推論と「正答」について

「正答」という表現が妙に不思議に見えてくる。常識世界では〈11〉には一つの正答が存在する。正答のない問題を学校は出題しないし、また正答が複数あるような問題の採点に教師は苦労するだろう。極端なアマノジャクでないかぎり、〈112〉を認めざるをえない。だから、「11は?」と聞かれて「2」以外の答えを書いたら間違いとされる。

こんなふうにただ一つの答えを覚えたり導いたりする習慣を身につけてしまったのがわが国の大人たちだ。必然、「人生とは何か?」や「世界とは何か?」や「日本と中国の関係はどうあるべきか?」などにも唯一の正解が――自分のアタマで編み出されるのではなく、どこかにすでに――あるように錯覚してしまう。

一つの答えしかないという、学校時代と同じような場面は実社会ではめったに現われない。実社会ではふつう解は複数存在する。いや、解をどこかから探してくるというよりも、解を捻り出さねばならないのである(これは決断の一つ)。ある問いや課題を前に、ぼくたちはありったけの知識によって考え、何らかの答えを導く。このような導出は演繹的推論と呼ばれるが、答えは推論によって編み出される。自分の推論を他者に説得できれば、それがひとまず正解になのである(年初に正解創造について書いた)。

ところで、受講生の興味をくすぐるために、論理講座の冒頭でいくつかのクイズを出題することがある。以前、その一つに競馬の話があった(逢沢明著『論理力が身につく大人のクイズ』を参照してアレンジしたもの)。「アメリカの作家マーク・トウェインは、競馬を成立させているものは『これだ』と喝破した。いったい何が競馬を成立させているのだろうか?」という問いである。三択なのだが、選択肢を見ないでしばし考えていただきたい。


この問いは正解を求めているのではない。もとより正解など誰も決めることはできないし、仮に決めるにしてもたった一つではないだろう。ごく常識的に考えれば、競馬は馬、競馬場、調教師、騎手、厩務員、馬産地、馬主、競馬ファン、血統……など長いリストの複合要因で成り立っている。したがって、上記の問いがぼくたちに期待するのは、マーク・トウェイン自身が想定した競馬成立要因の最たるものを推論することである。では、もったいぶらずに三択を示すことにしよう。

競馬を成立させているのは、意見の相違だ。

競馬を成立させているのは、強欲な人間だ。

競馬を成立させているのは、勤勉な馬だ。

さあ、どれがマーク・トウェインの主張だったのだろうか(ちなみに、「辛辣な皮肉家マーク・トウェイン」と言っておけば、大勢が➁を選ぶようになる)。


まず、➂を検証してみよう。たとえば10頭の馬が走るレースの場合、ごく稀に同着があるものの、1着から10着までの着順が決まる。わが国には馬券の種類がいろいろあるが、いずれも3着までが配当対象。だから、1着、2着、3着さえはっきりすればいい。別に馬が勤勉だろうと怠けようと順位がつくのはほぼ間違いない。馬がまじめである必要などまったくないのである。

次に➁はどうか。これも強欲だろうが少欲だろうが無欲だろうがかまわない。馬券さえ買ってもらえればいいのである。本気か遊びかは問わない。

消去法的には、どうやら➀の「意見の相違」がマーク・トウェインの考えらしい。念のために推論してみよう。あるレースで馬券購入者全員がただ一頭の単勝馬券を買えば、的中しても儲けはなく、買った分だけの金額しか戻ってこない。これを「元返し」と呼ぶが、実際は馬券売上の25パーセントは控除され、残りの75パーセントが配当に振り分けられるので、もし全員的中などということがあれば、100円で的中しても75円しか返ってこないことになる(ぼくはこれ以上詳しくは知らない。そんなことが万が一あれば、主催者側は売上のすべてを還付するのかもしれない)。

もうお分かりだろう。競馬ファンにはそれぞれのお気に入りの馬や狙いの馬がいる。お気に入りと狙いが極端に集中した例としては、ディープインパクトの菊花賞での約80パーセントが記憶に新しいが、こんなケースは例外中の例外。そこそこ人気の馬でもめったに占有率50パーセントには届かないから、競馬ファンの意見は見事に分かれるようになっているのだ。すべてのレースでみんなが同じ馬券を買えば、競馬は破綻する。いや、運営する意味がなくなってしまう。意見の相違こそ競馬成立の要因なのである。

