「かつら」の話

昨年末にイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。その後、本棚から『ピノッキオの冒険』を取り出してもう一度読んでみた。ある日、大工のアントーニオ親方とジェッペットじいさんが「言った、言ってない」の口ゲンカを始め、ついにほんもののケンカになってしまった。そして……

つかみあい、ひっかきあい、かみつきあい、もみくちゃの大騒動。やっとおさまった時には、アントーニオ親方の手にはジェッペットじいさんの黄色いかつらがにぎられ、ジェッペットじいさんの口には、大工の白髪混じりのかつらがくわえられていた。

その後二人はお互いのかつらを返し、握手をして、以後仲良くやっていこうと誓い合う。男のかつらはハゲを暗示する。ハゲどうしは、仮にもめたとしても関係がこじれないようになっているのだろうか。根拠はないが、ハゲたちは仲が良いような印象がある。

ところで、ウィキペディアは「ハゲ」の解説を次のように始めている。

ハゲ(禿、禿げ)とは、加齢、疾病および投薬の副作用、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頭部がつるつるに禿げている様を指し、つるっぱげ(つるっ禿げ)もしくはツルハゲ(つる禿げ)とも呼ぶ。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることは稀である。

上記引用でぼくが引いた下線部に注目。いきなり冒頭からウィキペディアにしては少々はしゃいでいるではないか。おそらく、ハゲと言ったり書いたりした瞬間、人の心理には何らかの異化作用が生じるようである。


かつらについて語ることがハゲの話に発展する必然性はない。しかし、ウィキペディアの記述である「髪の毛が薄い」とか「頭部がつるつるに禿げている様」とか「つるっぱげ」とかの話とかつらは、中年以降の男性の場合にはワンセットになる傾向が強い。ここでひとつ、かつらとハゲに関する持論を問題提起してみたい。

ハゲの市場は大きいにもかかわらず、商品が毛髪剤と植毛とかつらに限られるのは発想力不足だ。ぼくの親しい友人知人にハゲが数人いる。彼らを見て、以前からハゲに似合うメガネ、ネクタイ、スーツがあり、さらにはハゲならではの話し方や立ち居振る舞いがあると考えていた。誰もやらないのなら、どこかのメーカーの新事業部門に話を持ちかけて商品とサービスのコラボ企画をしてもいいとさえ思っている。

劇作家の別役実に『日々の暮らし方』という本気か冗談か判断しづらいエッセイ集がある。その中に「正しい禿げ方」という本気か冗談かわかりかねる一編が収められている。冗談ぽく書かれているが、正しい挨拶のしかたと間違った挨拶のしかたがあるように、禿げ方にも正しい・間違いがあっても何の不思議もない。別役は次のように話を展開する。

ひとまず、これは多くの「禿」が間違えていることなのであるが、テッペン・・・・から禿げてはならない。(……)テッペンから禿げはじめた場合、残存頭髪をドーナツ状に周囲に配置することになる。つまり、「禿」が中央で、独立して異彩を放つことになる。(……)このことが理解出来れば、前頭部、後頭部、側頭部の内でも、前頭部から「禿」を始めるのが最も理想的なことは、誰にでもわかるであろう。

「たかがハゲ」ではない。つねに「されどハゲ」なのである。テッペンから足元まで、一個の人間としてハゲの全体構想が必要なのだ。ハゲを頭部の現象として何とかしようとするからかつらに目が向いてしまう。安易にかつらで何とかしようしてはいけない。かつらはムレるしズレる。そして、ほぼ間違いなくバレることは無数の事例が証明している。かつらであることがバレた瞬間、毛髪に続いて紳士の資格も失うことになるのである。

部分的な符合の不思議

ばったり会った。「奇遇ですねぇ」と知人。いやいや、同じエリアで事務所を構えているのだから、たとえ久しぶりでも奇遇などとは言わない。「やあ、しばらく」でいいと思う。

ぼくらが、たとえば東京下町の、あまり観光客が踏み入れない居酒屋でばったり会ったら、その時は「奇遇」である。そして、会ったのは偶然だが、「もしかして周到に準備されていた出来事ではないか」などと思えば、出会いが〈符合〉めいてくる。

