名乗り方

人は自分のことがわかっているような気になっているが、いったい自分が自分であることの証とは何だろう。おそらく他人に対してアイデンティティを明かす時に自分が強く意識されるかもしれない。初対面の他人に対して自分を名乗る。ふつうは自分の姓名を告げるが、これで身分証明ができているわけではない。したがって、名前を肩書や帰属先で補う。たとえば「○○です。株式会社△△で営業課長をしております」。順番は変わることがある。「株式会社△△の営業課長の○○です」という具合に。組織の屋号・肩書・姓名の3点セットである。しかし、はたしてこの名乗りで自分が何者かが他者に伝わっているのだろうか。

「国会議員です」と名乗るのと「紳士です」と名乗るとは自分の捉え方が違っている。名前を告げた後に「私は紳士です」と自己紹介した人に会ったことはないが、初対面でどこどこの誰々と言われてもその真偽は不明である。つまり、どんな名乗り方をされても「自称」に過ぎない。それが公称でもあるかどうかはしばらく付き合ってみないとわからない。ならば、「自称紳士」もあながちありえない話ではない。

アイデンティティの伝え方にもう一つ有力な方法がある。「~ではない」と言ってみるのである。「○○と申します。決して怪しい者ではありません」。相手に信じてもらえるか怪しまれるかは別問題として、「~ではない」と告げることによって少しは自分をあぶり出せるかもしれない。「サラリーマンではありません」であれ「怪しい者ではありません」であれ、「~ではないこと」を伝えるのも一つの身の証し方ではある。

政治家と紳士、どちらの「個体数」が多いだろうか。微妙である。紳士のほうが多いような気がするものの、現実によくお目にかかるのは政治家のほうで、紳士にはめったに遭遇しない。また、政治家でありかつ紳士である確率はかなり低そうである。だから、ジョークが一つ成り立つ。

「彼は紳士ですか?」
「いいえ。政治家です。」


経営者が「株式会社△△の代表の○○です」と社名と肩書を名乗ったら、その個人のアイデンティティが証明されたと言えるのだろうか。アイデンティティには生業なりわいとしている専門性あるいは得意分野も欠かせないはず。代表だからといって経営ができるわけではないのだから。組織を率いる人、あるいは組織に帰属する人は組織の名称とその組織における肩書を名乗るが、何を得意としているかが不明なことが多い。他方、組織に帰属するしないにかかわらず、プロフェッショナルを任じる人は何ができるのかを必ず名乗ることになる。経済評論家、医師、詩人、弁護士……などである。コンサルタント、フィナンシャルプランナーなどのカタカナの肩書もある。

資格系の肩書や身分は、原則〈自称=公称〉でなければならない。弁護士をはじめ、公認会計士、栄養士、司法書士、消防士、建築士など「士」で終わるプロフェショナルがいる。他に、「師」で終わる医師、教師、調教師、薬剤師らにも資格の裏付けがある。もっとも、「~師」には無資格でも名乗れる例外が多々ある。たとえば、ぼくは講師と呼ばれることが多いが、過去に資格を取得した覚えはない。漁師や尊師や占い師は任意性である。自ら名乗ることはめったにないが、詐欺師や山師というのもある。講師と呼ばれて時々詐欺師や山師のグループに振り分けられたような気がすることがある。

思想家はあっても思想師や思想士、思想者、思想官などは見聞きしない。「~家」というのは、さすが家だけあって奥行きを感じさせる。小説家、舞踊家、作曲家、脚本家、建築家、書家……。そうそう、富裕層を思わせる資産家や蒐集家というのもある。書評家は職業だが、読書家は趣味のニュアンスが強い。著作家ではなく著述業と名乗る人もいるが、家が業になると、営みの色が濃くなるような気がする。

何一つ資格を持たずにプロフェッショナルの下座に着いてきた身としては、「~家、~師、~士、~業」で終わる職名につねに違和感を抱いてきた。そこで一計を案じることにした。「~人」と名乗ってしまうのである。歌人、詩人、職人のように、企画人や発想人と自称してみる。この二つの名称を併せて「アイディエーター」とカタカナの肩書を数年前から背負ってきたが、ニュアンスは「~人」である。芸人や浪人や犯人と同じグルーピングになるが、気に留めないことにしておく。

情報の伝え方

新聞やウェブページ、その他のメディアを問わない。紙でもデジタルでも話は同じである。文章や写真などの情報は一つのまとまりのある「面」として伝達される。その面を便宜上「紙面」と呼ぶことにする。紙面の主役は文章である。読み手に伝わらなければならない。しかし、文章のわかりやすさや適切な表現という質だけが伝達を担うわけではない。むしろ、見出しや本文の位置関係のほうがメッセージの意味や伝達の精度に大きく関わることがある。ものは言いようであるが、ものは並べようでもあるのだ。

