三つのセオリー

フェリックス・ガタリはその著『三つのエコロジー』で自然環境、社会環境、精神環境を提唱している。こう告げられてから読み進めていくと、もうこれ以外の環境を考えにくくなる。そうだ、三つのエコロジーとは自然、社会、精神なんだという自己説得が働いてしまう。

品質、サービス、価格、カスタマイズ戦略のいずれにも決定打がないと結論づけた後、フィリップ・コトラーは「いま、確かなことが三つある」と言った。一つ目は「顧客の価値観が多様化している」。二つ目が「顧客の要望・願望は高度化している」。では、三つめに何と言ったか。

その二つ以外に確かなことは何一つない。

なるほど、そう来たか。確かなことは二つなのだが、三つにするほうが座りがよかったのだろう。


3

「一つ」は絶対的存在で、他を排除する。また、比較対照できないから、その絶対的な一つの意味が捉えにくい。「二つ」になれば比較対照できる。しかし、融和を期待できる一方で、背反の図にもなりかねない。というような次第で「三つ」に収まっているのかどうかは知らないが、三位一体や三権分立に表わされるように、三にはバランス機能が備わっているような気がする。

ところが、三つを必然とすることに根拠があるわけではない。松竹梅は「桜松杉竹梅」と五段階でも問題なかった。走攻守でまとまっているように見えるが、「投」を加えてまずいはずはない。守破離は気に入っている三字熟語だ。しかし、離れた後に「還ってくる」という展開にするのも一つの案。経営資源の人・モノ・金には「情報」が加えられて久しいし、知情意に「創」を足して篆刻にしたことがあるが、四字熟語も悪くなかった。

それでも、一や二よりも、また四や五よりも、「三つのセオリー」「三ヵ条」「三拍子」なのだ。バランスのみならず、無難であり、語調に落ち着きが生まれる。ホップ・ステップ・ジャンプになじむと、もうこれ以外に考えられない。二段跳びや四段跳びではリズムが狂う。

いい小説を書くには三つのルールがある。

こう言ったのはサマセット・モームだ。ここでもやっぱり三つ。ところで、モームは三つのルールがあると言った以外に、それが何であるのかを誰にも語らずどこにも書かなかった。つまり、中身は不明で、ただ「三つ」だけが残っている。「上手な三拍子表現の使い方には三つの秘策がある。いずれ近いうちに公開することにしよう」と書き残して終わるようなものだ。三の力を借りて多くを語らず。なかなかの思わせぶりである。

対人関係のスキル

何事かを上手にやり遂げる技能や技術をスキルと呼ぶ。スキルは実践や練習の場で何度も繰り返して身につくものだ。先例や経験から学ぶと同時に、すでにスキルを習得した人たちから教わるということもある。不肖ながら、ぼくも企画やコミュニケーションなどの分野で助言側に立たせてもらっている。そういう立場にある者の良識として、最強スキルだの万能スキルだの必勝スキルだのという言い回しは控える。そんなものはめったに存在しないからである。

「めったに存在しない」とは、つまり、「たまに存在する」を意味する。自分と学習対象以外に対人関係のパラメーターが介在しない場合は、ある程度有効なスキルを身に付けることができる。たとえば、上手な本の読み方がその一つである。あるいは、情報を効率的に分類したりまとめたりする技術も該当するかもしれない。他人と競わない、あるいは他人との相対的関係が前提されない場合、努力次第で相応のスキルが習得できるのである。

対人関係があり、他人との優劣がついてしまうようなスキルがある。交渉や説得や議論に関わるスキルである。このようなスキルを求める人たちを一堂に集めて指南すれば、矛盾を抱え込むことになる。「聞き上手」や「傾聴」のスキルを学ぶ者は、まず相手の話を聞くことを教わる。聞くためには相手が話さねばならない。だから、A君もBさんも話そうとしない。こうなるとまずいから、相手に話させるために質問を投げ掛けることを教わる。すると、二人は同時に質問をすることになる。応用力あるスキルどころか、マニュアルを絵に描いたようなシーンが現れる。


要するに、同じ人から同じスキルを教われば、お互いの手の内がわかってしまうのだ。それでも、そこに優劣の差がつくのは、スキルによるものではなく、持ち合わせている臨機応変力であったり言語的な自力に違いがあるからである。交渉や説得や議論をA君だけにマンツーマンで教えて、Bさんやその他の人たちには教えない。こうして初めてA君がそのスキルで優位性を築けるのである。

