記憶の不思議

半世紀以上も生きてきた人なら、何でも覚えられた若い頃に比べて、記憶の劣化を日々痛感しているに違いない。ぼくと同年の友人知人たちには、忘れるなんて当たり前じゃないかと居直る人もいる。たしかに即座に記憶を呼び覚ますよりは、「ええっと、あれは何だっけ?」ととぼけているほうが大らかで悟ったような雰囲気が漂う。冬枯れの趣のようなものか。忘れっぽくなってねぇと笑って済ませているが、それが単に加齢からくるものか、それとも脳の病ゆえかはなかなか本人にはわからない。気が付けば、笑っている場合ではなかったりする。

memory

記憶には覚えるという機能と思い出すという機能がある。一度も覚たことがないことを思い出すことはできないから、この場合の想起不全を嘆くことはない。老若を問わず、記憶で誰もが困るのは、覚えたはずなのに思い出せない時である。そうこうしているうちに、覚える機能も衰えてくる。やがて、再生できる事柄がだんだんと減っていく。

ぼくの場合、人前で話すことが仕事の一つである手前、度忘れを装って毎度毎度その場を凌ぐわけにはいかない。ホワイトボードに向かったのはいいが、字が書けなかったらお粗末である。ことばが出て来ない失語症に近い症状が頻繁に生じれば失業しかねない。

つい先日、ぼくから教わったことを実践していると、知人がSNSでコメントをしていた。「安易に漢字を調べない(……)脳を甘やかすから」という趣旨である。ぼくは確かにあちこちでそう言ってきた。正確を期せば、漢字だけではない。外国の地名でも人名でも、一度覚えた記憶のある固有名詞は、二次記憶域に入っている可能性があるから、思い出そうとするのがいい。結果として思い出せなくても、記憶の再生回路を刺激することはできる。但し、一次記憶域に仮置きしたテンポラリ情報ならすでに揮発している可能性大で、いくら頑張っても思い出せないかもしれない。ともあれ、脳が思い出そうとする前に安易に調べて答えを与えてはいけないということだ。なお、この持論の再現性には自信がある。しかし、その知人にこの話をしたことはあまり記憶にない。


興味のあることは記憶に残り、そうでないことは記憶に残らない。おおむね正しい。けれども、脳には、どうでもいいことを覚え、たいせつなことを覚えないという癖もある。また、最近覚えたことのほうが昔覚えたことよりも思い出しやすいともかぎらない。記憶には印象の強度が関わるし、その時々の事柄の相対的関係――覚えようとする対象以外に印象的なものがないなど――も意味を持つ。精神状態や体調も関係するだろう。記憶には「軸」らしきものがあって、その軸を中心に覚えたり思い出したりする磁場が形成されるような気がする。

幼い頃から今に到るまで、日本の紙幣は何度か改められた。度々の変更のうち、1984年のそれがぼくの記憶内で軸になっている。もちろん、現在ふだん使っている紙幣のすべてを承知しているが、いざ千円札の肖像はと聞かれたら、今もなおそれは「夏目漱石」なのである。いや、夏目漱石ではないことくらいわかっている。そのバージョンが終わったことを知っている。しかし、現行の「野口英世」よりも先に浮かんでしまうのだから、記憶の強度に関しては夏目漱石が優位である。同様に、五千円札は「樋口一葉」よりも「新渡戸稲造」だ。夏目漱石のおびただしい小説と新渡戸稲造の著作の読書体験が、野口英世の伝記一冊と樋口一葉のたけくらべよりも磁場が広いからだろう。

何十年も前に卒業した高校の担任の誕生日を覚えている一方で、同窓会当日の朝に何を食べてきたのかを忘れてしまう。シニアに顕著な特徴だ。これには説明がつく。古い経験ほどよく回顧していて、記憶庫の棚卸を何度もしてきたからだ。今朝のことは一度きりの経験である。緊張もせずにぼんやりとしていたら、たとえ数分前のことでもすぐさま忘れるのである。

思い出すという記憶の再現性を維持したければ、覚える時点での工夫と習慣形成が欠かせない。簡単に言うと、状況や光景などのイメージ情報にはことば情報で補足すること。逆に、ことばを覚える際にはイメージで関連付けることである。そして、生活習慣としてこのことを繰り返す。たとえば、ぼくはITツールを駆使して仕事をしているが、記憶行動の軸となるのは6穴ルーズリーフのノートである。時系列にリフィルは増えていくが、時折り、順番を変えてシャッフルする。暇な時には、自分が書いたものを読み返し、空いているスペースに関連する事柄を書き足す。こうして繰り返し脳内攪拌しているという次第である。面倒だ。面倒だが、記憶の不思議構造に見合った方法だと確信している。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です