一ヵ月以上前の新聞記事を見て「凡ミス」に気づいた。大見出しは「ジャマイカリレー金剥奪」。副見出しが「薬物陽性 日本、『銀』繰り上げへ」である。大見出しと副見出しから、昨夏のリオ五輪を即座に連想する。リオ五輪の100㍍×4の優勝チームはジャマイカである。そして、日本はジャマイカに次いで2着になり、銀メダルを獲得した。あのゴールシーンは今も記憶に新しい。「銀の日本が銀に繰り上げ」とは変だ、金に繰り上がるのではないか……ひどい凡ミスだと判断したのは、実はぼくの早とちりであった。しかし、早とちりさせた主たる原因は記者と編集者のほうにある。

本文を読めば、「ウサイン・ボルト(30)を含むメンバー全員の金メダルが剥奪」とある。ボルトの年齢は現在の年齢である。だから今の話だと思う。さらに記事は「処分が確定すれば銅メダルだった日本が銀メダルに繰り上がる」と続く。「おいおい、リオでの日本は銀メダルだったではないか」とぼくが反応するのも無理はない。


「日本のリレーチームの銅は北京だったはず。次のロンドンはたしかメダルを取っていない。半年前のリオは銀である」などと思いをめぐらしていて、はたと気づいて写真説明文を読んだ。「北京五輪の陸上男子400㍍リレーで金メダルを掲げるジャマイカチームの……」と書かれている。ここでやっとこの記事が8年半前のレースのことについて書かれていることがわかったという次第。この時点で記事全体を俯瞰的に見渡したら、大きな見出しの下に申し訳程度に但し書きされた「北京五輪」という文字が目に入った。

周知の通り、再検査したところ、北京五輪当時から保存されていた検体が薬物陽性反応を示したのである。そんな長きにわたって検体が保存されているなどとは知らない。仮に知っていたとしても、ロンドンを飛び越して北京まで遡る金剥奪の話だとピンとくる想像力を持ち合わせていない。ぼくの想像力・理解力の問題ではない。この記事には紙面づくりの決定的な問題があるのだ。「金メダル剥奪」というテーマにとって最重要のキーワードは「北京五輪」なのであり、さらに親切に書くなら「2008北京五輪」とすべきだった。これが大見出しに含まれるべきだった。日本が銅メダルから銀メダルに繰り上がる情報よりも、目立つ場所に配置されてしかるべきなのである。

「見出しの下にちゃんと北京五輪と書いてあるではないか」という言い訳は通用しない。鳥の目で紙面全体を見渡してから記事を読むわけではないからだ。「見出しから本文へ誘導せよ」というのは記事や広告のセオリーである。見出しで何について書かれているのかがわからねばならない。紙面づくりに携わる者は、文章を綴ることに躍起になる。しかし、どんなに文章を分かりやすく書いても、置き場所が不適切であれば、記事全体の誤読が生じる。情報が氾濫して個々の情報価値が低減する時代、紙面を読ませるには新しい一工夫が必要になっている。

無限回廊のような考えごと

〈ペンローズの階段〉のどこに立ってもいい。そこから一段ずつ上がってみる。確実に上昇しながら、しかし、必ず元の場所に戻ってくる。考えごとをしていて、頭の中がこんな状態になっているのを誰もが経験するはず。着実に一歩ずつ考えが進んでいるように思えても堂々巡りになっている。しばらく時間を費やしたのに、熟していないのを知ってがっかりする。がっかりするが、堂々巡りには気づくので、救われる。そこでやめたり一工夫して一から考え直したりできるからだ。

ところで、アイデアを捻り出すのがぼくの仕事の基本になっている。アイデアは時間量に比例しないので、効率性も安定しない。出ない時は何時間、何日費やしても出ない。ここが調べものなどと決定的に違う点だ。調べものはおおむね時間に比例する。つまり、時間さえかければ探している情報が見つかる。数日間の猶予があれば――満足の度合はあっても――日にちに応じた調査結果が手に入る。アイデアの場合、「らしきもの」が芽生えても満足できなければ、それはアイデアとは呼べない。自分と依頼者双方が満足できたものだけがアイデアなのである。

手元の辞書で「アイデア」という用語を引くと、理念、観念、考え、思いつき、着想……などという意味が示されている。ちなみに、英和辞典の“idea”の見出しには、考え、意見、見解、思いつき、着想、創意工夫、観念、思想、知識、認識、想像、感じ、イデー、テーマ、モチーフ……などが掲げられ、日本語の辞書よりも概念がさらに細分化されていることがわかる。ぼくはアイデアに意見や思想や理念などを含めない。素朴に「目新しい着想」という意味で使っている。また、ものを扱うのではなく概念を扱う仕事なので、アイデアは必然ことばという形で現わすことになる。