メビウスの輪

同じ商圏の同業者を集めて、競争優位の戦略を指南するのも同じ結果を招く。どんなに平等に教えたとしても、ビジネスでは差がつく。まるでメビウスの輪のような不可解な帰結が待ち受ける。ぼくだけに有効だと思ったスキルなのに、きみにとっても有効なスキルだったとは……。もしかして、みんながハッピーになれるスキル? いや、そんなものはありそうにない。もしこのような対人関係の内に必勝法に近いスキルが編み出されたとしても、それはすぐに広まってしまう。広まればもはや独占的スキルとしての価値を失う。教える側も学ぶ側も目覚めないと、根なし草のような安直なスキルにしがみつき続けることになる。実際、そうなっている。

交渉などの実践的スキルでは、以上のような矛盾が生じる。ディベートのような教育的スキルでも対人関係が含まれるが、ディベートスキルには他者とは無関係に向上させることができるスキルが含まれる。エビデンスの集め方や読み解き方がそうであり、立論の組み立て方や反対尋問のマナーがそうである。誰にとっても有利なスキルは交渉には存在しないが、ディベートにはありうる。その理由は、法則性や約束事がディベートに多く、交渉に少ないからである。ルールのある学習対象は他人と関係なくスキルに習熟できる。対人関係的変数の少ない学びは席を同じくしてできるが、変数が多い学びはこっそり一人でおこなうものなのである。

記憶の不思議

半世紀以上も生きてきた人なら、何でも覚えられた若い頃に比べて、記憶の劣化を日々痛感しているに違いない。ぼくと同年の友人知人たちには、忘れるなんて当たり前じゃないかと居直る人もいる。たしかに即座に記憶を呼び覚ますよりは、「ええっと、あれは何だっけ?」ととぼけているほうが大らかで悟ったような雰囲気が漂う。冬枯れの趣のようなものか。忘れっぽくなってねぇと笑って済ませているが、それが単に加齢からくるものか、それとも脳の病ゆえかはなかなか本人にはわからない。気が付けば、笑っている場合ではなかったりする。

memory

記憶には覚えるという機能と思い出すという機能がある。一度も覚たことがないことを思い出すことはできないから、この場合の想起不全を嘆くことはない。老若を問わず、記憶で誰もが困るのは、覚えたはずなのに思い出せない時である。そうこうしているうちに、覚える機能も衰えてくる。やがて、再生できる事柄がだんだんと減っていく。

ぼくの場合、人前で話すことが仕事の一つである手前、度忘れを装って毎度毎度その場を凌ぐわけにはいかない。ホワイトボードに向かったのはいいが、字が書けなかったらお粗末である。ことばが出て来ない失語症に近い症状が頻繁に生じれば失業しかねない。

つい先日、ぼくから教わったことを実践していると、知人がSNSでコメントをしていた。「安易に漢字を調べない(……)脳を甘やかすから」という趣旨である。ぼくは確かにあちこちでそう言ってきた。正確を期せば、漢字だけではない。外国の地名でも人名でも、一度覚えた記憶のある固有名詞は、二次記憶域に入っている可能性があるから、思い出そうとするのがいい。結果として思い出せなくても、記憶の再生回路を刺激することはできる。但し、一次記憶域に仮置きしたテンポラリ情報ならすでに揮発している可能性大で、いくら頑張っても思い出せないかもしれない。ともあれ、脳が思い出そうとする前に安易に調べて答えを与えてはいけないということだ。なお、この持論の再現性には自信がある。しかし、その知人にこの話をしたことはあまり記憶にない。


興味のあることは記憶に残り、そうでないことは記憶に残らない。おおむね正しい。けれども、脳には、どうでもいいことを覚え、たいせつなことを覚えないという癖もある。また、最近覚えたことのほうが昔覚えたことよりも思い出しやすいともかぎらない。記憶には印象の強度が関わるし、その時々の事柄の相対的関係――覚えようとする対象以外に印象的なものがないなど――も意味を持つ。精神状態や体調も関係するだろう。記憶には「軸」らしきものがあって、その軸を中心に覚えたり思い出したりする磁場が形成されるような気がする。

幼い頃から今に到るまで、日本の紙幣は何度か改められた。度々の変更のうち、1984年のそれがぼくの記憶内で軸になっている。もちろん、現在ふだん使っている紙幣のすべてを承知しているが、いざ千円札の肖像はと聞かれたら、今もなおそれは「夏目漱石」なのである。いや、夏目漱石ではないことくらいわかっている。そのバージョンが終わったことを知っている。しかし、現行の「野口英世」よりも先に浮かんでしまうのだから、記憶の強度に関しては夏目漱石が優位である。同様に、五千円札は「樋口一葉」よりも「新渡戸稲造」だ。夏目漱石のおびただしい小説と新渡戸稲造の著作の読書体験が、野口英世の伝記一冊と樋口一葉のたけくらべよりも磁場が広いからだろう。

