ブリコラージュな読書

今年1月からスタートしたサビルナ会読会が昨日7回目を迎えた。忘年会も兼ねメンバーが拙宅に集まっての勉強会だった。自分自身が取り上げた本も含めて、この一年で60冊前後の書評を聞いたことになる。仲間が読んだ書物のレジュメを読み話を聞くだけで、ある程度概要がつかめる。今年ぼくは100冊以上の本を乱読したと思うが、本の読みっぱなしはほとんど何も残らない。読書の効果を維持しようと思えば、再読するか、この会読会のように仲間に読後感想を語るのがいい。

自分がどんな本を読んでいるかを公開するのははばかるが、敢えて今年会読会で紹介した書物を紹介しておく。

📗 村上陽一郎『やりなおし教養講座』
📗 ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
📗 布施英利『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』
📗 入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』
📗 安部公房『内なる辺境』
📗 
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
📗 眞淳平『人類が生まれるための12の偶然』。

もちろん上記の7冊がぼくの今年のベストというわけではない。安部とポランニーのは古い本で再読、入不二のはアメリカから帰る機中での読書、他のもだいたい出張中の車中での通読である。感動した本というよりも書評しやすくて興味を覚えてもらえるような本を選んだ。同じ本をみんなで読んで感想を述べ合うのもいいが、それぞれがお気に入りの本を選んで解説するのは評論の学びになる。ぜひ来年も、できれば毎月一回のペースで続けていこうと思っている。一気に大勢は無理だが、新メンバーも歓迎したい。


講座のほうは今年12のテーマで新たに書き下ろし語り下ろした。新作講座のための準備は大変だが、そのテーマのために新しい本を読むことはほとんどない。ぼくが参考にするのは手元にあって再読した本や、その本から要所を抜き書きしたノートやメモである。具体的な目的のために本を読むことはめったにない。そういう意味では、ぼくの読書法はエンジニアリングではなく、〈ブリコラージュbricolage〉である。ブリコラージュとは、計画的・意図的ではなく、偶然的に断片を拾ってきて念のために残しておく寄せ集めのようなものだ。

特別な目的のために情報を集めていては知の構造が限定される。知の本質にはゴールの棚上げがあると思っているので、手当たり次第に「いずれそのうちに役に立つだろう」ぐらいの気持で本を買い求め適宜読んでいる。いまここで手に入る知識を寄せ集めて試行錯誤しながら組み立てる創造や知のあり方がブリコラージュ。去る10月に百歳で亡くなったレヴィ=ストロースの構造主義の根幹の一つとなる概念だ。

究極的には、何かをするのは別の何かのためなのだろう。しかし、本を読む、考える、話をするなどの行為は何かのための前に、そのこと自体をしているのだ。本を読んでいるのである、考えているのである、話をしているのである――こうした行為が先にあって、結果的に何かのためになっているのである。ぼくは行為の向こうに何も見ないようにしている。会読会や講座のために読書をしない。読書は読書という行為以外の何物でもない。

「目的もなく、そんなことができるのか? 何かがあるんだろ?」と聞かれれば、「忘我的集中が楽しい」としか答えようがない。「そんなことに意味があるのか?」と問われれば、「うん、あるでしょうね。いずれそのうち意味が生まれるかもしれない」と答える。誰かに話してやろう、どこかで使ってやろうという魂胆を頭ごなしに否定はしないが、自分自身が楽しめないものを他人に伝えるほど厚かましい話はない。冬のために薪を集めるのではなく、ふだんから集めてきた薪が結果的に越冬に役立つ――そんな読書が気に入っている。

本を読む、本を読まない

関連する話を2月のブログで書いているので、よろしければ一読いただきたい。

人はどこまで行っても無知の壁を容易に破ることはできない。所詮お釈迦さまの掌の孫悟空のようである。だから、とりあえず知っていることを自分の「知」とするほかない。あるいは、ソクラテスのように無知であることの自覚を新たにするべきだろう(断っておくが、ソクラテスの知と比肩しようという気はさらさらない)。

