センスとは何か

「自分の身についた関心から選ぶのがいい(……)」と中村雄二郎が『読書のドラマトゥルギー』の中で語っている。読書がテーマなので、これは本の選び方についてのヒントである。しかし、読書指南だけにとどまらない。それが何であれ、あることについて語る時、自分の関心事――少しは分かっていると自覚している事柄――から話を始めるのが妥当である。と言う次第なので、「語学のセンス」からセンスの話を始めることにする。語学はぼくの関心事であり、他に齧ってきたものとは比較にならないほど時間を費やしてきたからである。

どの外国語でもいい。必要に応じて目先の表現を探すような学び方では、言語を「思考と連動した文章意味的に」習得するのは難しい。たとえば「これはいくらか?」とか「どこどこへはどう行けばいいのか?」などの観光・ショッピング的表現を組み合わせても、その後の想定外のやりとりに対応はできない。「こんな場面ではこの言い回し」というような、アルゴリズム表現はたどたどしく、かつ硬直的である。「語らねばならない」と「語りたい」が一つになり、ことばと考えが結び付いて身体的感覚が覚醒する。当為としてのメッセージと欲求としてのメッセージが重なってはじめて自己表現のセンスが身につくのである。

語学のセンスは習慣の賜物であり、それ以外の何物でもない。小さく身についた関心が好奇心へと連鎖する。先の中村雄二郎は続ける。

「自分の好みや関心をありのままに認めることは、私たち一人一人の一種の全人間的な欲求からそれを蔽っているタテマエやかまえをとり払うことにほかならないのである。」

語学という部分だけではない。全人間的な欲求なのだ。つまり、一般教養であり経験であり、身体的繰り返しなのである。では、母語である日本語でこのような欲求を逞しくして日々繰り返しているか。読み書き話し聴くというリテラシーを強く意識しているか。語学のセンスは、母語でも外国語でも根は同じである。よく書きよく読めば文がまとまる。よく話しよく聴けば語感が響く。


センスのいい服、ユーモアのセンスなどという場合のセンスも、語学のセンスのセンスと違いはない。欲求であり経験であり、繰り返した結果身につく、その分野の物事を微妙に感覚できる働きだ。ここで大切なことに気づく。センスは独りよがりな感覚ではなく、コモンセンスということばが示す通り、思慮や分別の拠り所となる共通感覚でもあるという点だ。いや、むしろ、この共通感覚上に立ち現れるのが個々のセンスと言うべきか。一部の辞書はセンスを能力と規定しているが、そうではなく、教養、経験、想像の作用であり、習慣の積み重ねなのである。

これまで生業としてきた企画という仕事は、才能でもなく専門知識でもなく、センスに大きくその質を左右される。好奇心、目新しさへの志向性(あるいはマンネリズムに安住しない姿勢)、かつて考えなかったことを考えること、異種の組み合わせ、愉快がること……これらが企画のセンスの養分である。ここまで話すと、企画志願者は尋ねてくる、「どうすれば養分を摂取できるのか?」と。驚くほど簡単である。企画とはことばを縦横無尽に駆使して考える仕事であるから、それに最も近い習慣を形成すれば済む。派手ではなく地味で、甘くはなく渋くて、だが苦しいばかりでなく愉しく、そして怠惰や下品と縁遠い習慣行動。それは読書である。

語学と企画という、ぼくがまずまず身につけてきた関心事を中心にセンスについて書いてきて、読書という処方箋に辿り着いた。我が田に水を引くような展開となった。あらためて整理しておく。物事を微妙に感じる働きがセンスであるなら、どんな物事であれ、やがて自分を取り巻く世界にまで広がる。自分と世界との関係を見つけ、関係の意味を感じ取ることへと到る。一冊の本を読むという体験がそのシミュレーションになってくれるのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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