何十年も前に卒業した高校の担任の誕生日を覚えている一方で、同窓会当日の朝に何を食べてきたのかを忘れてしまう。シニアに顕著な特徴だ。これには説明がつく。古い経験ほどよく回顧していて、記憶庫の棚卸を何度もしてきたからだ。今朝のことは一度きりの経験である。緊張もせずにぼんやりとしていたら、たとえ数分前のことでもすぐさま忘れるのである。

思い出すという記憶の再現性を維持したければ、覚える時点での工夫と習慣形成が欠かせない。簡単に言うと、状況や光景などのイメージ情報にはことば情報で補足すること。逆に、ことばを覚える際にはイメージで関連付けることである。そして、生活習慣としてこのことを繰り返す。たとえば、ぼくはITツールを駆使して仕事をしているが、記憶行動の軸となるのは6穴ルーズリーフのノートである。時系列にリフィルは増えていくが、時折り、順番を変えてシャッフルする。暇な時には、自分が書いたものを読み返し、空いているスペースに関連する事柄を書き足す。こうして繰り返し脳内攪拌しているという次第である。面倒だ。面倒だが、記憶の不思議構造に見合った方法だと確信している。

アクセルと学習の関係

先月『日本人はどこから来たのか?』(海部陽介著)を興味深く読んだ。題名になっているテーマに関心があったのは当然だが、6万年か7万年か前のホモサピエンスの出アフリカから世界への拡散の経緯に以前から好奇心をくすぐられていた。後期石器時代や縄文時代のことですら諸説多々あり、断定できるような確証は不十分である。つまり、素人にも自在な推理が許されるから、人類の起源と進化について自由に想像を膨らませることができる。

かれこれ一年くらいになるだろうか。NHKの『生命大躍進』という番組を観た。簡単なメモ書きを元に思い起こせば、おおよそ次のような話であった。

動物には二種の遺伝子――アクセル遺伝子とブレーキ遺伝子――があり、人類以外の動物では同時に生まれ「相殺」される。つまり、脳の進化も緩やかになる。ところが、人類の場合、ブレーキ遺伝子が故障することがある。故障中にアクセル遺伝子のほうが大量に生まれ、創造力につながる大脳新皮質を誕生させた。言語にはFOXP2という遺伝子が関わっている。40万字もあるDNAのうち、たった一文字だけが書き換えられ、それが言語の高度化を促した……「賢い人間」という意味のホモサピエンスである……。

アクセル遺伝子は新しいことへの好奇心と深く関わっているようだ。ホモサピエンスに先立つこと30数万年、ネアンデルタール人の手掛けた石器はほとんど進化しなかった。他方、ホモサピエンスは創意工夫して石器を進化させた。両者には言語能力とコミュニケーションにも格段の違いがあったというのが通説だ。ちなみに、まだ読みかけだが、ノーム・チョムスキーの近著『言語の科学――ことば・心・人間本性』では、言語獲得の突然変異説が唱えられている。出アフリカの頃、ホモサピエンスの脳の回路が配線し直されるような突然変異があり、それが言語能力をもたらしたというのである。人間だから言語を手にしたのではなく、言語を手にしたから人間が人間になったということだ。


以上のような話は今を生きることとは一見関係なさそうだが、アクセルとブレーキのせめぎ合いは、その後進化を遂げた人間の学習構造に色濃く残っていると思われる。ぼくの企画研修で「習熟の方程式」に関するひとコマがある。新しいことに向けての学習意欲と、それを阻む不利係数の関係について持論を説く。

インプットと不利係数

インプットをアクセル、不利係数をブレーキ、そして、アウトプットを創造性とする。インプットが10のとき、不利係数1という、ブレーキが強くかからない状態ならば、10/1だからインプットしたものがそのままアウトプットという成果を生む。ブレーキが利かない状態はリスクが高いとも言える。ぼくたちが生きていく上で、何でもかんでも新しいことに挑むわけにはいかないからだ。安全や保守への指向性も必要だ。同時に、安全や保守は成長にとって手かせ足かせになるのも事実。たとえば10のインプットに対して10の不利係数が働けば、アウトプットは1しか得られない。いくら学んでも成果が上がらないというのは、この不利係数のせいである。

では、いったい不利係数というブレーキの正体は何なのか。それは三つの要素からできているというのがぼくの見方だ。一つは、抗しがたい外的環境要因。もう一つは集団的な規範やルール。そして三つめに個人的な要因がある。つまり、学びながら自分で自分の可能性を閉ざしている。実は、これが一番大きなブレーキ要因で、一言で言えば固定観念である。アクセルを踏んでアウトプットを増大させたい、自己変革したいというのがタテマエで、ブレーキをかけて今の自分を肯定したいというのがホンネなのだろう。何万年も前に遺伝子が誤動作して獲得したせっかくのアクセルである。ホモサピエンスの末裔としては、勇気をもってアクセルを踏むことも忘れてはならない。