ABという事実や話が、まるでセットだったかのようにぴったり合うことが符合である。しかし、事実にしても話にしても、何から何まですべてが一致してしまうと逆に怪しい。むしろ、いくつかの要素がたまたま共通したり一致したりしている時に偶然が脳裏をよぎる。本来の符号よりも「部分的な符合」のほうが不思議なのだ。


映画『孤独のススメ』

6年前の423日に映画『孤独のススメ』を観た。翌24日に国立国際美術館で『森村泰昌 自画像の美術史』を鑑賞した。森村は名画の登場人物や歴史上の人物に扮してセルフポートレート作品を制作する先駆的アーティストである。別に驚いたわけではないが、まったく接点のない映画と展覧会にいくつもの符合があった。

森村泰昌扮するゴッホの自画像

森村の自画像にはレンブラントとゴッホに扮した作品がある。いずれもオランダ人だ。映画『孤独のススメ』はオランダ映画で、舞台もオランダ。オランダつながりということなど、いくらでもある。

ゴッホを生涯支えたのは弟のテオ。テオという名の人物が映画でホームレスの居候として登場する。このひげ面の居候が女装するからおかしい。ところで、女装の自画像も森村作品の特徴である。いや、独壇場と言ってもいい。

森村の展覧会では美術展としては珍しい70分の映像が上映された。その中で森村は羊の群れに囲まれる。そして『孤独のススメ』では、テオが羊の鳴き声のマネが得意で、羊の扱いに手慣れたシーンが出てくるのだ。

映画を観て、一晩寝て、次の日に認知した部分的な符合。何もかもが似ているのではなく、オランダ、テオ、女装、羊という部分的な共通性にたまたまぼくが気づいただけの話である。大いに驚いたわけではない。しかし、このほどよさが偶然と符号の不思議を余計に感じさせる。

「同一ラベルです」

スーパーのレジ係が商品のバーコードをスキャンする。時々「同一ラベルです」の音声が流れる。その日、これまでの連続最多回数を耳にした。中年男性が買った特価のざるそば用麵つゆの小袋。「同一ラベルです、同一ラベルです、同一ラベルです……」。正確に数えていないが、優に20回を超えたと思う。

一昨日、「いろはす」の2リットルペットボトルを2本レジに差し出した。2本目のスキャン時に「同一ラベルです」。けだるくもなく張り上げるでもなく、いつもの事務的な女性の合成音。たまに同じものを2個買う。もっと買う客はいくらでもいる。何十回、いや何百回も聞いてきた「同一ラベルです」。けれども、まだ慣れない。慣れないとは、つまり、今も新鮮に感じるということだ。

「ねぇ、あなたたち二人は双子?」
一人「はい」
もう一人「同一ラベルです」

声を揃えて「はい、双子です」などと言うよりも、よほど刺激的ではないか。

類義語・・・は同一ラベルではないが、同義語・・・なら同一ラベルと言えるのだろうか?

「何と言いますか、『ラーニング』ですかね。いわゆる一つの『学習』と言えるでしょうか」
「長嶋さん、学習はラーニングの『同一ラベル』ですね」

長嶋流では、「鯖」は「魚へんにブルー」の同一ラベルになるらしい。

教授「きみの論文のこの数行のくだりだけど、参考文献の一冊のコピペだな」
学生「いいえ、たまたまの同一ラベルです」

いやいや、数行の偶然はない。明らかに故意である。しかし、知らず知らずのうちに同一ラベル化することもありうる。たとえば、洗脳した者の脳をスキャンした後に、洗脳された者の脳をスキャンする。「同一ラベルです」と音声が流れたら不気味である。

挿し木してみたくなる症候群

みるみるうちに、さっきまで命ある樹々の枝葉だったのが次から次へと地面に落ち、ゴミと化していく……時々出くわす街角の光景だ。公園事務所の職員(または下請け業者)はてきぱき剪定し、ばっさばっさと伐採し、時にはぐいっと抜根する。迷いも未練もすっぱり断ち切る。当然だ。いちいち感情移入していたら仕事にならない。

室内で植物を育て観葉しているぼくのような者にとっては、剪定は恐る恐る身構えるような作業になる。先月もらったサクラの枝の切り花がピークを過ぎ、そろそろお別れする時になった。緑色が残っていて新しい芽がついている小枝を数本、15センチほどの長さに切って、切り口に発根促進剤を塗って水に漬けた。半月経っても根が出る気配はなく、枝も変色し始めた。うまくいかなかった。