アイデアには「経験」として身についた素材と「熟成」という時間が必要である。今しがた調べて入手した情報は青いから、無理やりアイデアに仕立てようとしても、調査の域を出ないし、目新しい着想からはほど遠い状態にとどまる。さらに、アイデアは広がりや組み合わせという作用の産物であるから、視野狭窄の専門性も障害になる。間に合わせの調べものと閉じられた深掘りはアイデアを阻むのである。アイデアを生まれやすくするには、この逆を構造化するしかない。すなわち、習慣的に形成した経験知を生かし、見晴らしをよくすることである。

調べれば答えが見つかるようなことを考えない、また、行動するほうが手っ取り早いことをああだこうだと考えない。アイデア探しというのは大海原を遊泳するようなものである。あるいは、成果が約束されない道程を歩むようなものである。だから、どうでもいいような作業を見切って、調べてもわからない、前例のない領域で考えることにエネルギーを注ぐ。芽生えそうなアイデアをことばで仕留めて明快に表現することに集中力とスタミナを使いたいのである。

手で顎を支えて座り込み長時間考えているように見えるロダンの「考える人」。あの像に言及して、串田孫一は『考えることについて』の中で次のように語っている。

一体考えるということは楽しいことであるよりも苦しいことが多いのでしょうか。(……)恐らく人は充分に楽しい時には何も考えない、また考えたくないのだと思います。(……)考えるという人間に与えられた働きの本当の役目は、そうした苦しさのためにくよくよして愚痴を洩らすことではなくて、もっと意義のあること、(……)人間がよりよい状態を自ら作るための工夫、あるいはそのための努力だといってもよいと思います。

「考えるということは楽しいことであるよりも苦しいこと」なのかどうかはわからない。無難に言うならば、苦しくて楽しく、楽しくて苦しい。行為として考えるだけなら楽しもうと思えばそうできる。しかし、何がしかの意図に基づいたアイデアを出すということになると――そして、それが仕事であるならば――苦しく悶々とする時間を費やさねばならない。

冒頭で書いたように、堂々巡りなら何とかやり直しもきく。しかし、もしまったく先の見えない無限回廊のような状態だとしたら……串田孫一の言うように、「人間がよりよい状態を自ら作るための工夫、あるいはそのための努力だ」と自分に言い聞かせるしかない。アイデアは「目新しい着想」だと書いた。もう一つ、それは「なかなかひらめかないもの」であるということを付け足しておく。

センスとは何か

「自分の身についた関心から選ぶのがいい(……)」と中村雄二郎が『読書のドラマトゥルギー』の中で語っている。読書がテーマなので、これは本の選び方についてのヒントである。しかし、読書指南だけにとどまらない。それが何であれ、あることについて語る時、自分の関心事――少しは分かっていると自覚している事柄――から話を始めるのが妥当である。と言う次第なので、「語学のセンス」からセンスの話を始めることにする。語学はぼくの関心事であり、他に齧ってきたものとは比較にならないほど時間を費やしてきたからである。

どの外国語でもいい。必要に応じて目先の表現を探すような学び方では、言語を「思考と連動した文章意味的に」習得するのは難しい。たとえば「これはいくらか?」とか「どこどこへはどう行けばいいのか?」などの観光・ショッピング的表現を組み合わせても、その後の想定外のやりとりに対応はできない。「こんな場面ではこの言い回し」というような、アルゴリズム表現はたどたどしく、かつ硬直的である。「語らねばならない」と「語りたい」が一つになり、ことばと考えが結び付いて身体的感覚が覚醒する。当為としてのメッセージと欲求としてのメッセージが重なってはじめて自己表現のセンスが身につくのである。

語学のセンスは習慣の賜物であり、それ以外の何物でもない。小さく身についた関心が好奇心へと連鎖する。先の中村雄二郎は続ける。

「自分の好みや関心をありのままに認めることは、私たち一人一人の一種の全人間的な欲求からそれを蔽っているタテマエやかまえをとり払うことにほかならないのである。」

語学という部分だけではない。全人間的な欲求なのだ。つまり、一般教養であり経験であり、身体的繰り返しなのである。では、母語である日本語でこのような欲求を逞しくして日々繰り返しているか。読み書き話し聴くというリテラシーを強く意識しているか。語学のセンスは、母語でも外国語でも根は同じである。よく書きよく読めば文がまとまる。よく話しよく聴けば語感が響く。


センスのいい服、ユーモアのセンスなどという場合のセンスも、語学のセンスのセンスと違いはない。欲求であり経験であり、繰り返した結果身につく、その分野の物事を微妙に感覚できる働きだ。ここで大切なことに気づく。センスは独りよがりな感覚ではなく、コモンセンスということばが示す通り、思慮や分別の拠り所となる共通感覚でもあるという点だ。いや、むしろ、この共通感覚上に立ち現れるのが個々のセンスと言うべきか。一部の辞書はセンスを能力と規定しているが、そうではなく、教養、経験、想像の作用であり、習慣の積み重ねなのである。