セレンディピティを味方につける

セレンディップの三人の王子たち

『セレンディップの三人の王子たち』という物語がある。セレンディップは今のスリランカ。かいつまめば、次のようなあらすじである。

セレンディップ王国は偉大な王が支配していたが、凶暴なドラゴンに悩まされていた。そこで、王は自慢の三人の王子にドラゴンを退治する巻物を探して持ち帰るように命じた。机上の学習だけでなく、武者修業に出して実践的な判断力を身につけさせようという意図であった。長い旅を通じて王子たちは旅先で会う人々の話に耳を傾け、小さな事柄にも気をつけ、困っている人々を救った。結局、巻物は手に入らなかったが、王子たちは偶然を味方につけ、賢明さ、慈悲深さ、勇敢さによる問題解決力、知識を上回る実践的応用力を修得したのである。

重要なのは傍線部。ここに、未知の力を発揮するヒントがある。さて、この物語から「偶然」について一つの考察が始まった。そして、王国の名前セレンディップから〈セレンディピティ〉ということばも生まれた。セレンディピティとは偶然に察知するという概念で、「偶察力」と訳されることが多い。しかし、この一言で片付くと思えないのは、目指して身に付くようなものではないからである。偶然と環境と変化と異種と無自覚……様々な要因が重なる必要がある。


物語が示唆していると思われるセレンディピティとはこうだ。

もともと目指したものは獲得できなかったが、それとは別の、それ以上の成果に恵まれる……本人はそのことに気付いておらず、暗黙知のようなもので動かされている……常識や規範の桎梏しっこくから逃れているため、偶然を生かし感性による気づきが芽生えやすい……前例がないし自らも経験がないから難しいという感情を起こさない……。

同じ環境に身を置いて同じことを繰り返す日々にセレンディピティは生まれにくい。もっと言えば、何をするにしても目的が必要な人、満たさねばならない条件が多い人、規定やルールの縛りを受けるほうが物事に取り組みやすい人……こういう人たちは、持ち合わせているスキルのみを用い、環境の枠組みの中で現実のみを見るから、サプライズが生じる余地がないのである。セレンディピティはサプライズ、つまり、想定外の贈物にほかならない。

他の分析可能なスキルと違って、偶察力を高めるための理詰めの学びがあるわけではない。むしろ、日常の習慣や環境をセレンディピティが生きてくるように見直すのが先決だ。『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』(澤泉重一著)には、セレンディピティ活用の基本ステップの例が挙げられている。

感動→観察→記録→ネーミング→課題の認識→連想→ファイリング→情報交換→行動範囲の拡大→仮説→検証→発見→創造

あくまでも便宜上のステップであって、こんなふうにセレンディピティが規則正しく生かされるわけではない。むしろ、これら13の要素がセレンディピティ醸成のための環境要因になると考えればいい。最後に、ぼくなりに補足しておく。

感動の前提に好奇心があり、愉快がる性格がある。
観察とは「お節介」だ。対象へ強引に個性が介入することである。
記録は書くこと。書くことが新しい発想や思考を誘発する。
ネーミング、すなわち概念や物事を一言で命名する作業は、要素や本質を見つけることにつながる。
課題の認識は明文化を通じておこなわれる。わかったつもりでは認識に到らない。
連想とは知と知を結ぶこと。こじつけてもいいから点情報どうしをつなぐ。既知と既知のつながりから未知が明らかになる。
ファイリングの基本は分類。分類作業はカテゴリーを生み、大なる概念を小さな概念にブレークダウンする。
情報交換の主眼は異種情報の交換(ひいては統合)である。
行動範囲の拡大は、知的探検と読み替えればいい。一か所にとどまるよりも動いたり旅したりするほうがいい。ウンベルト・エーコは言う、「異なる文化のところにセレンディピティが育ちやすい」と。
仮説検証はワンセットだ。仮説は演繹的であり、検証は帰納的である。一般概念と具体的概念のいずれにも偏らず、行き来することが重要だ。
発見創造もワンセット。知識や試行錯誤経験などが累積した結果、あぶり出されてくる新しさへの気づきであり、他人と違う意識や想像に裏打ちされるものである。

コンセプトと連想力(8)

最終稿になりました。「コンセプトの絞り込みと一言化」というテーマでまとめにしようと思います。コンセプトづくりに四苦八苦したら、腕を組んで黙りこむのではなく、ことばをアイスプレーカー役にするに限ります。氷を砕くようにフリーズした思考を解体するのです。ブレーンストーミングの作業では、アイスブレークを比喩的に使い、発想の硬直状態をほぐす潤滑油効果の意味で使います。用いることばは極力斬新な表現であるのが望ましく、陳腐な表現や常套句ではアイデアの行き詰まりを打開できません。カント哲学者の中島義道は『概念的生活』の中で次のように語っています。

