『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本は書評で知っていた一冊。書店で「ちら見」だけして買わずに帰ってきた。答えの分からない問題――あるいは既存の答えが存在しない問題――に対して、自ら解を捻り出そうという話。決して嫌いなテーマではないが、まあ読まなくてもいいだろうと判断した次第。
この命題は「ドーナツに穴があること」を前提にしている。ドーナツとは「小麦粉に砂糖、バター、卵などを加えて捏ね、球形にして油で揚げる洋菓子」であり、穴の有無は枝葉末節のバリエーションに過ぎない。したがって、正確を期すならば、「リングドーナツの穴だけ残して食べる方法」とすべきである。昨日の朝にぼくがつまんだクリームドーナツには穴がなかった。最初からないものを残すことはできない。この本を買わなかった理由は、この命題に先立って「ドーナツとは何か?」が問われるべきだと思ったからである。
情報は、深層においてではなく、表層で受発信されるから、定義、すなわちことばの言い換えや表現に強く依存する。「太陽」と言うか「お日様」と言うか……社長と言うかCEOと言うか……「信号は赤だった」と点情報をぽつんと言って終えるか、それともその点情報から次の展開である「車は止まった」に目を付けるか。ことばの目の付け方がイメージを左右する。「つちやたび店」→「月星ゴム」→「ムーンスター」という社名の変遷は、情報の衣替えでありイメージの変容でもある。モノには拡張の限界があるが、ことばはいくらでも融通がききイメージを広げてくれる。
どんなことばにも多義が備わっているので、一語によって複数のよく似たモノや思いや状況の表現をある程度まかなうことができる。しかし、類語辞典をひも解けば、おびただしい類語が掲げられている。手元の類語辞典で【終わる】を引けば、品詞変化も含めて60ものバリエーションが紹介されていた。このような言い換え(あるいはパラフレーズ)が起こるのは、よく似た概念グループをわずか一語で束ねることがままならないからである。もちろん、類義語には共通の概念が横たわっている。たとえば空想と想像という二語には「いま知覚できていないことを思い浮かべる」という概念の重なりがある。その一方で、相互に代替不可能な固有の意味がある。たとえば、想像は経験を踏まえるが、空想は経験を必要としない、等々。その意味を使い分けねばならないからこそ、いずれの語も存在するのである。
話をドーナツに戻そう。
「物事を体系的に扱おうとするなら、定義から始めよ」(キケロ)に倣えば、まずはドーナツの言い換えに挑むことが問題解決の端緒になるはずだ。ドーナツを指し示して「これは何?」と無作為に人を選んで尋ねてみよう。
「ドーナツです」(現実主義的な一般人)
「あ、穴だ!」(異端児)
「輪以外の何物でもない」(抽象論者)
「穴が空いている洋菓子」(合理主義者)
「いわゆる一つのリングドーナツですねぇ」(長嶋茂雄)
「ドナーツ、大好き」(幼児)
「これはUFOに間違いない」(妄想家)
「周縁存在と中心不在」(懐疑的形而上学哲学者)
「○○堂の商品だね」(オヤツオタク)
「甘いもの、苦手なんですよねぇ」(意思疎通不全者)
「ドーナツという言語と写像関係にある世界の要素」(ヴィトゲンシュタインの末裔)
「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と聞いて最初に浮かんだのが、何十年も前の中田ダイマル・ラケットの漫才の一コマである。
ダイマル 「ぼくはレンコンの穴が苦手でねぇ」
ラケット 「ほう、そしたらレンコンは食べへんのか?」
ダイマル 「いや、穴だけ残して食べてる」
正確ではないが、だいたいこんな感じのボケとツッコミだった。これで十分に答えになっているではないか……というのがぼくの直感である。穴が苦手であるなら、「ドーナツの穴だけ残して(ドーナツを)食べる」という命題自体がすでに一つの方法を示唆している。だが、穴が好きでたまらない人間にとっては穴を残すのは忍び難いに違いない。ドーナツも好き、穴も好きという者にとっては証明意欲に火がつく命題なのであろう。言うまでもなく、ドーナツにも穴にも関心のない者にとってはまったく響かない命題である。