『ニッポン景観論』(アレックス・カー)を興味深く読んだ。とりわけ日本人がこよなく愛するスローガンの話がおもしろかった。日本人はスローガンが好きであり、そのスローガンにお決まりの無難なことばを使いたがる。「ふれあい」を筆頭に、「文化」「交通安全」「人権尊重」「世界平和」「環境にやさしい」……などのキーワードが街を覆い尽くす。これに、あってもなくても誰も見向きもしない注意書きが加わり、街の景観価値を台無しにしてしまっているのである。
上の写真は同書から。左が本家フィレンツェのダヴィデ像と佇まい、右は「もし日本にダヴィデ像があれば」という仮定で著者が合成したもの。いや、これは仮想などではなく、間違いなくこうなると思われる。実際、「まちをきれいにしましょう」というスローガンが街そのものよりも目立っている景観地はいくらでもある。
本来五感に響くはずだった景観。それが、たった一つの注意書きで色褪せる。同じことは新しい考えについても言える。斬新な表現に魅了される一方で、たった一つのことばでメッセージが陳腐化する。ぼく自身、ありふれていて、しかも手垢まみれのことばを使った直後にハッとすることがある。ことばなら気づくからまだいい。それが発想や考えだったら、ハッとがぞっとに変わる。
他人の発想や考えがたとえマンネリズムであっても、なるべく領域侵犯しないようにしている。しかし、企画という職業柄、一緒に仕事をする仲間の陳腐なことばには神経センサーがつい反応してしまう。この時、自分自身がさっき使ったお定まりの文句にはひとまず目をつぶり耳をふさいでいるのであるが……。
言うまでもなく、陳腐化した表現や常套句を使わずに言語活動することは不可能である。けれども、そうしたことばを使いながらも、表現を組み合わせたり文脈上の工夫を凝らしたりして少しでも新鮮味を求めるべきだろう。安易に妥協してはいけないと自らを戒める一つの教えを思い出す。「新しき酒は新しき皮袋に」がそれだ。この名言自体が常套句になったきらいがあるので、やや複雑な気分で引用することにする。
「新しい葡萄酒を古い皮袋に入れようとはしない。そうするなら、皮袋は破れて酒は流れ出て、袋もまた廃れてしまう。新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば酒も袋も保たれる」
(新約聖書 マタイ福音書)
この故事は転じて、今では一般的に、新しい考え・思想には新しい表現や形式が必要であるという意味で使われる。つまり、伝えたい「何か」に新しさがあるのならば、陳腐なことばでまかなってはいけないという教訓である。
キーワードの一つ、「文化」ということばの陳腐性には当然ぼくも気づいている。何とか文化会館や何とか文化講座などあちこちで顕著である。これをカルチャーと呼び換えても平凡さは変わらない。文化ということばを使うたびにいくばくかの後ろめたさを感じるし、代替してくれそうな表現に辿り着けないのをもどかしく思う。もしぼくの伝えたいメッセージに文化以上の価値があり、それが従来の文化の概念と一線を画するのなら、文化で間に合わせてはいけないと思う。なぜなら、他人はありきたりの文化のことだと思ってしまうからである。けれども、やむなく文化で済ますことが多い。これは、ある種の言語的怠慢だと自覚している。