(概念とは)言語によって捉えられたものであり、概念的把握とは言語によって捉える把握の仕方である。」

子どもの表情や性格を、笑顔の子どもとか素直な子供などと表現して済ませがちですが、実はかなり大雑把な捉え方であり言い回しです。このような曰く言い難い人の資質や喜怒哀楽に関しては、適材適所で表現しづらく、つねに不満がつのります。食べ物や飲み物の感想がその最たる例であり、言いたいことを精細に描写する忍耐がないと、結局「うまい」というアバウトな表現で場をしのいでしまいます。

コンテンツイメージ・コンセプト・表現

絞り込みとはエッセンスを抽象することなのですが、これは他要素の捨象を意味します。コンセプトを生み出すにあたって、イメージとして思い浮かぶありとあらゆるコンテンツを拾うことはできません。潔く何かを度外視する意思決定が必要です。何がベストかはわからないまま、コンセプトをことばで仮止めすることになります。そのとき、迷うほどさまざまな語り書きうる言語表現の選択肢がありえます。イメージの題材を根拠にして、ことば探しをするのがコンセプトづくりの作業ということになるでしょう。


一枚のリーフレットを想定します。そこには、ある車を広告するための特徴や一般情報が盛られています。

920日・21日大試乗会、特別金利ローン実施中、カーナビ標準装備、クラス最高の静粛性、GFPドイツ安全基準金賞受賞、側面衝突基準対応、ダイナモ搭載パワーエンジン、UVカットグラス標準装備……

捨てがたい気持ちのあまり、これらすべてを拾っていてはコンセプトは定まりません。とにかく捨てなければならない。多忙な顧客の視点から、消費者の心情から、市場傾向から、そして何よりも売り手にとってのメッセージ効果の視点から、捨てることを英断します。足し算ではなく、引き算によって一言化されたコンセプトが生まれます。当然、賛否両論はつきまといます。最終的には根拠と説得にすぐれたコンセプトが選ばれることになります。

「想像」と「空想」という、よく似た二つの概念・表現が存在するのは、両者に差異があるからです。ある概念・表現と別の概念・表現とには差異がなければなりません。そして、おもしろいことに、差異があるのは類似性もあるからなのです。

ともすれば、ぼくたちが平凡なアイデアや陳腐な発想で手締めをしてしまうのは、ことばを渉猟しようとする知的スタミナ不足と語彙不足のせいです。さもなければ、リスクを回避しようとして前例踏襲に落ち着くからです。この結果、流れに棹差し、無難でなおざりな正解探しで終わります。差異のあるコンセプトづくりにあたっては、何が何でも個性的かつ一回性であろうとする意気込みをユニークさの源泉にしなければならないのです。

《終》

コンセプトと連想力(7)

「アナロジーと連想」が今回の主題です。ある表現に満足できない時、言い換えをするものですが、言い換えの一つとして類比や比喩が使われます。類比や比喩をまとめて〈アナロジー〉と呼ぶことにします。おびただしいことばを駆使しても伝わらない時は伝わらない。むしろ、たった一つのアナロジーが連想を刺激して意味を鮮明にしてくれることがあります。

こんな例があります。ある日、広告マンのオグルビー家の飼い犬テディが行方不明になりました。主のオグルビーは迷い犬の広告を新聞に掲載することにします。子どもたちが書いた広告文はコリー種だの毛色だのと特徴を細かに長々と描写したものでした。「これだけの情報を誰も頭に叩き込んでくれない」と父親は言い、行方不明になった場所、飼い犬の名前を書き、「ラッシーのような犬」とだけ付け加えました。当時「名犬ラッシー」はアメリカでは国民的ドラマでしたから、誰もが知っていました。単純な比喩でした。しかし、単純なだけに連想しやすく気に留めやすくなりました。飼い犬はすぐに見つかりました。

何となくわかっているつもりのことを、いざ伝えようとするときに、誰もが言い表わせないもどかしさを覚えます。ある表現を思いついても何かぎこちなく、満足できない……もっと別の言い方があるのではないか……こんな思いはいつも付きまといます。野矢茂樹の『語りえぬものを語る』に興味深い一節があったので引用します。

芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。そんなふうに描写しても、どうもうまく言い表わせている感じがしない。あるいは、黒い雲が垂れこめて、いまにも風雨が強まりそうな、そんな空の様子。これもまだ、うまく言えている気がしない。だが、「うまく言い表わせない」とは、どういう現象なのだろう。目の前に広がるのは実際に黒雲の垂れこめた空であり、それを「黒雲の垂れこめた空」と描写するのは、けっしてまちがいではない。


