考えたことは少し残る。正確に言えば、「その時々に粘り強く考えたことだけが少し残る」。
かつて知識を得るには、本を読むかものをよく知っている他人の話を聞くかした。本を読んだり他人の話を聞いたりする人とそうしない人との間には、当然手持ちの知識に大きな差ができた。差はエネルギーの差でもあった。つまり、本を読むのも他人の話を聞くのも手間がかかる。
今は、さほど手間をかけずに、誰もが情報にアクセスできる。すべて読まずに、ラベルだけに目を通せば済む場合もあるし、コンテンツも自分の好みでボリュームを調節できるようになった。ストックされた知識に差はあっても、賞味期限の短い揮発性の情報に関してはさほど大きな差はない。雑談程度やSNSでバーチャルに付き合う程度の関係に限れば、みんな似たり寄ったりなのである。
「こんなことができるようになった。すごいねぇ。これからの時代はこうなるぞ!」 知識人でもこの程度のことしか言わないし書かない。自分なりに考えているような気配を感じない。「情報多くして人は考えない」というのはどうやら本当らしい。
考えなかったこと、考え足りなかったこと、世界をいろんな視点で見なかったこと……人生の後悔は考え方や見方に関することに集中している。読んだ本や他人の話の内容はあまり覚えていないが、その時々に考えたことは――考えたことだけは――いくばくか残っている。読んだ本は忘れてもいい。本のタイトルさえ覚えていれば、もう一度読めばいいのだから。しかし、考えなかったことを再現するすべはない。
哲学書を読むよりも、考える日々の生活に意味がある。考えるとは特別なことではなく、身近であり愉快であること、衒学的な知を格納するのではなく、生活の知として楽しむこと……。アリストテレスの『哲学のすすめ』を読んでほとんど何も記憶に残っていないが、読後の自分の着地点だけはよく覚えている。
考えることの深浅はあまり気にしなくてもいい。仮に稚拙で浅はかであっても考えるプロセスそのものが尊い。考えることで厄介なのは、考えたことを言い表わすことだ。いろんな思いが織りなされたにもかかわらず、たとえば「悲劇」と言ってみる。その一言で済まない思考を経たはずなのに、やむなく四捨五入してしまう。
あやのあることを細やかにことばで言い尽くせない。にもかかわらず、強引に一言で言い表わそうとすると、省察してきたことがあやふやになる。しかし、ことばにしがたい思考ニュアンスの諸々は、たとえそれがジレンマであっても、ことばにするしかないではないか。一言で仕留めるなどという無謀な方法ではなく、無駄だと承知の上で粘り強くことばを尽くしていく。思考とはこういうことなのだろう。だから考えたことは少し残ってくれるのである。