単語と文章

『コミュニケーションを生きる!』と題して講演する機会があった。コミュニケーションは思いを伝える単なる手段ではなく、人間関係の潤滑油でもない……何のためのコミュニケーションか? という問いは成り立たない、何のための幸福かと問えないように……人は人間関係に生きコミュニケーションそのものを生きている……というような趣旨であった。コミュニケーションは「飲みニケーション」などとダジャレでごまかすような甘いものではない、ということだ。

少々生真面目で硬派に聞こえるかもしれないが、決して大上段から概念を振り回したわけではない。随所に笑いの仕掛けも埋め込んで、耳にやさしく響かせたつもりである。一昨日、この講演について受講された人たちからの所感がまとめて送られてきた。百枚くらいあったが、すべてに目を通した。鵜呑みにしてはいけないが、「おもしろかった、ためになった」という感想が多くあり、これを機に「コミュニケーションをよく実践していく」という決意も書かれていた。目立ったのが「語彙をもっと増やしたい」という願望である。

新明解国語辞典

講演中、演台に近い最前列に座る男性と目が合い、恐縮ながらいじらせてもらうことにした。「日本語が20万語くらい入っているICチップを脳内に組み込めたらいいですよね」と水を向けたら、彼は無理強いされたようにうなずいた。たしかに、それだけの語彙があればコミュニケーションの達人になれそうな気がする。しかし、単語量の多寡は話せたり書けたりすることとあまり関係がない。たとえ20万語の語彙があっても文章力、つまり話し書く力は担保されないのである。語彙の大きさよりも、単語の配列、ひいては文章論理のほうが決定的な意味を持つ。


とりあえず語彙を増やしたいという話から、ジョークを一つ思い出した。

ある物乞いの前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてあげようと言った。千載一遇のチャンスとばかりに、物乞いは考えに考えた。そして、懇願した。
「神様、実は、最近物乞いが増えて競争が激しくなっています。どうかあっしをこの町でたった一人の物乞いにしてくださいませ」

いわゆるオンリーワン戦略だが、かなり控えめな願いではある。定職を願ってもよかったし、生涯困らない金品を厚かましくねだってもよかった。競合が消える願いが叶っても、彼はこの先も物乞いであり続ける。

「コミュニケーションの能力のうち、一つだけ授けてあげよう」と神様に告げられて、「語彙を増やしたい」と願うのはこれに似ている。語彙を増やしても、今悩んでいるコミュニケーションは向上しないのである。むしろ、文章構成力こそを願うべきなのだ。

単語を膠着的に並べるかぎり、そうして出来上がる文章は論理を持たない。メッセージは断片的な点を寄せ集めたもの以上にはならない。単語を寄せ集めて文章を作るという発想から脱皮しよう。表現したい伝えたいメッセージが単語の配列を構造的に選択するのである。たとえば、自然や現象や思想に触れる。そこから意味や主張を取り出して法則のようなものを見い出そうとすれば、必然、主格と客体の関係で表現するしかない。つまり、文章という形の描写や命題としてメッセージを立ち上がらせなければならない。

コミュニケーション――言うまでもなく「双方向」の言語行動――に関わる者はこのような言語運用に長ける必要がある。単語を個別に覚えることに必死になるのなら、そのエネルギーを文章を読んだり書いたりすることに向けるべきだ。描写も命題も文章の形を取る。一つの文章は別の文章とつながり、思いを紡ぐ。ひとまずよく読みよく書くこと以外にこれといった妙案は浮かばない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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