元気がない別の植物も同じように処理して水耕している。ダメもと覚悟の上だが、うまく命をつなげればと思う。こんなことをここ数年続けているうちに、まずますの確率でうまく発根することを知った。土に植え替えて面倒を見れば上々に育つものがある。こうして、蘇生やリレーのための挿し木が剪定時の習わしになった。


観葉植物は春先から夏の暖かい時期に剪定する。切った枝葉のうち良さそうなものを選んで、水に浸したり土に差し込んで発根を期待する。一般的に、観葉植物を挿し木する時、最初は水耕で育てるほうが根が出やすい。ところで、なぜこんな作業をしているのかと言えば、元の植物と同じものを増やすためである。

放置しておくと、鉢植えの観葉植物は根詰まりするし栄養状態も悪くなる。だから毎年剪定し、数年に一度は新しい土に植え替えてやる必要がある。剪定した枝葉をうまく人工的に培養すれば、クローンのように増殖してくれる。しかし、増やして誰かに譲るわけではない。鉢の数が増えると世話する手間も増える。週一回の水やりに半時間もかかる。にもかかわらず、なぜそこまでして増やすのか。

剪定した茎や枝をゴミ箱に捨てる際に芽生える罪の意識だ。せめて一本か二本を挿し木にすることで償っている。間違いなく最初の頃はそうだった。しかし今では、罪の意識や償いではなく、発根達成感を求めているような気がする。モンステラなどはこんなふうに挿し木していって、子孫兄弟の鉢を五つも六つも増やした。今年も剪定と挿し木の季節がやってきた。ゴールデンウィークの頃から忙しくなる。

牛乳への道と作法

先週書いた『簡単そうなのに、うまくいかない』の続編。続編なのに『牛乳への道と作法』と題名を変更したのは、牛乳の蓋や封を外す今昔の苦労話にテーマを絞ったからである。数ある本の中からたまたま劇作家の宮沢章夫のエッセイを思い出した。

宮沢章夫には『牛乳の作法』と題した著書がある。また『牛への道』というエッセイ集もある。ずいぶん前にどちらも読んだ。愉快な本である。両作品のタイトルを合体させた『牛乳への道と作法』を思いつき、今から書こうとしているエピソードにぴったりだと判断した。パクリではなく、ある種のオマージュである。


閑話休題。牛乳瓶には戦前から20数年前まで紙製の蓋が使われていた。今では牛乳瓶の蓋はポリキャップだ。なぜこうなったかと言うと、紙のキャップが「伝統的に誰にとっても開けにくかった」からである。蓋に小さなツメを付けて開けやすくした改良品も出たが、紙ゆえに牛乳がにじむとか一度開けたら保存しにくいという問題が残ったままだった。

牛乳瓶の口に寸分の隙間なくぴったりと嵌まっている紙の蓋を開けるのは一苦労だった。指先で蓋の端っこをつまめないから、小さい子らは押した。押すと蓋の半分が瓶の中に入り込み、反動で牛乳のしぶきが飛び出る。70年代、あの蓋は押すものだと思っていたと友人のアメリカ人は言った。彼には押してもダメなら引いてみよという知恵が湧かなかった。

一家にはあの蓋を取るためだけに爪を長く伸ばした婆ちゃんや母ちゃんがいたものだ。そんな時代がしばらく続いたあと、月極で配達してもらっていた家に、ある日、アイスピックの子分のような、蓋を針の先で突いて持ち上げる小道具が配られた。そう、蓋開けとか蓋外しとかピックなどと適当に呼ばれた「アレ」だ。アレは正式名称がないまま、誰にも気づかれずに姿を消した。牛乳にありつく道と作法が一気に変わったからである。

ポリキャップの牛乳瓶は残っているが、主流は紙パックになった。開ける所作が「針を刺して蓋を外す」から「接着された封を左右に引き離す」へと変わった。当初、便利になったと紙パックを歓迎した消費者がかなりいた。他方、面食らった消費者も少なくなかった。すっかりポピュラーになった今でも、ハードルの高さに困惑する消費者がいて、たとえば、あの〈開け口〉と反対側の封の違いを学習できずにいる。

彼らをわらうことができるだろうか。某乳業のホームページでは「牛乳パックの正しい開け方」を次のように指南している。

1.親指を開け口の奥まで差し込む。
2.開け口を手前にして両手で左右に十分広げる。
3.左右いっぱい屋根につく位置までしっかり押しつける。
4.親指と人差し指を両端にあてて注ぎ口が飛び出るまで徐々に手前に引く。