これまで生業としてきた企画という仕事は、才能でもなく専門知識でもなく、センスに大きくその質を左右される。好奇心、目新しさへの志向性(あるいはマンネリズムに安住しない姿勢)、かつて考えなかったことを考えること、異種の組み合わせ、愉快がること……これらが企画のセンスの養分である。ここまで話すと、企画志願者は尋ねてくる、「どうすれば養分を摂取できるのか?」と。驚くほど簡単である。企画とはことばを縦横無尽に駆使して考える仕事であるから、それに最も近い習慣を形成すれば済む。派手ではなく地味で、甘くはなく渋くて、だが苦しいばかりでなく愉しく、そして怠惰や下品と縁遠い習慣行動。それは読書である。

語学と企画という、ぼくがまずまず身につけてきた関心事を中心にセンスについて書いてきて、読書という処方箋に辿り着いた。我が田に水を引くような展開となった。あらためて整理しておく。物事を微妙に感じる働きがセンスであるなら、どんな物事であれ、やがて自分を取り巻く世界にまで広がる。自分と世界との関係を見つけ、関係の意味を感じ取ることへと到る。一冊の本を読むという体験がそのシミュレーションになってくれるのである。

断り書き

オフィスの隣りは市立高校。その道路向かいに運動場がある。運動場は壁で囲まれていて、壁に沿って花壇が設けられている。その花壇に最近樹木の苗木がかなりの本数植えられた。苗木は愛らしくていいのだが、残念なことに標識も一緒に埋め込まれている。「ポイ捨て禁止」「駐輪禁止」……。標識ばかりが目立って花壇の見栄えが悪い。自動販売機と並んで、言わずもがなの標識は景観価値を低める要因である。

以前、『陳腐なことば』と題して、ありきたりのスローガンや公共の場での注意書きを批判したことがある。今時のスローガンには無難な「ふれあい」が目白押し。「ふれあい天然温泉」に「ふれあい広場」。「ふれあいトイレ」なるものも出現するに及び、いったい何を奨励しているのかさっぱり理解できなくなった。美しく整備された芝生なのに、まるでその美観を台無しにするような「芝生に入るな!」の立て札もよく見かける。

商品パッケージや説明書には、使用方法や効能書きよりも、注意書きや禁止事項のほうにより多くのスペースが割かれている。エネルギーや関心が注意書きに向いているのだ。売り物への自負や情熱が足りないわけではないだろうが、傍目にはコンプライアンス意識過剰の裏事情が見え隠れする。十年程前の食品偽装事件以来、また、クレイマーの存在がとやかく言われ出した頃から、あらかじめ注意を促したり断りを入れたりする傾向が強くなったような気がする。


「容器の底に一部成分が沈殿する場合がありますが、味や品質にはまったく問題がありません」などという説明に苦し紛れを感じる。しかし、添加物や不純物でないのなら、つまり成分自体が天然素材で、それゆえに沈殿という現象が生じるのなら、いちいち但し書きをしなくてもいいではないか。この方面の表示ルールに疎いのでそんなものいらないと胸を張って言えないが、一消費者としてはわざわざ弁解してもらわなくてもいい。

これはSchweppes(シュウェップス)のずいぶん前の広告である。写っている人物は同社のCEO。十数年にわたって広告で起用された。見出しは三行で次のように書いてある。

“You can see the lemon in Schweppes Bitter Lemon. That’s because Schweppes uses whole, fresh lemons. Juice, pulp, peel, everything.”
(シュウェップスのビターレモンにはレモンが見えます。丸ごと新鮮なレモンを使っているから。果汁、果肉、皮、すべて。)

この広告を見て感心した。果汁も果肉も皮も一部は液体から分離して沈殿物になる。瓶を逆さまにしてその沈殿物がさまようのを見つめている。沈殿物があるという断り書きの代わりに、丸ごとの新鮮レモンを訴求している。本文文末に小さな文字で断り書きを入れるのは野暮だ。堂々と見出しにしてしまうことに共感する。

人のおこない、人が作るものには元々ファジーな要素がある。それを杓子定規に法で縛ることに無理がある。悪意も偽装もなく、善良な精神で品質を作り込んで形にしていることを断り書きにすることはない。コンプライアンスに怯えて断り書きを掲げ、断り書きさえしておけばそれで済むと考えることが信頼性の証明ではないだろう。

敢えて面倒な検索

週末に古書店で『ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集』を見つけた。収録図版70点、150ページの文庫サイズだから、立ち読みで済ましてもよかったが、全六冊シリーズのうちすでに『京洛四季』を読んでいた縁があって、買って帰った。『ドイツ・オーストリア』に一通り目を通した後『京洛四季』と隣り合わせに置こうと思ったら、『京洛』が見当たらない。どうでもいいのだが、いったん気になると意地になる。ありそうな場所の本棚を丹念に探したがやはり見つからない。諦めた。日を変えると、案外容易に見つかったりするものだ。