知識全般に言えることだが、とりわけ読書では「パーセンテージ」の考え方はよくない。たとえば「百冊買って、まだ十冊しか読んでいない」という10%の知を嘆くこと。読むべき図書百冊のうち目を通したのが十冊なら、それは残りの90冊が未読状態というだけのことだ。なのに、ぼくたちは森羅万象を“∞”にして分母とし、知を量ろうとしてしまう。いくら無知の壁が高くても、こんな控えめな気持では日々の満足が得られないだろう。

百冊のうち十冊が知で、残りが無知。いや、無知ではなく未知。十冊の知もたかが知れているかもしれないが、とりあえず読んだことに満足しておく。未読の90冊は自分の知に対立などしていないし、無縁の領域でひたすら読者を待ち構えてくれているだけの話である。分母のことは考えず、分子だけを見つめておけばよろしい。そうでないと、読書は苦しい。実際、ぼくの机の横には二百冊ほどの未読の書物が積まれており、しかも読みたい本を次から次へと買っている状態だから、既読書も逓増する一方で未読蔵書も膨れていく。だが、そんなことお構いなし。読みたい本を買うし、すぐに読んだり読まなかったりする。そして、読んだ本は、身のつき方の深浅を別にすれば、知になっているものだ。


話は変わるが、塾生がかれこれ一週間、本のこと、読書のことをブログに書き綴っている。そして、ついに『よいこの君主論』に手を染めてしまったようである。しかも、「とてもよい入門書になった」と彼はとても素直に書いているのだ。彼がそんなふうに啓発されることもあるんだな、とぼくは思ったのである。いや、それはそれでいい。でも、ほんとに入門書になるのかな、と首をひねっている。

結果論になるが、『君主論』に関するかぎり、まずニコロ・マキアヴェッリ自身の『君主論』を読むべきだろう。さらに関心があれば、塩野七生のマキアヴェッリ関連の本や佐々木毅の解説に目を通して時代考証してみるのもいいかもしれない。もちろん現代政治や世相のコンテクストに置き換えて解釈するのもよい。だが、いきなり現代っ子の53組版君主論を読むと、もはや原典は読めないのではないか。誤解を与えるような書き方になったが、「本を読む順序は運命的」と言いたかったまでだ。

何を隠そう、ぼく自身が『よいこの君主論』を読んでしまったのだ。しかも、原典の他に数冊読んだ後に。君主論をわかりやすく説明するヒントになればと衝動買いして通読したが、何の突っ張りにもならなかった。つまり、ぼくの読書順ではほとんど無意味だった本が、塾生のようにその本から入れば「よき入門書」の予感を抱かせることもあるのだ。あるテーマについて、どの本を入口にするかは運命的でさえある。彼が近いうちにマキアヴェッリの原典に辿り着けることを祈るばかりである。ちなみに、君主論のわかりやすい入り口は『マキアヴェッリ語録』(塩野七生)である。ほとんど注釈がなく歯切れがいい。

遊びの時間、時間の遊び

人生の出発点には「無意識の生きる」がある。やがて意識が強くなってくると幼児期には「遊ぶ」。学童になるまでは「よく遊ぶ」が容認される。次いで「よく遊び(同時に)よく学ぶ」へと向かう。やがて小学生も高学年になると、いつの間にか「よく学び(しかる後に)よく遊ぶ」が奨励される。いや、そうしないと社会的存在として生きていくのが難しくなってくる。一番いいのは「学びイコール遊び、遊びイコール学び」。学びと遊びが混在し可逆的になり一体化すれば、さぞかし毎日が楽しいに違いない。

大人になれば「よく働き(そしてご褒美として)遊ぶ」がセオリーになる。この順番でなければならない。ろくに働きもせずに遊んでばかりいれば社会が認めてくれない。ホイジンガやカイヨワを持ち出して遊びを正当化するまでもない。誰が何と言おうと、遊びの時間は人生にとって不可欠だ。だが、仕事とのバランスを崩してまで「よく遊ぶ」を追い求めるのは筋違い。少なくとも時間とエネルギーにおいて、遊びが仕事を凌駕するのはまずい。もちろん仕事と遊びに一線を画しにくい職業が世の中に存在することも認めたうえでの話だが……。