以上がぼくの推論である。三択でなければ、「競馬を成立させているものは、必勝法の不在」とぼくは答える。完全必勝法が誕生すれば、競馬は賭けの対象ではなくなるからだ。ともあれ、ぼくはこの問いを、民主主義と二重写しにして考える。「民主主義は意見の相違によって成り立っている」。

全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、頭の働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。


「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

これはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。

押し入ってくる情報

リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』が発行されたのが1990年(翻訳は松岡正剛)。原題“Information Anxiety”は「情報不安」という意味である。同書の第1章には次の記述がある。

毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、十七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

それはそうだろうと思うかもしれない。なにしろ400年前との比較なのだから。しかし、よく考えてみてほしい。ぼくたちが一週間に耳にし目にする情報は週刊の『ニューヨーク・タイムズ』一冊程度ではないのだ。テレビにインターネット、毎日の新聞に会話、雑誌に書籍、それに仕事上の諸々の情報を総合すれば、一週間でかつての英国人の生涯五回分の情報に晒されている計算になる。これは一年で「二百五十回の生涯」、60年でなんと「一万五千回の生涯」に相当する情報量に達する。

IT時代に突入する前、情報にまつわるキーワードが「情報収集」だったことを思い出す。昨今、この四字熟語にはめったにお目にかかれない。情報を集める必要がなくなったのである。情報は勝手に集まってくる。メディアに対して自分を開いておきさえすれば、大多数の人々にほぼ同量で同質の情報が「押し入って」くる。そして、その量たるや、情報洪水などという表現が甘く響くほどの凄まじさなのだ。


前掲書『情報選択の時代』は、20年前に情報不安症の兆候を察知していた。どんなに爆発的な量の情報にまみれても、人は情報が足りない不安にさいなまれる。このような予見をするからこそ「自制的選択」を基軸にした情報行動を強く意識せねばならないのである。情報選択とは、一般人にとっては広範囲から少量ずつ主体的に取り込むことだろうと思う。腹一杯情報を消化せねばならない理由など微塵もない。

知らなくてもいいことが次から次へとやってくる。こちらの優先順位などにはお構いなく、ただでさえ情報の扱いに四苦八苦している記憶の領域に闖入し占拠してしまう。手元にあるいくつかの情報だけで十分に仕事に役立てることができるにもかかわらず、押し入ってきた情報をちらっと見たのが運の定めか、もはや手に負えなくなって仕事が遅滞してしまう。そんな連中を最近とみに目撃するようになった。

そうなっては抵抗不可能である。窓越しに覗いたら隣りの垣根のすぐ向こうに情報が迫ってきている……そんな気配を感じた時点で手を打たねばならない。「知らなくてもいい情報がやってきても、知らん顔をして受け流せばいい」と油断していると手遅れだ。なぜなら、それが知らなくてもいい情報だと知ってしまった時点で感染しているからである。対策はただ一つ。週に何度か、自分が持ち合わせている知識で何とかやりくりする、〈情報鎖国主義〉を貫くのだ。決して自知防衛を怠ってはいけない。

理念不履行の人々

何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。

プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。

死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。


中村元の『東洋のこころ』に次の一節がある。

かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(……) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。
(括弧内および下線は筆者の補足)

少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。

かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中村元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。

理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合――よく言えば、柔軟性――は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるようにしつらえられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめてもろい。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。

けちをつける愉しみ

「人は忘れる。だから生きていける。」 

缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうかと勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。

たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちをつけることはあるまい。けれども、ぼくはけちをつけ毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現または一変形だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンをつけるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。

(……)役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。(……)「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』)

ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちをつけはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。


クレーマーがつけるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちをつける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか……というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。

生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認める。しかし、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる当人の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい者は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。