難解な文章である。特に、3.の「屋根」、4.の「注ぎ口が飛び出る」のイメージが湧きにくい。手順通り、文字通りに進めても無事に開け口が開けられない人が相変わらずいるのだ。同情を禁じ得ない。「牛乳パックの正しい開け方」が掲載されていること自体、紙パックを開けるのも難しいとメーカー側が確信している証拠である。

料理に付いてきた〈セミ〉

季節外れの〈セミ〉の話題。書いてみようと思ったのは、注文した料理にセミが付いてきたからだ。初めてではない。以前にもそんなことが何度かあった。

ところで、セミは漢字で「蝉」。虫へんに単だから簡なのだが、ど忘れして戸惑うことがある。英語では“cicada”というらしい(さっき調べて知った)。初見である。Googleで発音を聴いてみた。「セカーダ」と英国人女性が、「セケィーダ」と米国人男性が言っていた。ぼくにそう聞こえたというだけで、正確な発音はわからない。

雇っている中国人が夏の終わりに蝉を獲って食べるという話を知り合いの経営者から聞いたことがある。蝉のエピソードと言えば、それくらいしか知らない。「蝉と言えば?」と問われたら、抜け殻か、セミファイナルというダジャレか、芭蕉の「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」くらいのもの。他に思い出すような洒落た故事成句やことわざはない。


幼虫として過ごす長い年月は誰にも知られないまま、蝉は地上に現われて羽化する。そして抜け殻を残し、この世の最期とばかりに数日間うるさく鳴き、やがて亡骸なきがらになる。古来、日本人の関心の対象はこの蝉という生き物よりも「鳴き声」だったのではないか。それが証拠に、蝉の種類の区別もつかないくせに、蝉の声のオノマトペを熱心に文字で再生しようとしてきた。ジージリジリジリ、ツクツクボーシ、カナカナ、ミーンミンミンミンミー……。

蝉の声はわが国では夏の代表的な風物詩になっている。他方、南フランスでは鳴き声にはあまり関心がなく、蝉そのものをある種の象徴として見てきた。蝉は幸運のシンボルとして親しまれ、南仏の太陽とも重ね合わされる存在だという。ここで冒頭の料理と蝉の話がつながってくる。

先日、フランス料理店でコース料理を注文し、メインに茶美豚ちゃーみーとんを選んだ。蝉が皿の上に乗ってきたわけではない。メインの皿の直前に新たに置かれたナイフに蝉がかたどられていたのである。ラギオールナイフとしてよく知られる細工物だ。もう閉店したが、以前よく通ったビストロでは、ソムリエがワインを開栓する時にこの蝉の彫金ナイフを使っていた。久々に見るナイフ。目を凝らした。フクロウと言われればそう見える。縁起物だと思うことにして、手のひらにずっしりとくる重みで肉を切った。

今どきの様々な事情

今年初めての出張が入った。八月の予定が人流抑制のために十月下旬に延期になった。久々の伊丹空港はかなりリニューアルされていて、要領を得るのに少々手間取った。行き先は高知龍馬空港。一年八カ月ぶりの高知。この前は冬装束、今回は背抜きのスーツ。連泊だった前回はキャリーケース、一泊の今回はトラベルリュック。一番の違いは、ビフォーコロナの前回はマスク無し、コロナの今回はマスク有り。

高知出張の最大の楽しみは魚食い。ビフォーコロナの昨年1月に訪ねた料理店はその年の秋に店を閉めた。地元で根強い人気がありいつも常連で賑わっていた。常連が誰かに伝えその誰かからいい店だと聞き、数年前から高知に行けば必ず足を運んでいた。出張族もリピーターになり、調べ上手な観光客も集まる渋い店。現地の新聞でも取り上げられ惜しまれながら消えた。

新型コロナ感染者数の多寡増減に一喜一憂し、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置のスイッチのオンオフが繰り返された一年と八カ月。様々な事情が生まれ、日常の景色が濃淡様々に変化した。今年の秋になって、一部の景色が元に戻りつつある。しかし、まだまだ異変が続いて歓迎されない場面はあるし、別の一部では落ち着いたものの元には戻らず、新しいアフターのスタイルが定着し始めている。