仕事を滞らせたり職場に遅刻することがあっても、遊びの予定をしっかり押さえて待ち合わせには絶対に遅れない人がいる。そんな人間は仕事が嫌いで遊びが好きなのだと単純に結論づけるわけにはいかない。ここには遊びが仕事以上に「真剣さ」を要求する性質を帯びていることが窺える。おざなりな仕事のルールに比べて、遊びのルールが厳格に定められるのも周知の事実だ。遊びに費やす時間とエネルギーを仕事に向ければ、もっと容易に課題も達成できるのではないか。皮肉で言っているのではない。


いっそのこと仕事を遊びとして捉えればいいのにと思うのだが、先に書いたようにそんなに都合のいい職業に誰もが就いているわけではない。仕事は仕事なのである。遊び心はあってもよいが、遊びとは違う。けれども、仕事中の「遊びの時間」は慎むべきだが、「時間の遊び」は大いに作るべきだろう。時間の遊びとは、歯車の遊びのようなものだ。ガッチリと組み合わさった歯車は動かない。ほんの少しの余裕がなければ歯車は機能しない。この余裕のことを遊びと呼ぶ。

時間にも遊びがいる。これを「時間の糊しろ」と考える。たとえば、今週の水曜日、オフィスのミーティングルームでスタッフの一人が午後6時まで得意先を迎えての会議をおこない、午後6時からぼくの勉強会が始まる。ここに時間の糊しろはない。会議は早く終わることもあるが、長引くこともある。実際は遅くなってしまったが、遡れば時間の遊びを作れなかった失敗である。これが仕事と仕事どうしになっていたら、この余裕の無さは時間の重なりをもたらしトラブルの要因になる可能性がある。時間に糊しろがないと、納期、タイミング、段取りなどに思わぬ狂いを招く。

今日の1時間は明日の1時間よりも糊しろが大きい。余裕の質が違うのだ。同じ一日、いや午前中だけでも時間の質は変わってくる。たとえば、午前9時の新幹線に乗る時、8時まで自宅にいて本を読むのと、8時に駅に着いて本を読むのとでは、後者のほうが糊しろがだいぶ大きい。なぜなら、自宅を出るという動かせない一工程を後回しにしては落ち着いて本など読めないからである。創造性が低い無機質な工程をなるべく早めに片付けておくべきなのだ。糊しろは読書の時間に遊びをもたらしてくれる。時間の遊びは遊び心の仕事を可能にしてくれる。それはまたリスク管理にもつながってくるのである。  

読ませ上手な本、語らせ上手な本

およそ二ヵ月半ぶりの書評会。前回から今回までの間にまずまず本を読んでいて30冊くらいになるだろうか。研修テキストの資料として読んだものもあるが、自宅か出張先や出張の行き帰りに通読したのがほとんど。総じて良書に巡り合った、いや、良書を選ぶことができた。読者満足度80パーセントと言ってもよい。

先週から9月下旬の大型連休まで多忙だ。だから、書評会のためにわざわざ何かを選んで読むのではなく、最近読んだ本から一冊を取り上げて書評をすればよいと楽観していた。ところが、書物には「読ませ上手」と「語らせ上手」があるのだ。読ませ上手な本とは、読んで得ることも多かったが、別に他人に紹介するまでもなく、また、ぼくほど他人は啓発されたり愉快になったりしないだろうと感じる本。他方、語らせ上手な本とは、批判しやすい本、賛否相半ばしそうな本、読後感想に向いている本、一般受けするさわり・・・のある本である。残念ながら、この二ヵ月ちょっとの間にぼくが読んだ大半は書評向きではなかった。

先々週のこと、友人が“The Praise of Folly”という英書を送ってきて「一読してほしい」と言う。なぜ送ってきたかの子細は省略するが、これにしようかとも思った。種明かしをすると、この本はエラスムスが16世紀初めに書いた、あの『痴愚神礼賛』(または『愚神礼賛』)である。送ってきた友人はそうとは気づかなかったようだ。この忙しい時期に300ページ以上の原書、しかも内容はカトリック批判。読みたくて読むのではないから疲弊する。だが、ぼくはこの本の内容をすでにある程度知っている。全文を読んだわけではないが、いつぞや和訳された本に目を通したことがあるからだ。A4一枚にまとめて10分間書評するくらいは朝飯前だろう。