言いたいことを言い表わすということに「間違い・正しい」という尺度はふさわしくありません。つまるところ、自分の頭の中の表象や概念とことばによる表現の間には、永久に続く不一致がありそうです。不一致を埋めようとすれば、もはや何も語れないし何も書けないでしょう。どこかで見切らなければなりません。見切りをつけるきっかけになるのがアナロジーの一つである「隠喩メタフォー」です。「苦渋に満ちて泣き出しそうな空」とか「早春の山は、入園当日の園児のように初々しかった」などと試みるのです。もっとも、それでもなおしっくりといく保障はありませんが……。

的

しかし、このような表現の試行錯誤を繰り返してきた結果、未知の概念が「共通の概念」として定着するようになりました。現在辞書に収録されていることばはすべて歴史を背負っています。かつて誰も編み出したことのない概念を思いついたとき、ただひたすら言い表わせるように繰り返し努力をするしかないのでしょう。安易に「~的」でしのいではいけません。たしかに、日本と日本的、ぼくとぼく的、結果と結果的などの間には差異があります。「的」は明確ではない何かを伝えようとする気分の表われかもしれません。しかし、「~的」で終わっているかぎり、コンセプトにふさわしい表現は決して見つからない。自分への戒めも込めて、そう言っておきます。

連想を掻き立ててくれる、ぼくのお気に入りの比喩があります。地球の歴史46億年と人類の歴史500万年を対比させるにあたって、地球の歴史を一年のカレンダーにたとえた例です。地球の誕生を元日とし、現在を大晦日から新年に変わるちょうど午前零時に見立てました。この一年のカレンダーから、それまでの46億年対500万年という単純な数字比較では見えないことが見えてきます。このカレンダーでは、人類は大晦日の午後3時に生まれ、今除夜の鐘を聞いていることになります。一年のわずか9時間のうちに、人類はありとあらゆる営み、文明文化、科学技術などを集中的に生み出したのです。人類よりも長い栄華を誇った恐竜は12月中旬に生まれ、クリスマスの頃に滅んだことになります。この比喩から、地球が――ひいては宇宙が――人類に永住権を与えてなどいないことがわかります。まだたった9時間しか存続していないのですから。

《続く》

コンセプトと連想力(6)

何かを分かるための手っ取り早い方法、それは「分ける」ことです。「分ける」と「分かる」はおそらく同じ由来だったのでしょう。大きくて掴みどころがない対象を分かるためには、要素に分けたり属性を抽出したりするものです。たとえば「木とは何か」と考えるとき、まず木を構成している要素を列挙します。根、幹、枝、葉、花や実……という具合に。物事のわかりやすさには分けるという作業が伴います。ここに「概念カテゴリー」という考え方が生まれます。

一年は12ヵ月に分節されています。1月から12月までのカテゴリーがあるわけです。古くからわが国ではさらに二十四節気にじゅうしせっきに分けていて、今も季節の移ろいを語る際には立春だの穀雨だの冬至だのと使います。ネコもイヌも大きな概念でくくればどちらもネコ目。しかし、次位の概念カテゴリーではネコ科とイヌ科に分岐します。ふだんぼくたちは両者を分別していて、イヌをペットにしている人が「ネコ目の動物を飼っている」とは言いません。ちなみに、ハイエナもネコ目。どちらかと言うと犬顔なのでイヌ科かと思いきや、独自のハイエナ科を形成しています。

「英会話力」(A)に必要な要素として、たとえば藤原晃司は、「イディオムの知識、単語量、挨拶ができる、音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、口語表現力、英作文力、正しく発音できる、英文構造認識力」(B)を挙げています(『「わかりやすい表現」の技術』)。Aの要素がBの諸々であるならば、Bを学習すればAが手に入るということになります。実際にそうなるかどうかは不明です。要素が過不足ないと証明するすべはなく、あくまでも概念上の想定にすぎないからです。なお、「B9要素を内包したものがAの英会話力」であることを即座に理解しにくい場合は、外延と内包の中間にわかりやすい概念カテゴリーを置くことがあります。一つの試案を示すと、B1{イディオムの知識、単語量}、B2{挨拶ができる、口語表現力、英作文力、正しく発音できる}、B3{音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、英文構造認識力}というようなくくりです。B1は語彙力、B2は発話力、B3は理解力と言えるでしょう。


概念カテゴリーと属性

似た概念を大きな概念カテゴリーにまとめる一方で、一つ一つの概念に独自の属性を見つけるということがあります。動植物や事物が他の何かから区別されるのは、属性が同じではないからです。キリンの属性は他の哺乳類の属性と異なり、東京の属性は他都市の属性と異なっています。属性はいくらでも挙げるというわけにはいかないでしょうが、少なくとも三つ四つの属性を比較すれば違いが見えてきます。飲み物と言ってしまえば茶もコーヒーも同じカテゴリーになりますが、属性差異にこだわって両者の関係を対比させると、際立った属性が浮き彫りになってきます。

