人間という〈小宇宙〉があり、天空には〈大宇宙〉がある。小宇宙と大宇宙は気が遠くなるほど離れている。両者をつないでいるのが都市であり、具体的には広場や教会というのが中世ヨーロッパの考えであった。正確に覚えていないが、レオナルド・ダ・ヴィンチに関する本にそんなことが書かれていた。教会の屋根が尖塔になっているのは下界を少しでも宇宙に近づけるためだった、などと想像すればおもしろい。
街や広場や教会が人間と宇宙を媒介しているのであれば、れっきとしたメディアである。メディアとは本来そういう意味だった。「人間はDNAをリレーするメディアである」という発想がある。生命の主役は人間ではなくDNAであり、人間はDNAの運び屋に過ぎないいうことだ。主客が逆転しているのだが、奇を衒っているどころか、もっともらしく思える。そう、蝶が花粉を媒介する生き物であるように、人間もまたメディアを演じているのだ。
知らないことは知っていることよりも、比較するのがバカバカしいほど、そして「1:∞」と類比してもいいほど膨大である。にもかかわらず、「これはいつか見たぞ、聞いたぞ、読んだぞ」という気がすることが多い今日この頃だ。テレビの番組もニュースも、拾い読みする本のくだりも、既視感をもよおしているとは思えないほど、経験が「既に見た、既に読んだ」とつぶやいている。メディアとコンテンツが多様化したら、もっと目新しいものに遭遇してもいいはずなのに、どれもこれもが似通っていて、既知や既読と重なったり、知識から容易に想像できる範囲に収まっている。
実際、民放テレビから受ける見覚え感と見慣れた感は度を越してしまった。視聴率を追い求めればタレントの顔ぶれは決まるだろう。番組構成もパターン化するだろう。こんな手っ取り早い方法がデジャヴ番組を増やしている。いや、既視感ではなく、実際に見せられているのだ。新聞の最終面のテレビ番組表は、連日連夜再放送番組リストの様相を呈している。これを一年365日続けるのであるから、もはやマンネリズム不感症候群に罹っているのは間違いない。
テレビは有力メディアとして新聞の番組欄を独占してきた。新聞も新聞だ。今もなおテレビを中心にメディアを捉えている。ぼくの周囲の三十代はほとんど新聞購読しておらず、またテレビもろくに見なくなっていると言うのに。新聞の番組欄にYouTubeの人気動画が紹介されたり、ここ一週間のネット検索キーワードがジャンル別に並んでも決して不思議でない時代になった。メディア界ではすでにテレビは主役ではない。その時々の有力なメディアの人気コンテンツが番組欄を彩ってもいいはずだ。
ここまで書いている途中で時代錯誤に気づいている。新聞の番組表にテレビ以外の各種メディアコンテンツを掲載すること自体が現実味を欠く。十分に承知している。縦横無尽とまではいかないが、歳の割にはモバイルやPCなどのITツールをよく活用しているが、ぼくのメディアは今も新聞と本であり続けている。本は未読のままでも、いずれ読めばいいと気楽だが、新聞を読まないと一日が終わらない。腐っても新聞なのだ。主な情報源が新聞の切り抜きであるのは実に奇妙な伝統的習慣と言わざるをえない。