しかし、やっぱりやめた。わくわくしないのである。ぼくがおもしろがりもしない本を紹介するわけにはいかない。ふと、先々週に上田敏の『訳詩集』を久々に手に取って気の向くままに数ページをめくったのを思い出す。スタッフの一人に薦めて貸したのだが、尋ねたら、まだ読んでいないとの返事。いったん返却してもらうことにした。この詩集は英語を勉強していた時代に愛読していたもの。原文の詩よりも上田敏の訳のほうがオリジナリティがあって、名詩を誉れ高い語感とリズムで溢れさせている。なにしろロバート・ブラウニングの平易な短詩をこんなふうに仕上げてしまうのだから。

The year’s at the spring,
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;

The hill-side’s dew-pearl’d;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His heaven―
All’s right with the world !

時は春、
日はあした
あしたは七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀あげひばりなのりいで、
蝸牛かたつむり枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

上田敏を知っている人は少ないだろうから、代表的な訳詩を三つほど紹介して、ついでに英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能な語学の天才で、驚くべき詩的感性と表現力の持ち主であるとエピソードを語ればよし――となるはずだった。しかし、この本はぼくが決めたルールに抵触することに気づいた。書評会では文学作品はダメなのである。がっかりだ。

それで、20年以上前に読んだ本を書棚から取り出して再読した。まだ書評は書いていない。この書物の価値は異端発想の考察にある。「一億総右寄り」とまでは言わないが、昨今の世情に対して少しへそ曲がりな発想をなぞってみるのもまんざら悪くはないだろう。いや、そんなイデオロギー的な読み方はまずいかもしれない。ところで、あと二日と迫った書評会だが、ぼくはほんとうにこの本に決めるのだろうか。もしかすると、仕事が順調に進んで時間に余裕ができたら、変えてしまいそうな気がする。

問いの意味と意図

先週の書評会では『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』という本を取り上げた。その中に『「問い」と「なぞなぞ」』という随想があり、次のようなくだりが興味を惹いた。

「問い」の意味は分かっていて、その「答え」を求めるというのが、普通の「問い」の場面である。しかし、なぞなぞの方は、まず「問い」が何を聞こうとしているのかが、よく分からない。いや正確に言うと、「問い」の表面的な意味(字義通りの意味)は分かるのだが、それがさらに何を意味しているのかが、よく分からない。意味の意味が不明なのである。なぞなぞでは、「答え」を探す前に、まず「問い」の意味を考えてみる必要がある。

発した問い自体がよくわからないというのは、なぞなぞにかぎった話ではない。問うている本人自身が何を聞いているのかをよくわかっていない――そんなことはよくある。なぞなぞでは答える側が問いの意味を出題者に聞くことはめったにないだろうが、ふだんの生活や仕事では「意味不明な問い」に義務的に答える必要はなく、意味がわかるまで聞き返すなどして確認すればいい。

意味と同等に大事なのは、問いの意図だろうと考える。問いの意味はわかる。しかし、意表を衝かれてうろたえたり、瞬時に動機がわかりかねる。そんなとき「この人、なぜこのことを問うているのだろうか?」と一考してみるべきだと思う。ついつい反射的に答えを出そうとしてしまうのは、問われたら答えるという幼児期からの学習癖のせいか、あるいは即答によって賢さと成熟を誇示しようとするせいか。問いの意味と意図の両方がわかるまで、問いへの答えを安受けしてはいけない。


ギリシア神話に出てくる巨躯のアトラス。両腕と頭で天空を支える図を見たことがあるかもしれない。戦いに敗れたアトラスがゼウスによって苦痛に満ちた罰を与えられる。世界の西の果てで蒼穹そうきゅうを支え続けなければならないのである。経緯はともかく、アトラスがそういう状況にあることを想像していただこう。そこで、次なる、別の本からの引用。

「アトラスが世界を支えているのなら、何がアトラスを支えているの?」
「アトラスは亀の背中の上に立っているのさ」
「でも、その亀は何の上に立っているの?」
「別の亀だよ」
「それじゃ、その別の亀は何の上にいるの?」
「あのね、どこまでもずっと亀がいるんだよ!

