁止にするのとは違って、この遺跡に足を踏み入れることができるのだ。周辺は交通量の多い喧騒の通りだが、いったんこのエリアに入ってしまうと、静寂空間の中で古代ローマの息遣いが聞こえてくる。

コロッセオの入場券と共通になっているパラティーノの丘に入る。雨に濡れた遺跡が点在し、高台が何か所かあり庭園もある。今では見る影もないが、古代ローマ時代には政治経済の力を握っていた貴族たちが居を構える高級邸宅地だった。遺跡になる前のフォロ・ロマーノやコロッセオやローマの街全体をこの場所から見渡せば、さぞかし壮観だったに違いない。いや、毎日眺めていたから珍しくもなかったか。

フォロ・ロマーノは古代ローマの中心地であった。「フォロ(Foro)」は英語の“forum”と同じで「広場」を意味する。だから、フォロ・ロマーノは「ローマの広場」である。ただ、そこらにある広場とは違い、祭事・政治・行政・司法・商業機能を一極集中させた公共空間だった。商取引市場あり、神殿あり、議会や裁判所あり、記念碑あり。しかも、一般民衆と無縁の存在だったのではなく、市民広場としても活気を帯びていた。

カエサルが議員たちに語りかけた元老院議会場「クリア」は何度か建立され直したが、現在は復元されフォロ・ロマーノの一画にあって当時の政治熱をうかがわせる。共和政の特徴として、このクリア、市民広場、演説のための演壇場が三点セットになっていた。ちなみにクリア(Curia)はラテン語に由来し、「人民とともに」という意味である。これこそ共和政の精神。その名残りは、今もローマ市内で見かける“SPQR”の四文字に示されている。これもラテン語で“Senatus Populusque Romanus”を略したもので、「元老院とローマ市民」という意味である。

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フォロ・ロマーノ側から見た丘一帯。この奥に高台が広がる。
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サトゥルヌスの神殿。円柱が8本、その柱頭はイオニア式で装飾されている。サトゥルヌスは農耕の神。聖なる場所とされている。
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大小三つのアーチが特徴のセヴェルスの凱旋門。この場所が古代ローマの中心点とされた。
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このSPQRはミケランジェロが設計したカンピドーリオの広場の階段近くに掲げられている。古代ローマ共和政の成立を記念したことばで、現在はローマ市のモットーになっている。

イタリア紀行50 「コロッセオまたは巨大物」

ローマⅧ

もう二世紀も前のことである。17861111日の夕方、ゲーテはコロッセオにやって来た。ローマに着いてから約10日後。オーストリアとイタリア国境を越えてイタリアの旅に就いてから、ちょうど二ヵ月が過ぎていた。

この円形劇場を眺めると、他のものがすべて小さく見えてくる。その像を心の中に留めることができないほど、コロッセオは大きい。離れてみると、小さかったような記憶がよみがえるのに、またそこへ戻ってみると、今度はなおいっそう大きく見えてくる。

ゲーテは『イタリア紀行』の中でこんなふうにコロッセオを語る。およそ一年後にも訪れることになるのだが、そのときも「コロッセオは、ぼくにとっては依然として壮大なものである」と語っている。

コロッセオは西暦72年から8年の歳月をかけて建設された円形競技場だ(闘技場でもあり劇場でもあった)。長径が188メートルで短径が156メートル。収容観客数5万人というのだから、「コロッセオは大きい」というゲーテは正しい。現代人のように高層ビルやスタジアムを見尽くしているのとは違い、200年以上も前のゲーテを襲った巨大感は途方もなかっただろう。少なくともぼくが受ける印象の何倍も圧倒されたに違いない。

コロッセオ(Colosseo)は遺跡となった競技場の固有名詞だが、実はこの名前、「巨大な物や像」を意味する“colosso”に由来する。形容詞“colossale”などは、ずばり「とてつもなく大きい」である。映画『グラディエーター』では、この巨大競技場での剣闘士対猛獣、剣闘士対剣闘士の血生臭いシーンが描かれた。ローマでキリスト教が公認されてからは、やがて見世物は禁止される。この時代、放置されたこのような建造物は、ほぼ例外なく建築資材として他用途に転用された。コロッセオの欠損部分は石材が持ち去られた名残りである。

四度目の正直でコロッセオの内部を見学した。それまでの三回は、ツアーの長蛇の列を見るたびに入場が億劫になった。「競技場内の遺跡は何度もテレビで見ているし、まあいいか」と変な具合に納得したりもしていた。しかし、強雨のその日、並ぶ人々の列は長くはなかった。先頭から20番目くらいである。雨という条件の悪さはあるが、だからこそ入場できる、今日を逃せば二度とチャンスはない、と決心した。「この雨が遺跡に古(いにしえ)の情感を添えてくれるかもしれない」と、すでに悪天候を礼賛すらしていた。

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コロッセオ全景のつもりが、近づきすぎたために全景は収まらない。
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やや遠景のコロッセオ。濡れた壁色のせいで以前見た印象とは異なる。
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ローマ発祥の地とされるパラティーノの丘から展望するコロッセオ。