電子書籍なら検索は便利に違いない。しかし、時間のかかる面倒な本探しも読書行為の一つだと観念しているし、若い頃からの習慣だから慣れている。用語を調べたいなら、辞書よりもウェブのほうが便利なことは知っている。ウェブなら一発検索できる。しかし、探している用語の意味だけを知れば当面の目的は完了する。そこには寄り道も脱線もない。辞書ならどうか。ページをめくり探し当てた見出し語以外に、その前後の用語が自然と視覚に入る。気になれば読んでみる。無関係かもしれない用語に望外の発見があったりする。それが楽しい。効率のよい検索だけが知につながるなどとは考えない。

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アナログノートを愛用している。長所と短所がある。そのことを十分に承知した上で35年以上続けてきた。つまり、うまく長所を生かして短所に耐えてきたわけだ。仕事柄考えなければならない。単に考えるのではなく、新しいことを考えなければならない。新しさは無から有を生み出すことではなく、既知の事柄の組み合わせである。知っていることをジャンルや時系列を越えて結ぶことである。腕を組んで脳内検索してもうまくいかない。記憶をまさぐってイメージを浮かべても雲散霧消するばかりである。記憶検索は難しい。しかし、記録検索なら何とかなる。


脳は整然とした秩序ではなく、カオスを特徴としている。カオスだからこそ知のダイナミズムが生まれる。しかし、脳を直接上手にマネジメントするには天才を要する。ゆえに、凡人は記憶したものを可視化できる作業所を用意しなければならない。記憶を文字化した記録の置き場所、それがノートである。混沌とした脳の記憶をいつでもどこでも一覧できるようにしてくれる。そんな記憶の記録帳をぼくは〈脳図ノート〉と命名し表現した。ルーズリーフ式のバイブルサイズの手帳である。前世紀の終わり頃に評判になり活用する人もかなりいたが、今ではすっかり出番の少なくなった代物だ。

考えたこと、気づいたこと、知りえたことのすべてをここに記す。あちこちに分散させないので、知識や情報は一元化できている。だいたい半年分から一年分の直近の事柄を書き込んだページを綴じている。枚数にして350枚程度、両面あるから700ページ分になる。いつも傍らに置くか携行している。日々新しいページが加わるが、それだけでは単なる記録にすぎない。たいせつなのは、書いたものを読み返すことだ。〈脳図〉を繰り返し読めば、脳のカオスの中に仮想のディレクトリーやインデックスが見つかる。まるで脳にアクセスして情報を閲覧するようなものだ。こうして新旧様々の異種情報間に対角線が引かれ相互参照が促される。関連しそうなページどうしは近接させる。ページの順番はつねに流動して更新統合される。

自分の手で書いたのだから、どこに何を書いたのか、大半は覚えている。もちろん探すのに手間取るのは日常茶飯事だが、ページを繰っている過程で探している情報と無関係なページに出くわす。この偶然が偶察になり新しい知を触発してくれる。DropboxEvernoteも使っているが、それらは写真や大容量ファイルやウェブページの切り抜きを保存するため。たまに図書館のように利用することがあるが、ぼく自身のアイデアや観察や読書の抜き書きはそこには書かず、すべて〈脳図〉にしたためる。

こんな話をすると、ある人は啓発されて試してみようと言い、別の人は「やっぱり検索が不便だと思う」と言う。「この時代に、今さらノート?」と懐疑する人もいる。たしかに、アプリやソフトを使えば一元化もできるし検索もうんと楽になる。しかし、統合作業は結局自分でやるしかないのだ。仮にAIで統合できる時代が来たとしても、自分という個性的存在が編み出すアイデアが欲しいのであって、統合の省力化をしたいのではない。過去様々な知的生産の技術が生まれては消えたが、古典的なアナログノートは知の一元化と統合にめっぽう強いのである。手間暇がかかり面倒である。しかし、料理と同じで、即席よりはかなりおいしい結果になる。

ターゲティング極まる

ワンフロアーにおびただしい種類の品々を揃えて売る店がある。百円ショップとスーパーマーケットとコンビニなどだ。食料品や日用雑貨はたいてい間に合う。こうした何でも屋は誰にでも門戸を開いている。十分条件は満たせないが、不特定多数の必要条件ならある程度は満たす。かつてはすべての業種でこんな万屋よろずやが五万とあった。しかし、「大衆から分衆の時代へ」と言われ始めてから、もう三十年の歳月が過ぎた。今日、多様化が進み、大半の店は専門色を色濃く出さなければ生き残れなくなった。

「出掛ける時は忘れずに」というスローガンで有名な大手クレジット会社のDMが来た。DMは忘れた頃に送られてくる。以前この会社のゴールドカードの会員だったが、複数のクレジットカードの年会費がバカにならないので、整理対象にした。もちろん会員履歴が残っているから、ぼくの個人情報はリストに入っているに違いない。今回のDMは個人カードの復活を促すものではなく、法人のビジネス・プラチナカードの案内。年会費が消費税別で130,000円という「怖ろしいカード」だ。