この話はぼくがアメリカで買ってきた本の冒頭に出てくる。「アキレスと亀」は有名な話だが、これは「アトラスと亀」なのでお間違いなく。ギリシア神話ゆかりのアトラスを引っ張り出して、ここに世界を支える亀を登場させると、なんだかインドの宇宙観に近いものを感じてしまう。

それはさておき、問いには答えられないものや上記の例のようにキリのないものもある。「何が支えているか?」「何の上に立っているか?」などは意味がとてもわかりやすい質問だ。だからと言って、真摯に必死で答えていくと、このやりとりは応答側に天空の重さの負荷をかけてしまうことになる。けれども、問いの意図を推し量れば、若干の好奇心に動かされた程度のものか、または、無理を承知のお茶目な悪戯心のいずれかだと値踏みできる。意図を見極めておきさえすれば、やがて答えの風呂敷を畳める。上記の例に一応の終止符を打つには、「亀がずっと続く」とするしかなかったに違いない。

問答が延々と続く「無限回帰」とも呼べる作業を、哲学の世界では古来からおこなってきたし、現在に生きるぼくたちもそんな状況に陥ることがよくある。だが、趣味ならばともかく、仕事にあってはいつまでも問いと答えを続けるわけにはいかない。どこかで問いを打ち切らねばならないのだ。この打ち切りを別名「潔さ」とか「粋」と呼ぶ。「どこまでもずっと亀がいるんだよ!」と答えるのもいいが、「アトラスの下に亀がいて、その下にも亀がいると答えた。もうそれで十分ではないか。それ以上問うのは野暮というもんだ」と答えてもいいのである。    

読書の方法と揺れ動く心

過去に大した読書習慣を持たなかった人が一念発起して本を読もうと決意した。しかし、その気になったものの、どんな本をどのように読めばいいのかさっぱりわからない。そこで手始めに読書術や読書論に目を通すことにした。読んでみると、何だかわくわくしてくる。本をこんなふうに読めばさぞかし楽しいだろうと、いよいよ「その気」になってきた。ところが、読書の方法と推薦図書の書名に精通してきたものの、いつまでたっても読みたい本に手をつけられない。気がつけば、読書術と読書論の本ばかり読んでいた……。


よく似た話に、「○○入門」ならあれこれと手広く読むくせに、本家本元の「〇〇」の著作を一度も読んだことがないというのがある。たとえば「カント入門」や「よくわかるカント」の類いに目を通し、『純粋理性批判』や『啓蒙とは何か』は読んだことがない。と言うよりも、これらのカントの哲学書に挑戦するために入門書や指南書を読んでいるわけでもなさそうなのだ。いずれにしても、誰かがカントについて書いたものとカント自身が書いたものは同じではないことだけは確かである。

読書の方法を説く書物はおびただしく、ぼくの書棚にも、古くは『読書について』(ショウペンハウエル)から最近の『多読術』(松岡正剛)まで十数冊が並ぶ。ただこれらの本の数ほどぼくは熱心な読書術の読者ではなく、誰かの意見を参考にすることはあまりない。二十代まではいろいろと漁って読みはしたが、記憶に残っているのは、若かりし加藤周一が昭和三十年代にカジュアルに書いた『読書術』のみ。そして、なるべく文庫本を買うことと、本を読まずに済ませる方法の二つを学んだ。ぼくにとって偉い人たちが書く読書術の大半は、ぼくの方法を客観的に検証するチェックシートにすぎない。


読書の本ではないが、「読んだ本から山のような抜き書きをして、それに『注釈』めいたものを書き連ねることをやめて伸びやかになった」(鷲田小彌太)などの、読んだものは忘れていいという潔い考え方もある。膨大な知識や情報をアタマ以外のところに蓄積できるようになったから、こういう思い切りのいいことが言えるようになった。アタマは記憶のためにではなく思考のために使え、というわけである。

この考えに与しないわけではないが、メモや抜き書きには効能もある。熱心な読書家でもないぼくには成果の確認という意味もある。それに、思考中心にアタマを使うといったところで、思考には知識が欠かせないわけだから、アタマの中に何らかの読書した情報を蓄えておいて悪いはずがない。