宿泊したホテルは立地がいいのでここ数年定宿じょうやどにしている。フロントのチェックインはまるで海外渡航者向けの厳重な態勢だった。朝食会場はビュッフェスタイルではなく、数種類の定食から選ぶ方式に変わっていた。ドリンクはフリーだが、席を立って水、ジュース、コーヒーと取りに行くたびに簡易手袋を装着する。アルコール消毒した手を手袋で包むわけだが、面倒この上ない。

高知には十数年前から年に一、二度仕事で来ている。店じまいした料理店を知る前は、知人に老舗の割烹に何度か連れてきてもらっていた。その店に一人で行きカウンターの席に座ったのが七年前。今回は三人で訪れた。地元の名士が集まる店なのだが、その日の夜、ぼくたちの他に客はなかった。新鮮な魚貝を使った料理が売りだから、こんな状態では仕入れのやりくりも難しいに違いない。

あの七年前、チャンバラ貝とどろめ・・・をつまみ、ヒラメの刺身や鰹のたたきも注文して静かに飲んでいた。間に二席を置いて男性客が一人座った。「いつもの」と言い「今夜は何がいい?」と女将に聞くその人、常連に決まっている。いつもいいけど鰹が特にいいと女将がすすめ、紳士、間髪を入れず「刺身、皮付きで」と告げた。ダンディズムを感じさせるやりとりだった。

ずっと一つ覚えの鰹のたたきだったので、あの紳士が唸るように食った刺身をいつかぜひ、この店でと思っていた。七年越しの願いが叶い、皮付きの鰹の刺身にありついた。忘れることはないが、「皮付き鰹の刺身、史上最強の厚切り」と念のために脳内に記す。たたきをニンニクといっしょに頬張るのは毎度だが、刺身を頬張るのは初めての体験。今どき、世の中には様々な事情があるが、ぼくにとってその夜の事情は過去の場面とつながる特別な事情だったのである。

朝の連続ハプニング

ドタバタと言うほどではない、小さなハプニング。小さくても一瞬ドキッとした。朝9時前、オフィスでのルーチンに取り掛かる前、コーヒーを淹れる際に起きたちょっとした出来事。

この小事を書こうとしたものの、使い慣れたはずのコーヒーメーカーの部位の名称を正確にわきまえているかどうか、少々怪しい。コーヒーは飲むが自分では淹れない人に、カタカナの名称がはたして伝わるか。あまり自信がない。

とりあえず、ドリッパーとサーバーは必須用語。ペーパーフィルターを敷いて挽いたコーヒー豆の粉を入れる箇所が「ドリッパー」……タンクの水が熱されてこのドリッパーの所を通り、抽出されたコーヒーを受けるのがガラス製の容器で、「サーバー」という……こう描写しても、コーヒーメーカーの図がないとよくわからない。


さて、何が起こったのか? いや、何を起こしたのかと言うべきか。コーヒーメーカーでいつものように濃い目のアイスコーヒーを作るつもりで、ドリップケースにペーパーフィルターを敷いてコーヒーを4杯分入れた。ドリップケースホルダーがケースから外れて、コーヒーの粉が半分以上散乱した。初めてのことである。対処法は一つ、慌てず騒がず掃除機で吸い取るしかない。

気を取り直して、なぜ外れたかわからないドリップケースとホルダーをしっかりと装着し直し、あらためて新しいペーパーフィルターを敷き、コーヒーの粉も入れ直した。水の量を確認してスイッチオン。できるまでの間、席に戻って書類に必要事項を記入し始める。

12分した頃、水がこぼれる音がするので、コーヒーメーカーの所に駆け寄れば、掃除のために外したサーバーをセットし忘れていて、できたての熱いコーヒーがだだ洩れしている。今度はさすがに慌てた。電源をオフにし、キッチンペーパーを何枚も使ってこぼれたコーヒーを拭き取る。床にぽたぽたと落ちる寸前に気づいたのが不幸中の幸いだった。

朝から掃除と拭き取りにおよそ半時間。こんなことでもなければ、いつも使っているコーヒーメーカーのメンテも置いてある周辺の清掃もしない。「逆縁転じて順縁」と受け止めることにし、三度目の正直を目指す。遠回りをしたおかげで、美味なるアイスコーヒーができた。