イタリア紀行49 「街歩きオムニバス」

ローマⅦ

コロッセオにアッピア街道、ジャニコロの丘……。ローマ滞在記はまだ数回は続く。ここで一息入れて、これまでのローマでのぼくの足跡を未公開写真で紹介することにしたい。橋、丘、広場……朝、昼、夜……オムニバス風の一日仕立てにして綴ってみた。

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城側から見た、テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋。コピーだがベルニーニの天使像が歩行専用の橋に情緒を添える。
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夕暮れ時のヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世橋。同名の通りがヴァチカンからヴェネチア広場、テルミニ駅へと続く。
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ローマ市内にある七つの丘のうち一番高いクイリナーレの丘からの街並み。ローマ時代から続く歴史のある住宅地区。
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ヴァチカン近くの市場の肉屋。羊肉を買おうとしたら「半身しか売れない」。さすがにそんなには食べられない。
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オープンカフェとバール。バールの入口には年配の常連客がたむろして会話を愉しんでいる。
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ヴェネチア広場はふだんから交通量が多く、おまけに地下鉄C線の工事中。それでも観光馬車は悠然とゆっくり駆け巡る。
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ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂上手のカンピドーリオの丘の広場。ミケランジェロの設計。俯瞰で見れば白のラインが織り成す紋様が異彩を放つ。
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ナポレオンⅠ世広場から臨むポポロ広場とフラミニオ門方面。中央に建つオベリスクは三千年以上前にエジプトで造形された。道標に十分な36.5メートルの高さがある。この広場は、北からローマにやって来る巡礼者の「税関」の役割を果たしていた。
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丘の多いローマだから、市内を一望するスポットには事欠かないが、ピンチョの丘からの眺望はなかなかのものである。もっと広角のパノラマなら、ここにポポロ広場も含めることができる。直線距離にして2キロメートル強、ヴァチカンのクーポラが威風堂々と鎮座している。

イタリア紀行48 「カトリックの総本山」

ローマⅥ

ヴァチカンの表記もそうだが、ヴァチカンを象徴する表現も多彩だ。今回のタイトルのように「カトリックの総本山」もある。「ローマ法王庁(教皇庁)」という言い方も可能だし、観光で来れば「サンピエトロ大聖堂に行こう」でもオーケーだろう。外交的には、たとえば「ヴァチカン市国および日本両国は……」という具合になるかもしれない。

航空写真でないとわかりにくいが、サンピエトロ大聖堂とその広場周辺は「円形劇場」の様相を呈している。実際、ここではカトリックの儀式が最大30万人という多数の信者を集めて執り行われる。前回紹介したコンチリアツィオーネ通りからサンピエトロ広場に入る。広場は楕円形で、北側と南側にそれぞれコロネード(柱廊)がある。ドーリア式の円柱が全部で284本あるという。広場中央にはオベリスク(方尖塔)が聳え、その北側にマテルノの噴水、南側にはベルニーニの噴水を配している。

正面に構えて威風を周囲に払っているのが大聖堂。大ドームはミケランジェロが設計し、1590年に完成した。ファサードに行くまでにバッグの検査を受けて大聖堂の内部に入る。カトリック信者であるかそうでないかによって印象も見るところも大いに異なるのだろう。ほとんど事前学習せずに見学するぼくには、恋焦がれるように総本山にやってきた信者のこころの振幅はわからない。

イタリアのラクイラ・サミット終了後の去る710日、オバマ大統領がヴァチカンにローマ法王ベネディクト16世を表敬訪問した。二人は何を語ったのだろうか。たまたま昨日の新聞に関連記事を見つけた。大統領の20081月の就任演説の一節が紹介されていた。「我々はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして無宗教者(non-believers)の国なのだ」がそれ。実は、この後、「我々は、地球上のあらゆる場所から集まってきて、あらゆる言語や文化で形作られている」と続く。

ぼくの視点の先は「あらゆる言語や文化」に向くのだが、ローマ法王は「無宗教者の国」というくだりに視線が延びて「内心穏やかでなかったはずだ」とその記事には書かれている。リベラルなアメリカの社会政策と硬派な倫理・道徳観という構図なのである。ちなみに、アメリカのカトリック信者は人口の24パーセントを占めている。カトリック総本山からの一言一句には、ぼくたちの想像以上の重みがあるに違いない。

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広場側から臨むサンピエトロ大聖堂。
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ローマ法王庁の警備担当はスイス衛兵隊。軍服のデザインはミケランジェロ。
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大聖堂入口近くの「聖なる扉」。
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大聖堂内の正面。奥行きが200メートルあると聞けば、その空間の圧倒ぶりが想像できるだろう。
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精細な細工ぶりまでよく見えるクーポラ(円蓋)。天井部の大きな円の部分がドーム、その下の帯の部分がドラム。
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ベルニーニ作「聖ロンジーノの像」。
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聖ペテロの椅子。
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大理石で埋め尽くされた聖堂内の床。
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サン・ピエトロ大聖堂の全景。柱廊付近で間近に聞いた鐘の音の響きは荘厳だ。