DM20cm×20cmの正方形サイズで12ページ。不特定多数を対象にしているはずもない。ターゲットを絞り込んで想定している。十数年前ならいざ知らず、今のぼくをそのターゲットに含めているのは買いかぶりである。では、ターゲットは誰か? 景気のいい会社の経営者かプロフェッショナルであり、ステータス志向者であり、そこそこのインテリジェンスを備えた顧客のように思える。なぜインテリジェンスを備えた顧客かと言えば、表紙をめくった表紙裏のページがいきなりこれだからだ。

働く喜びが仕事を完璧なものにする。
――アリストテレス


哲学者の名前に違和感を覚えたり尊大な姿勢に見えたりする人が共感するはずもない。アリストテレスに響く可能性の高いターゲットを定めているはずである。ページをさらにめくると、次に出てくるのがアリストテレスの師匠筋のことば。

世界を動かそうと思ったら、まず自分自身を動かせ。
――ソクラテス

さらに続く。

最も生きた人間とは、最も年を経た人間のことではない。最も人生を楽しんだ人間のことである。
――ルソー

「最も生きた人間」というこなれない翻訳的表現に違和感があるが、見逃そう。とどめはこちら。

うまく使えば、時間はいつも十分にある。
――ゲーテ

偉人たちのキーワードを並べると、働く喜び、仕事、世界、自分自身、人生の楽しみ、時間……ということになる。こうした概念がそこそこのステータスに辿り着き、さらに上を目指す人たちに訴求し、カードを手にしたくなるという目論見のようである。このDMの効果のほどは知る由もないが、何を売るか、何を伝えるかという古典的マーケティング手法でないことは確かだ。誰に売るか、誰に伝えるかというターゲティングを意図している。

targeting

人は他人と同じものを欲しがり、何が何でも欲しがるというピークはとうの昔に過ぎている。要らないものは要らない。たとえ欲しくてたまらなくても、要らないものは手にしないというのが当世の傾向である。“Marketing”を修正して“Targeting”に置き換える時代ということだ。定価500円の商品を100人に売って5万円を売り上げるのではなく、定価5万円の商品を一人に売る。売上額は同じである。

そのつど無い知恵を絞って、手作りさながら少人数ターゲットに多品種小量を提供する仕事をしてきた身である。そこに仕事の楽しみを見い出してきたのが精一杯の自負かもしれない。研修の仕事一つを取っても、ターゲティングが極まっている。千人集めて話すようなテーマに挑むよりも、せいぜい十人、二十人程度の極小勉強会のほうがやりがいがある。欲張ってターゲットを広げると画一的にならざるをえない。画一的であるということは、一人ひとりの個性や個別ニーズに目を向けていないということにほかならない。

発想のパターン

〈セレンディピティ〉については何度か書いている。「偶察力」と訳される通り、察知する力に偶然が働いて新しい発見がもたらされるという意味。意図や目的に沿って何事かを察知しようとしたところ、そこに偶然が働いて意図や目的と異なる所に着地する。狙い通りではなかったものの、予期しなかった成果を代わりに得ることになる。もちろん、偶然の作用だけで何もかもがうまくいくことはない。集中的に経験や知見をフルに生かしてこその、何十回か何百回かに一回の望外のご褒美。それがセレンディピティである。おそらく従来のパターン化された発想回路に異変が起きるのだろう。

1960年代の後半、エドワード・デ・ボノは、従来のパターン化された発想を〈垂直思考〉と名付けた。論理的かつ分析的思考のことだ。そして、そのアンチテーゼとして〈水平思考〉を提唱した。水平思考に対しては専門的批判も少なくなかったが、ここでは立ち入らない。さて、垂直思考には功罪がある。もともと論理や分析の前提には命題や対象がある。命題や対象とは、仕事で言えば一本道のルーティンワークに相当する。垂直思考はルーティンワークで繰り返し使える。しかし、枠組みから出て目新しい発想を生み出すには柔軟性に欠ける。これに対して、水平思考は多視点からの観察や気づきから始まる。既存のものの見方に比べて発想回路が広がりやすい。エドガー・アラン・ポーも、「深さではなく、広がりや見晴らしが熟考につながる」と言っている。

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論理的思考に意味無しとは思わない。筋道を立てて推論を積み重ねていく作業はどんな職場でも有効だ。しかし、ほとんどの場合、その作業は確実に分かっていることの確認であり検証なのであって、何か新しい物事を見つけるプロセスではない。また、水も漏らさぬように証明作業を続けるには、集中力と思考のスタミナを維持しなければならない。垂直的な発想パターンは、たとえそれが複雑であれ単純であれ、一定の枠内で絶対的な緻密さを求める。新しいアイデアは枠からはみ出た所でに芽生える。ここに、垂直思考と一線を画する水平思考の出番がある。