『新明解国語辞典』で飲み物を調べてみたら、「嗜好品として飲む液体」と書かれています。さらに具体的な飲み物をチェックしたところ、ワインは「ぶどう酒」、コーヒーは「コーヒーの木の種を煎って粉にしたもの。また、それを、熱湯を通して濾すなどした飲料。特有の香気と苦味がある」、ココアは「カカオの種を煎った、独特の香りと苦みのある粉(……)」、茶は「嗜好品の一つ。茶の木の若葉から作った飲み物」とありました。これらの語釈から違いを感じ取るのはさほど容易ではありません。コーヒーの「特有の香気と苦味」とココアの「独特の香りと苦み」はほとんど同じことを言っていて、文章上は同じ概念カテゴリーでいいのではないかと思ってしまいます。両者を対比させてみれば、表現の差異が際立っていないことがわかります。

岡倉天心の属性を見極めて概念化する感覚の前では辞書の定義はかすんでしまいそうです。明治時代、岡倉天心はワインとコーヒーとココアのコンセプトを煮詰め、茶の概念との差異化を次のように試みました(『茶の本』)。

ワイン:奢りたかぶり
コーヒー:過剰な自意識
ココア:作り笑いした無邪気さ
茶:想像力を掻き立てる繊細さ

もちろん異論はあるでしょう。飲み物自体の特徴には触れずに、五感を通じての概念的な解釈なのですから。しかし、「最もそれらしい属性」に着目して、同一カテゴリー内の他のものとの関係性を踏まえた上で概念を言語にするのは個別的な試みであり、個別ゆえに、ある人たちにとっては強引に見えることがあります。ともあれ、たった一つの正しい概念カテゴリーがあるはずもなく、また、たった一つの正しい属性表現があるはずもないのです。

《続く》

コンセプトと連想力(5)

今回は「表象から表現へ」というテーマを取り上げます。ぼんやりと浮かんでいる思いやイメージをことばとして現わすということです。手始めに電話でのやりとりを想定しましょう。電話の相手が「鉛筆とファイルを買ってきて」と言いました。「えんぴつとふぁいる」という音が耳に入った瞬間、意識にもののイメージが浮かびます。これが表象です。音に見合ったものが参照されるはずです。

外部にある事物で、いま目の前に実物がないものを認識するときは、この表象を手掛かりにします。そして、表象が仮に同じであっても、それを表わすことばを共有していなければ二者間で通じ合うことはできません。なにしろ実物がないわけですから、ものをことばで表現して伝えるしかないのです。鉛筆を知っていても、たとえばフランス人に「えんぴつ」と言っても通じません。通じるためには、言語文化的な壁を越えなければなりません。

ものがあってその呼び名があれば、名辞の単独レベルでは理解し合えます。では、ものなのかどうかわからない、しかも初めて耳にする音。こんな未知の概念にぼくたちはどう対処しているのでしょうか。相手が「かんかくてきちょっかん」と言ったとします。初耳なので、それが「感覚的直観」だと即座に理解できないかもしれない。しかも、鉛筆やファイルのように具体的なイメージが浮かび上がりそうもありません。もっと身近な「しごとのひんかく」という例でも、事物のようには鮮明に見えてきません。以上を整理すると、音がわからなければ表象が浮かばない、音がわかってもイメージの湧く事物ではない、音とことばがわかっても感覚的直観や仕事の品格などの意味が話し手と聞き手で一致するとはかぎらない……。表現したことが伝わり理解されるのは簡単なことではありません。しかし、ことばで打開するしかすべはないのです。


メルロ=ポンティの「思考がことばを操るのではなく、ことばが思考を実現する。(……)ことばはことば自身について語ることができる」という主張は、イメージとことばとの関係についても言えそうです。頭に浮かぶ鉛筆やファイルのイメージがことばを随え操っているのではなく、ことばがイメージを実現している。テーマである「表象から表現へ」の背後に、ことばによる表現あってはじめてイメージのかたどりが可能になるという前提がありそうです。思考を思考で示すことはできないし、イメージをイメージで現わすことはできません。いや、できるかもしれないけれど、堂々巡りに陥ります。しかし、ことばはことば自身について語ることができ、意味を膨らませたり絞り込んだりしながら、イメージの輪郭を描き出すことができます。

