「芸」が「地」になり、地になった芸に不自然さを感じなくなると、その人に名人を見る。技だの能だのと言っているあいだはまだまだ浅いのだろう。確固とした地になった芸を見る機会が少なくなった。
昔、高座で腰を左へ右へ交互に動かしたりお尻を浮かせたりして噺する桂米朝を見て、誰かが「師匠、あの動きは芸ですか?」と尋ねたところ、「いや、あれは地(痔)や」と言ったとか。
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人には居場所と行き場所の両方がいる。往ったり来たりしながら、行き場所が居場所になるのを目指してきたが、未だ道遠し。そうそう、一つになるのがよいと言う人もいれば、いやいや、別であってもいいと言う人もいる。
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パノラマも見ごたえがあるが、窓というフレームを一つ加えてやるだけで趣と文脈が変わる。窓の内側の今いる場所と窓の外の景色、いずれが主役か脇役かなどという分別がなくなる。何の変哲もない窓をフレームにして対象をトリミングするだけで、たぶん一つの芸になる。
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異国情緒は、自然に対して湧き上がる時よりも、街に佇む時のほうが強くなる。建築、公園、広場の存在が大きいせいだが、固有の情緒を一番顕著に醸し出すのは行き交う人々の姿である。どんなに見慣れても、彼らは自分の居場所にはいない人々である。
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景観は街の芸である。以前滞在したパリのマレ地区に本屋兼文芸パブがあった。面していたのがブルジョア通りで、店構えはその名に合っていたような気がする。店が街に合わせて外装をコーディネートしたわけではない。懐の深い街があの建物や他の諸々の建物を清濁併せ呑んでいた。そして常連は、行き場所を居場所にしてくつろぐのである。
旅に出て着いた所が行き場所。滞在するホテルやアパートは行き場所だが、まもなく居場所になる。その居場所から街中に出て次に別の行き場所を探す。行き場所を居場所に変えていくことと芸を地にしていくことはよく似ている。いや、同じことかもしれない。