垂直思考では一本道の思考を妨げるような逆説は厳禁である。また、自らの思考を懐疑してもいけない。たとえば「能力があればリーダーになれる」というような命題を一所懸命に考えて明かそうとする。一段ずつ証明を積み重ねていくから、一気にジャンプしたり寄り道をしたりしない。しかし、ちょっと水平的に考えてみれば、「能力がなくてもリーダーになれる」ということに経験的に気づけるはずである。つまり、逆説も真なりなのだ。

発想を豊かにしたいと思っている人は少なくないし、正直な気持ちだろう。しかし、発想豊かな人の習慣化された勉強法を教わって実践するかと言えばそうではない。なぜなら、セレンディピティや水平思考には、おおむねこうすればいいというヒントはあっても、本質はアバウトであり、ルールやパターンを確定できず、不安心理に苛まれるからである。これに比べれば、垂直思考の学びでやるべきことは明快だ。それは局所的かつ限定的であるがゆえに、手順を踏まえればそこそこの成果が得られる。優良可の「可」を目指すなら垂直思考でよい。実際のところ、人材の大半は垂直思考を軸に据えて日々仕事をこなしている。

垂直思考の人々に水平思考になじんでもらうのが、ぼくの研修テーマの一つである。なじんでもらうのであって、垂直思考を捨てさせて水平思考にシフトさせるのではない。ところが、新しいアイデアを愉快に感じ、ひらめきやセレンディピティに小躍りできるかどうかは、日常の習慣形成に関わる。何かにつけて目的が必要な人、条件を増やす人、何がしかの規定や法則がなければ仕事に着手できない人……こういう人たちは、自分が持ち合わせているスキルの種類や現実の枠組みの中でしかものを見ない。したがって、偶察によるサプライズにめったに遭遇しないのである。

では、水平思考のような新しいアイデアを誘発したりひらめきを促したりするにはどうすればいいのか。ことば側からイメージを刺激するしかない。ことばを駆使すると論理や分析に傾くのではないかという懸念があるが、実はそうではない。むしろ、垂直思考のほうがことばの融通を制限する傾向がある。縦横無尽にことばを蕩尽することが発想回路をパターンの呪縛から開放するのである。

「結局ひらめきの構造を探ったりトレーニングで強化しようと思っても、可視化でき共有できるのは『ことば』でしかないように思う」
(千葉康則『ひらめきの開発』)。

思考に行き詰まったら腕を組むのではなく、誰かをつかまえて会話をするか、一枚の紙を取り出して書き始めることである。しかし、このヒントもすでに一つのパターン化された発想にほかならないが……。

立地の良し悪し

マンションのオーナーが最上階に住んでいる。先日ちょっとした会話を交わした。「最近スーパーが増えて便利になりましたね」と言えば、「いやいや、どのスーパーに行くにも歩いて67。中途半端な立地です」と意外な返事。「立地」はよく使うことばである。立地が良いとか悪いとか、好立地とか、立地条件が揃っているとか……。「中途半端な立地です」と言ったオーナーは、立地にどんな意味を込めたのか。単に場所という意味だったのか。

ぼくの住まいの周辺を知る人は異口同音に「立地の良い所ですねぇ」と言う。なにしろ、地下鉄が3路線あり、いずれの最寄り駅へも徒歩5分圏内だ。ミナミの繁華街で飲み終電がなくなっても、タクシーを拾わずに15分程で帰宅できる。オーナーとやりとりしたように、新しいスーパーが2店舗でき、ぶらり歩いて10分以内に合計4店舗。さらに商店街があり、そこには小規模ながらスーパーが3店舗ある。オフィスまで徒歩10分という、ほどよい職住近接条件を加えると、ぼくにとっては抜群の立地なのである。

前後の文脈から切り離した「立地」は、単に場所や位置のことにすぎない。富士山の立地は自然の産物であり、あの位置にあることに良いも悪いもない。場所や位置が良いとか悪いと言えるのは、生活・文化や仕事・学業や事業の営みを考慮するからだ。そして、これらの営みのために人は移動しなければならず、そこで交通の便や移動時間が考慮される。生活者は必要な行為のために理想の立地条件を思い描き、理想に近ければ立地が良いと喜び、理想から遠ければ立地が悪いと嘆く。つまり、みんなにとっての好立地などというものはない。


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この図のように、自宅からABCまで67分なら便利な立地と言える。「中途半端な立地」というのは不便という意味ではなく、どこへ行くにも同じ時間がかかる、ということのようだ。オーナーは高齢者である。高齢者にとって頻繁に利用する施設の遠近は重要だ。オーナーが中途半端な立地から脱出したいのなら、一番お気に入りのスーパー、たとえばAのそばに引っ越すのがいい。その一ヵ所だけが12分という近さであれば、それが好立地ということになる。その代わり、BCは遠くなる。それでもオーナーはオーケーなのだ。買物する場所の選択肢の多さに関心がないのだから。もしBが銀行でCが役所なら、スーパーAの近くの住まいは必ずしも便利とは言えない。ぼくはこの図の立地に十分満足している。スーパーも駅も異なった三方向にあるのがいい。