「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足りないものであることは間違いない。

現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」

人それぞれの難易度感覚

Nさんが「前回の哲学の話はものすごく難しかったが、今日の広告の話はよくわかった」と言えば、Mさんは「ぼくは前回はよくついて行けたが、今日の分野は奥が深くて難しさも感じた」と言う。二人はぼくの私塾の同じ講座について語っている。「そんなもの、人それぞれが当たり前。得意不得意もある」と片付けてもいいが、単にケースバイケースだけで事を済ましていては進歩がない。ゆえに少考してみる。

仮に二人が同じテーマに関して「難しい」とつぶやいても、その難易度感覚が同じであることはない。そして、一方がその分野を得意とし他方が苦手としている現実があるとしても、いずれもがそれぞれの難易を感じることがあるだろう。人にはそれぞれの難易度感覚があるのは間違いない。しかし、その難易度を表現することはできないし、ぼくが彼らの難易度感覚を精細に突き止めることなど不可能だろう。

英語で生計を立てていた時期に超難解とされていたソシュール言語学を勉強してみたが、初耳で目からウロコでポカンと口を開けてしまう内容だったからこそ、砂地が水を吸うようによくわかったという経験がある。逆に昨年から再読し始めた老子などはあれこれと本を読めば読むほどますます混乱して、ぼくにとっては難しさが増している。いったいぼくの知はいずれに深いのか。難易度感覚は実際のぼくの理解度に比例しているのか。ともあれ、ぼくはそのことを楽しんでいる。


哲学に「他者問題」や「彼我問題」というテーマがある。人ははたして他人のことがわかるのか、もしわかるのなら、どこまでわかるのか。いやいや、他人のことなどわからない、わかるのは自分のことだけ。いやいや、人は自分のこともわかっていないのではないか……などと考えてみる。もう一歩踏み込めば、他人の何がわかり何がわからないのかが浮かび上がる。哲学的に考察したらキリがないが、現実生活にあっては「人は他者がわからない。ましてや他者の心理や気持などはわからない」とぼくは割り切っている。

妙なもので、わからないと割り切るからこそわかろうと努める。とりあえず話し合う。議論もする。他者をわからないとクールに構えるぼくは結構他者理解に努力をしているつもりだ。むしろ、人同士は心が通い合い自然とわかるものだという連中のほうが油断して、誰のことも自分のこともわかっていないことが多い。彼らと話をしても、何も証明しないし、ただひたすら他人の心がわかると言うばかりだから、そんなものを信用するわけにはいかないのである。

難易度感覚はたしかに人それぞれだろう。しかし、難易度感覚に左右されることはない。それは理解度の最大瞬間風速センサーのようなものだ。難しい易しいと感じたことは事実だとしても、センサーの針の大きな動きに惑わされる必要はない。易しくてよくわかったことを記憶だけに留めて何もしないよりは、難しくてわからなかったことの一つでも実践できれば楽しい。学びの感想の軸を難易度から幸福度や愉快度にシフトするのがいいだろう。  

型を破る型はあるか、ないか?

型に縛られていないようだが、アイデアマンにも発想の型がある。「やわらかい発想ができる」という自信は、慣れ親しんだ型に裏付けられているものだ。やわらかい発想について話をするとき、ぼくは必ず型の説明をしている。「やわらかい発想に型などない。以上」では報酬をいただくわけにはいかない。やわらかい発想のためには常識・定跡・法則の型を破らねばならないが、型を破るための型を示さなければ、誰も学びようがないのである。けれども、ぼくはある種の確信犯なのだ。「型破りに型などあるわけがない」と思っている。

「破天荒な型」などと言った瞬間、そのわずか五文字の中ですでに自家撞着に陥っている。破天荒な人物に型があったらさぞかしつまらないだろうし、そもそも型を持つ破天荒なヒーローなどありえない概念なのである。破天荒にルールはなく、型破りに型はない。野球で言えば、ナックルボールみたいなものである。無回転で不規則に変化するボールの動きや行方は、打者や捕手はもちろん、投げた投手自身でさえわからない。ボストンレッドソックス松坂の同僚で、名立たるナックルボーラーのウィクフィールドだって「どんな変化をしてどのコースに行くかって? ボールに聞いてくれ」と言うに違いない。そこには決まった型などない。