かつて速読術がはやり、昨今では併読術に多読術だ。これらすべてを今も実践しているが、誰かに教えてもらわなくても、読書していれば誰だって速読、併読、多読に辿り着く。同時に、これらと相反する読み方、すなわち精読や熟読や寡読の良さにも気づいてくる。こちらの読み方の延長線上には、必然的に「本を読まずに済ませる方法」も浮かんでくる。

先のショウペンハウエルの本には次の一節がある。

本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。

さもありなん。一般の読書家はゆめゆめ書物の批評家や職業的読書家や書誌学者のような読み方に影響されてはいけない。一日に一冊読んだとしても、そのこと自体何の自慢にもならない。知を蓄えるためという、ごく当たり前のような読書の位置づけすらたまには疑ってみるのもいいだろう。読んだ本の中身を若干アレンジして披瀝するのか、あるいは書物を固有の思考のための触媒にするのか――この分岐点においておそらく読書のあり方は決定的に違ってくる。   

その揚げ足、取ります

先々月に別役実の『当世 悪魔の辞典』を紹介した。同じ著者が『ことわざ悪魔の辞典』も書いている劇作家別役実の脚本はほとんど知らないが、エッセイ風小説あるいは小説的エッセイはよく読んでいる。「ことわざ版」に【あげあしをとる】という項目があり、次のように解説されている。

ひょいと持ち上げた足をつかまえてしまうと、一本足では安定を欠くから、必然的によろめくことになるというわけだが、相撲取りに言わせると、「どうしてその挙げてない方の足をとらないのか」ということになる。その方が、よろめかすだけでなく、もっとダイナミックに、ひっくりかえすことが出来るというわけだ。こういうことはやはり、専門家に聞いてみないといけない。今後は、「据え足をとる」と言うべきであろう。

この説によれば、ぼくが他人の揚げ足を取って議論でやりこめたりするのは良心的ということになる。相手が揚げた足を取るだけで、据えているほうの足にはまったく触れないのだから。そう、転ばすつもりなど毛頭ないのである。

最近取ってあげた揚げ足がこれだ。「こちらの役所では定額給付金を日本で初めて支給しました」。「日本で」を「国内で」としているテレビ局もあった。いずれも揚げ足を取られてもしかたのない表現だ。なんだか「有史以来わが国初」と響いてくるではないか。あるいは、「その役所が日本以外ではすでに給付していた」というニュアンスもこもっている。これじゃダメ、ここは「こちらの役所では他府県に(他市町村に)先駆けて定額給付金を支給しました」と言うべきところである。


なお、別役実には隠れた読者か、隠れざるをえない読者か、隠れたくて隠れているわけではない読者がいるようである。ぼくの知り合いに熱烈なファンが一人いた。その人はぼくに『道具づくし』という本をくれた。もう一人、ぼくが貸してあげた『日々の暮し方』にいきなり嵌まってしまって、大ファンになった人がいた。両人ともに「いた」と過去形にしたのは、消息不明で十数年会っていないから。後者の本は「正しい退屈の仕方」に始まり、「正しい風邪のひき方」「正しい黙り方」「正しい禿げ方」「正しい小指の曲げ方」などの傑作な作法が紹介され、最後が「正しい『あとがき』の書き方」で終わる。

ぼくに『道具づくし』をくれた彼が言ったことがある。「別役実の本をある人に貸してあげたんですよ。何日か後に会ったら、「いったいどういうつもりなんですか!? ふざけるのもいい加減にしてください!」と怒られました。岡野さんも誰かに別役実を貸すときはお気をつけて」。ぼくの場合、一人だけに貸して大受けした。ラッキーだったというほかない。

『日々の暮し方』の正真正銘のあとがきは次のように結ばれている。

ともかく、このようにして連載された原稿であっても、一冊にまとめてあらためて世に送り出した以上、私の責任の範囲からはずれたものと見なすべきであろう。著作というものはすべて、その著者の「息子のようなもの」とされている。そしてその「息子のようなもの」は、息子というものが常にそうであるように、独立するのである。従って、以後この著書に対する「苦情」「いちゃもん」「非難」「中傷」「嘲笑」の類いは、著者ではなく、むしろ著書自体が引き受けるべきものであると、私は考える。