フェイントの季節

近くの川岸が夕方になるとほのかに橙色を帯びる。もしかして桜? と早とちりする人がいるが、十日以上早いからさすがに桜はない。実はライトアップ。ライトアップが春のフェイントをかけているのだ。

春本番を控えて景色がフェイントをかける、気配も気候もフェイントをかける。フェイント(faint)は「かすかな」ということ。かすかであるから一時的に春らしくなっても、すぐにらしさは消えて、また肌寒くなったりする。三寒四温とは、冬から春に移り変わる時期の言い得て妙である。

散歩中に、右へ曲がりかけて、ふと気が変わって左へときびすを返すことがよくある。冬色と春色が境界なく混ざるような配色も目に入る。焦点が定まらず、身体も適応し切れず、気持ちはいいのだが少々気だるくふわっとする午後の時間がある。


今年こそやるぞ! 旅に出るぞ! 本を読むぞ! 趣味に勤しむぞ! などと毎年同じことを決意表明する者がいる。必ずしも他人事と言って片付けられないが、あれもフェイントの一種である。自分を宥め欺き、決意をきれいさっぱり忘れるために欠かせない一人フェイント。

人生は大小いろいろなフェイントの連続。時には一人で、時には集団で。フェイントは自分を、他人を惑わせ続ける。そして、フェイントであったことがばれる。フェイントのフェイント、それに次ぐフェイント、そのまたフェイント……フェイントはフェイントを呼ぶ。

リアルとシュール

ステーキにはステーキソースか塩・胡椒が当たり前だった。この組み合わせが常識・定番コモンセンスで、それ以外の選択肢はないように思えた。ところが、ステーキにわさび醤油が合わされるようになった。シュールで前衛的な印象を受けた。「ん? 合わんだろう」と首を傾げて食べているうちに、この食べ方も定着して、今ではまったく意外性はない。

シュルレアリスムの手法の一つに〈デペイズマン〉というのがある。フランス語で「意外な組み合わせ」を意味する。今、ぼくのデスクの上に書類があり、その上にガラス製のペーパーウェイトが置いてある。「デスクの上の書類とペーパーウェイト」に誰も不意を突かれない。このマッチングは常識も常識、日常茶飯事の光景である。しかし、書類の上にラップに包みもせずに焼きおにぎりを乗せたら、その光景はシュールになる。

対立する二つの要素――または常識的にはなじみそうにない二つの要素――を並べて、コラージュのように貼り合わせてみると、シュルレアリストたちの好む画題が生まれる。かつてロートレアモンが表現した「解剖台の上で偶然に出合ったミシンとこうもり傘」を美しいと思うか思わないかは別にして、意外性にギクッとする。特に解剖台という設定に。


「シュルレアリスムとは、心の純粋な自動現象によって思考の働きを表現しようとすること。理性や美学や道徳から解放された思考の書き取りである」とアンドレが言った。一言一句この通り言ったのではなく、こんな感じのことを言った。アンドレ? フランスの詩人で、シュルレアリスムの草分け的存在、ほかでもないアンドレ・ブルトンその人。

フランス語の“surréalisme”は「超現実主義」と訳された結果、前衛的なニュアンスを持つようになった。ともすれば、現実に相反する概念のように錯覚するが、“sur-“は強調であり誇張だから、シュルレアリスムは現実の表現の一つにほかならない。ある場所において、何かと何かが出合う可能性は無限のはず。頻度の高い組み合わせが当たり前になってきただけの話ではないか。

花札の二月も都々逸も「梅に鶯」だが、ぼくの居住圏では「梅にメジロ」しか見たことがない。子どもの頃から親しんだ花札には定番のマッチングやペアリングがある。たとえば、一月の「松に鶴」は掛軸に多く描かれているし、落語の笑福亭松鶴を思い出す。三月の「桜に幕」は花見光景、また、八月の「すすきに月、芒にかり」や十月の「紅葉に鹿」などもいかにも「らしい」。

他方、シュールっぽいのもある。五月の「菖蒲に八つ橋」、九月の「菊に盃」、十一月の「雨に柳と小野道風」、十二月の「桐に鳳凰」等々。すべてにエピソードがあり、知ってしまえば納得できるが、知らずに組み合わせの絵柄だけを見ればかなりシュールである。定番や常識の世界にシュールが現れてドキッとし、何度も見ているうちに慣れてきてシュールが不自然でなくなる。シュルレアリスムが現実や常識とつながっている証拠である。