元旦に参拝した神社の裏門の手前に献梅碑がある。王仁博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったエピソードにちなむ。
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
王仁博士はわが国に『論語』と『千字文』を伝えた人物として知られる。『論語』は知の原典として、『千字文』は書のお手本として、古来知識人の教養に大いに与った。彼らがどのように読書に親しんだのか想像しづらいが、津野海太郎の近著によれば、読書は個人的な行為であり、それゆえに「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で……」ということになる。この仮説に基づいて、日本人と本の読み方の歴史が探られる(『読書と日本人』)。
〈書評輪講カフェ〉という読書会を主宰して久しいが、本の読み方については自分自身がまだ試行錯誤を重ねている。故事成句の「読書三到」は、声に出して読む「口到」、よく目を開いて見る「眼到」、心を集中して理解する「心到」の三つを指す。今風に言えば、音読、黙読、熟読ということになるだろうか。では、なぜ本を読むのか。「読書万巻を破る」は大量に本を読破せよと教えるが、十を知って一を語ることを奨励している。人は一しか知らないのに十を語ろうと見栄を張るものだ。それを戒めている。一冊だけ読んで十冊読んだような振りをするぼくなどはまだまだ二流の読書人である。
それでも、自分で読みたい本を選び、万巻からは程遠いが、独りでこつこつと読む。最近はこの傾向がますます強くなった。身近な人と交わって骨のある話を語るという機会がずいぶん減ったのが理由の一つ。たまに会っても同じ話題ではつまらないし、この歳になってもまだ現役で仕事をしているから、どうでもいいような話に時間を割くのが惜しい。だから本を読む。遠い時代の賢人の思想やことばに触れていれば、落胆させられることはあまりない。これがいわゆる「読書尚友」の意義である。
あまりなじみのない「図書獨娯」を書き初めの文字に選んだ。「としょひとりたのしむ」と読み下す。この熟語が生まれた頃の図書とは書画のことである。詩文やそれをしたためた書、墨絵などは独りで鑑賞して楽しむのがいいという意味だ。広く解釈して読書を含めてもいいだろう。本を読んだり美術を鑑賞したりするのは、個人的な体験であり、集団でおこなうよりも娯楽価値が高いと思われる。作品には独りで向き合うのがいい。
初硯は愚直に一回勝負を貫く。書き損じがあっても書き直しはしないことにしている。ああ、線が細かったか、バランスに少々難があるかなど、毎年筆を置いてから顧みる。ともあれ、独りとはもとより孤独のことではない。邪魔が入らないというのは至福の歓びなのである。