古い本と古い教え

休日に近場へ外出するときは、徒歩か自転車かのどちらかである。帰路に荷物になりそうな買物が確定していれば自転車、行き帰りとも本一冊程度の手ぶらなら徒歩。なるべく休日には歩くようにしている。どこに行くにも便利な所に住んでいるのがありがたい。

一昨日の日曜日は、まだ薄ら寒い風を受け、それでも春の気配を少し嗅ぎながら自転車を北へ走らせた。大阪天満宮まで10分少々。最終日となる古本市が目当てだ。ぼくは読書のために本を買わない。本を買うのは一種直感的行為であり、買ってからどの本のどのページをどのように読むかが決まってくる。ページをぺらぺらとめくったり拾い読みをするだけで放っておく本もある。それでも何ヵ月か何年か経ってから、「縁あって」目を通すことになることがある。そのとき、購入時の直感もまんざらではなかったと思う。

幸か不幸か、ぼくは周囲の人たちに読書家と思われている。実はそうではない。正しくは、「買書家」である。本は借りない。まず買う。いきなり買うのはリスクが大きいゆえ、高額な書籍にはまず手を出さない。文庫または新書がほとんどである。何よりも省スペースだし、どこにでも持っていけるから便利でもある。

買った本をどう読むかというと、速読、精読、併読、拾い読み(これは狙い読みに近い)、引き読み(辞書を読むように)、批判読み、書き込み読み(欄外にコメントを書く)などいろいろ。誰もが体験するように、本の内容はさほど記憶に残らない。傍線を引いても付箋紙を貼っても大差はない。だが、これ! と思う箇所は抜き書きしておく。抜き書きしておいて、後日読み返したり人に話したりする。面倒だが、ぼくの経験ではこれが読書をムダにしない唯一の方法である。

古本市で買ったのは福田繁雄のデザインの本、安野光雅の対談集、玉村豊男のパリ雑記の3冊。しめて1900円。天満宮滞在時間は半時間ほど。そう、書店であれ古本屋であれ、ぼくは半時間もいたら飽きてしまう。熱心な「探書家」でもないのだ。「今日は5冊、4000円以内」などと決めて直感で30分以内で買う。


境内を出て喫茶店に入る。朝昼兼用の予定だったので朝を食べていない。午前1055分。「モーニング7:0011:00」とある。「モーニング、まだいけますか?」 滑り込みセーフ。コーヒー、トースト、ゆで卵。ゆで卵が切れてしまっていたので、生卵からつくってくれる。何だか申し訳ない。トーストを食べているうちに、ほどよい半熟が出来上がった。

目の前のカレンダーに今月のことばとあり、見ると「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。日めくりには必ず入っている禅語録の一つである。「毎日が平安で無事でありますように」との願いが込められているが、真意は一期一会に近いとどこかで学んだ。平々凡々な日がいい――そんなヤワな教えではなくて、「何があろうと、今日の一日は二度とないと心得て、懸命に生きなさい。その積み重ねこそが毎日の好日につながる」という意味である。先送り厳禁、今日できることを今日成し遂げよ、思い立ったら即時実行などに通じる。

先週本ブログで『スピードと仕事上手の関係』について書いた。そこでのメッセージにさらに自信を加えてくれる禅語録との再会である。こういうつながりをぼくは運がいいと思うようにしている。古い本を探した後に立ち寄った喫茶店で古い教えに出会う。これも「古い」が重なって縁起がいいと考えておく。こうして気分を調子に乗せておけばストレスがたまらないし、いい一日を送ることができるのである。 

大差のようで僅差、僅差のようで大差

今週金曜日に第2回の書評会がある。残念ながら、ぼくが取り上げた本の書名は現時点で公開できない。少しだけ紹介すると、「350万冊の蔵書がある図書館」の話が出てくるくだりがある(ちなみに国会図書館はこの倍数あるそうだ。拙著の二冊も収めてくれているらしい)。今日は、この図書館の話から触発されたぼくの連想を綴ることにする。