ムンクの「あの絵」に言及したいとき、あの絵では伝わらないから『ムンクの叫び』と言います。いったん「叫び」だと知ってしまえば、頬に両手をあてがい白目をむいて口を縦に大きく開けるあの表情は、叫んでいるとしか見えません。タイトルが絵の実体を語り、恐怖と不安が漂っています。しかし、あの絵はもともと漫画用のイラストが下地だったこと、両手は叫びを増幅させる所作ではなく、もしかすると耳を塞いでいるのかもしれない……などという情報を言語的に知ってしまうと、これまで鑑賞していた名画の表象的意味が一変するでしょう。

トランペットとエンゼルトランペット

かつてブルグマンシア(別名キダチチョウセンアサガオ)と呼ばれていた花は、それがどう呼ばれようが実体は同じです。しかし、ブルグマンシア時代にさほど売れなかった花が「エンゼルトランペット」とリネームされて売れ出したと知り合いの花屋さんは言っていました。ことばが、表現が実体を変えたわけではありません。実体の表象が、その意味と価値を変容させたのです。再びメルロ=ポンティを引くなら、「ことばはひとつの完結した事象を鏡のように映し出すものではない」のです。

コンセプトと連想力(4)

今日の主題は〈コンセプチュアルスキル(conceptual skill)〉、すなわち、概念化能力です。一睨みするだけでは理解しにくい術語で、多義性も帯びています。元を辿れば、アメリカの大学で創案されたマネジメント能力の一つであり、この能力を説明するために、遂行能力である〈テクニカルスキル(technical skill)〉と対人関係能力に関わる〈ヒューマンスキル(human skill)〉と比較することがあります。

マズローの欲求五段階説と同様に、これら三つのスキルも段階論として展開されることがありますが、冷静に考えれば、あるスキルが達成された後に別のスキルを学ぶなどということは不自然です。これらのスキルは並行して身についていくと考えるべきでしょう。とは言うものの、仕事や業務によってテクニカルスキルは変化します。つまり、専門性の色合いが強くなります。これに対して、コミュニケーションの能力を含むヒューマンスキルや思考力に関わる概念化能力のほうが汎用性が高いと言えるかもしれません。

日本人は概念化能力が苦手だと言われてきました。苦手と言うよりも、実際にアカデミックの場で十分に訓練していないからなじんでおらず、なじんでいないから食わず嫌いになっているというのが現実です。学生は試験のために勉強する癖が抜けないので、学んで覚え、やがて忘れます。覚えていても、断片のまま放置するだけなので、知識や情報が体系的に統合されていません。統合の過程では必ず抽象化も必要になります。また、統合の反対の分類能力や要素化能力も欠かせません。手っ取り早い方法は、圧倒的な量の読書をこなすことです。そして、読みっぱなしにせずに、インプットしたものについて考え、共通しそうなテーマを見つけ、コンテンツを作ったり長文を要約したりする練習を積むのです。


概念化能力のうち特に重要な抽象化について考えてみます。よく「具体的に述べよ」と言いますが、具体的であることがいつも歓迎されるわけではありません。具体的とはその事例についてのみ言えることで、他のことについては言えるか不確実です。他の事例についても言い得るためには、一般化したり普遍化せねばならず、そこに抽象化の出番があります。哲学書を難しく感じるのは、哲学が一般性や普遍性を扱うからであり、具体的な事例や固有名詞が少ないからです。哲学や思想はケースバイケースを嫌います。概念化能力は全体像や本質を理解するためのスキルなので、匿名的でなければならないのです。「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました」という昔話のつかみは、物語を普遍的に綴るための手法にほかなりません。

概念化という概念

ABCという要素を統合したり共通性を抽象したりして概念化する作業と、概念化されたものを逆にABCという要素に分解する作業は、論理学の帰納と演繹に通じます。帰納は「特殊から一般へ」、演繹は「一般から特殊へ」と推論します。

さて、概念化の中身を知るために、便宜上、「思考力」「共通性」「再構築」という三つの要素を取り上げます。定説ではなく、あくまでもぼくなりの概念化の捉え方です。

思考力 日々の仕事や生活場面でぼくたちは少なからぬ新しい情報に出合います。目の前の一つ一つの具体的な情報を認識して理解すると同時に、その事柄からどんな普遍的なことが言えそうかを考えます。具体的な事柄と一般概念の往復運動が思考することと言えるでしょう。

共通性 概念化は枝葉末節へのこだわりをほぐしてくれます。複数の事柄の共通性を見極め、個々の細かな情報を切り捨てていくと、細部に囚われていては見えない重要な共通点や法則に気づきます。

再構築 わざわざぼくたちが概念化しなくても、すでに概念が出来上がっていることもあります。そこで、従来一括りにされていた事柄を新しい概念によって再グループ化してみるのです。そうすると、それまでのものの見方とは異なる発想が生まれる可能性があります。ある種のパラダイムシフトと言ってもいいでしょう。

《続く》