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上図のような、Aのスーパー、Bの役所、Cの銀行が同じ方面で近接している立地もある。まとめて用事が片付くから、車で15分かかっても十分便利だと考える人がいる。しかし、オーナーのように67分でも遠いと感じる人にはメリットがない。そこで、オーナーがBの役所裏に引っ越すとする。銀行もスーパーも近い。しかし、今度はコミュニティセンターや駅や飲食街からは遠くなってしまうかもしれない。

話は簡単だ。どこかに近づけば、別のどこかから遠ざかるようになっているのである。何もかもが生活圏にあるような好立地を望むなら、街全体を超コンパクトシティにするしかない。たとえば2キロメートル四方に何から何まで間に合うような生活舞台を作ってしまえばいい。それでもなお、街の北東角の図書館に行くのに、南西角に住む子どもは2.8キロメートル歩かねばならない。そして、これを便利と思うか不便と思うかは、個々の生活軸である時間・距離感覚次第。車を所有しないぼくにとっては、車がなくても自前の体力だけで活動できる場所が好立地なのである。

「ダメなものはダメ」のダメ

言い分が通るはずがないことは明らかなのに、性懲りもなく「ダメなものはダメ」で場をしのごうとする見苦しさ。苦し紛れの言い逃れだと自覚しているならまだしも、これで論理が通っていると確信しているから厄介だ。「ダメなものはダメ」で突っ張る弁者は、「これほど自明な理屈がきみにはわからんのかね」という調子で、自らの話法のメッキが剥がれていることにまったく気付いていない。

「ダメなものはダメ」のような表現形式を論理学では〈トートロジー〉と呼ぶ。ダメということばを繰り返すから同語反復。言い分はこの一文内に閉じてしまい、これ以上の発展性はない。こんな似非論理でも、閉じてしまうと案外強いもので、本人は自論が完璧だと自信満々だ。それが証拠に、尋ねてみればいい。「なぜダメなものはダメなのか?」 きっとこう答える、「だってダメなんだから」。

今は亡き女性政治家T.D.は「ダメなものはダメ。無理なものは無理。筋を通したい」と言った。筋を通したいとは論理的でありたいに等しい。その論理の前に、ダメダメと無理無理を置いたのが奇妙である。ところが、この奇妙な話法に再反駁する側が相手の土俵に上がってしまう。そして、「ダメなものはダメという主張はおかしい」と言い返すのだが、これが腰砕け。「おかしい」などというのも真摯な議論にはふさわしくない表現なのである。


ダメなものはダメである

トールミンのオーソドックスな三角ロジックに当てはめてみる。通常、証拠と論拠に基づいて主張を唱える。「今日は夕方から雨が降る」という天気予報は、当たるか当たらないかはともかく、自分の意見ではなくて証拠である。この証拠から「折り畳み傘を持って出掛けよう」と考えることに無理はなく、主張として一応成り立つ。

こんな当たり前の推論においても論拠を編み出せる。たとえば、「オフィスに置き傘がないから」でもいいし、「出先に雨宿りできそうな地下街はないから」でもいい。証拠と主張と論拠には同じことばが反復されない。「Aである。ゆえにBである。なぜならばCだから」と説明しようとする。ところが、「ダメなものはダメ」は「Aである。ゆえにAである。なぜならばAだから」という推論構造になる。よく分からないAを分かるためにAを手掛かりにするしかないないのである。

「うまいものはうまい」や「美しいものは美しい」も苦し紛れの言い回しだ。それでも、「ダメなものはダメ」ほどの不条理を感じないのはなぜか。うまいも美しいも個人的な感覚であり、二者の異なる感覚を葛藤させても意味がないからである。また、「うまくない」「美しくない」と反論してけりがつくわけでもない。料理のうまさや女性の美しさを競うコンテストがあるが、審査員にどう評価されようと、自分の料理はうまい、私は美しいと思っていればそれで済む。なぜそう思うのかと聞かれたら、「うまいものはうまい」「美しいものは美しい」と自惚れておけばよい。

「ダメ」は自分の価値観とは異なる対象に向けられている。つまり、ダメだとケチをつけた方が他人の価値観や意見にノーと言ったのである。ノーは責任を負うことにほかならない。一般的には言い出した者が立証責任を負うのだが、立証不十分を喝破しようとする側にも反証のマナーが求められる。「うまいものはうまい」「美しいものは美しい」という幼い主張に対して、「うまくないものはうまくない」「美しくないものは美しくない」と反論しても切り返しになっていない。単に幼さにお付き合いしたにすぎない。引き分けどころか、無理筋の自滅である。と言うわけで、「ダメなものはダメ」と言われたら黙殺しておけばいいのである。