この天文学的な蔵書数を分母に見立ててみる。一冊読んだ時点で350万分のの知を得るというわけだ。奇跡的な一日一冊という超人的読書家は想定しない(だいたい超人なら本など読まなくていいだろう)。現実的に考えると、週に一冊読む人は熱心な読書家であり、しかもしっかりと精読している可能性すらある。年に50冊を70年間続けると、生涯読破本は3500冊になる。これは驚嘆してもいい数字だと思う。さて、もう一人想定しておく。読書はあまり好きではないが、年に一冊くらいなら読むという人。読書人生70年として70冊になる。

偶然にして暗算可能な数字になったが、念のために電卓ではじいてみる。読書家は当該図書館の蔵書の0.1パーセントの知を獲得した。もう一方のあまり読まない人で0.002パーセントである。少々乱暴だが、小数点以下切り捨てなんてことを適用すると、いずれもゼロになってしまう。図書館をビュッフェスタイルのホテルレストランにたとえれば、世界各国から選りすぐった百種類の料理を出したところ、二人とも一種類の料理の匂いだけを嗅いだだけだった――そんな感じである。二人に歴然とした差はない。森羅万象の知の前では、よく読んでもあまり読まなくても同じようなものなのだ。


すべての人類は、ありとあらゆる書物に対して「ほとんど非読・未読の状態」に置かれている。みんな「読んだ」とは言うが、まさか「読んでいない」とは吹聴しないだろう。生涯、万巻の書など読めやしないのである。知というものは、よく究めても全知のパーセントにも満たない。そういう意味では、人間はみんなそのパーセント未満の知の世界にあって僅差でしのぎ合い折り合っているのだ。格差社会とは無縁の、平等な世界に見えないこともない。

しかしながら、察しの通り、以上は都合のよい推論である。実社会では僅差のような知の格差が大差となって表れる。なぜだかわかるだろうか。上記の3500冊氏と70冊君を比較する時、わざわざ分母を350万冊にする必然性などない。つまり、二人とも読んでいない大多数の書物について両者は知の多寡を競うことなどできないのだ。両者の読んだ本が重複してようがしてまいが、3500冊氏が圧倒的優位に立っていることは容易に想像できる。

神や観音や天才を引き合いに出したら、みんな同じ知力になるだろう。この視点では、「知っていること」と「知らないこと」は大差なようで僅差なのだと謙虚に自覚しておく。しかし、現実は二人なりグループなりの、当面のメンバー間での「知っていると知らない」が尺度になる。そこでは、紙一重が知らず知らずのうちに大差になってくる。小さな知識をゆめゆめバカにしてはいけないと、これも謙虚に自覚しておく。言うまでもなく、無知のままではいずれの謙虚な自覚にも到ることはできないだろう。

結局、本をどうすればいいのか?

用語の定義にあたっては、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」という法則をパスカルが示している。読書を「本を読むこと」とした時点で、「読」ということばが使われているので、パスカル流の定義法則に反する。とは言え、この厳密な法則を適用していくと、「天使の辞典」はほとんど成り立たなくなる。

それにひきかえ、「悪魔の辞典」は楽だ。何でもありである。世間で異端視されているだけに、余計に気楽である。「なるほど」という妥当性を実感する回数は、言うまでもなく、悪魔のほうが天使よりも多い。

ここ数週間のメモを繰ってみた。読書に関しての気づきはさほど多くない。「読者にとって本は二種類に分かれる。傍線を引くか、引かないかである」という意見を書き、別のところでは、「本は編集視点で物語と非物語の二つに大別できる」と記している。自宅の書棚もオフィスの書棚も、まだこんなふうに分類して並べてはいないが……。


読書についてぼくの最新の定義を紹介しておく。

【読書】 本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の情報を照合すること。

この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。老舗の天使の辞典である広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

不満はさておき、本の情報と自分のデータベースを照らし合わせるのが読書である。まったく重ならないこともある。取り付く島がないほど面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ、重なるものである。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。


出張中の三日間、読書について書いてきたが、キリがない。けれども、今月からスタートした書評会は「本をどうするのか」への一つの方向性を示すものになるだろう。「本は買ったり読んだりするものではなく、書くものである」というユダヤ格言がある。まったく同感であり、これまで売れない本を二冊書いているが、この十数年間は読者側から修行をだいぶ積んだので、三冊目を書いてみようという気になっている。