だが、ちょっと待てよ。行き先や動きが不明ということがナックルボールの型なのではないか!? ふ~む。嫌なことに気づいてしまったものだ。たしかに、ナックルボールには、投げたボールがどう変化してキャッチャーミットのどこに入るか――あるいは大きく逸れるか――が皆目わからないという明白な特徴がある。それを型と呼んで差し支えないのかもしれない。ついっさきの、型破りな型などないという確信をあっさり取り下げねばならないとは情けない。野球の話などしなければよかった。


以上でおしまいにすれば、文章少なめの記事になったが、気を取り直してもう少し考えてみることにする。先の「破天荒な型」に話を戻すと、その型が定着したり常習的に繰り返されないならば、つまり、一度限りの型であるのなら、これは大いにありうる、いや、あっていいのではないか。

マニュアルやルールの批判者が、『マニュアル解体マニュアル』を著したり『ルールに縛られないためのルール集』をまとめたりしたら、やはり節操がないと睨まれるだろうか。その批判者自らが提示する解体マニュアルと変革ルールを金科玉条に仕立てたら、当然まずいことになる。二日酔い対策のための迎え酒が常習化したら、昨日の酔いの気を散らすどころか、年中酒浸り状態になってしまう。

何となく薄明かりが見えてきた。マニュアルを一気に解体してみせる一回使い切りのマニュアルならいいのだ。また、ルールにがんじがらめに縛られている人を救うためのカンフル剤的ルールなら許されるのだ。したがって、型破りのための新しい型が威張ることなく、たった一度だけ型破りのために発動して役目を果たすなら、大いに褒められるべき型であるし共有も移植も可能だと思える。ここで気づいたが、この種の型のことをもしかすると「革命」と呼んだのではないか。

型という一種のマンネリズムを打破する方法は革命的でなければならず、その方法が次なるマンネリズムと化さないためには自浄作用も自壊作用も欠かせない。とにもかくにも、どんなに魅力ありそうに見える型であっても、型はその本質において内へと閉じようとする。型は決めたり決められたりするものだから、個性や独創と相性が悪いのである。型を破ったはずの型を調子に乗って濫用してはいけない。この結論がタイトルの問い〈型を破る型はあるか、ないか?〉の答えになっていないのを承知している。

流されてしまう時代

意思をたくましくして事に処していても、人間一人が外圧にあらがう力はたかが知れている。外圧などという物騒なことばを使ったが、別に外から圧力がかかるまでもない。ごく自然に集団や雑踏の中に佇んでいても、意思とは無関係な「自己不在感」に襲われたときには、すでに流れに棹差すままの身になっている。

メディアに取り巻かれて流され、日々の生活が文化的なトレンドに流され、そして、今いるその場で人は流されてしまう。具体的には、テレビ・新聞・インターネット・書物に向き合って自主的に情報に接しているつもりが、気がつけば、相当ぶれない人でも河童の川流れ状態に陥っている。街を歩けば、グルメにファッション、立ち並ぶ店のディスプレイに取り込まれ、固有の嗜好だと思っているものさえ、実はサブリミナルに刷り込まれていたもの。会議や集いや居酒屋でも、全体を包む雰囲気に流される。流されていることに気づくうちはまだいい。しかし、流れの中にずっといると、流れているのは岸のほうで、自分は決して流されてなどいないと錯誤する。

個性ある人間として主体的に生きようと意識している、なおかつ強い意思によって世間を知ろう、また当世の文化にも親しもう、しかも空気に左右されぬよう場に参加しようとしている。そのはずなのに、ぼくたちはいとも簡単に流されてしまっている。あ、この一週間は早かったなあ……まだ自分の仕事はほとんどできていないのに、雑用ばかりでもうこんな時間か……貴重な時間は空虚に流れ去り、印象に残っているのはやるせないゴミ時間の記憶ばかり。


流されないようにするための処方箋が「さらに意思を強くすること」しかないのであれば、もはや絶望的である。しかし、何も悲愴な面持ちで嘆き続けるだけが能ではない。無茶を承知で言うのなら、外界に向かって鎖国的に生きるか、あるいは世間やメディアから隔絶されたところに隠遁すればいいのである。そうすれば、少なくとも流されずには済むだろう。

だが、それでは社会的生活が成り立たなくなってしまう。ぼくたちは必要最小限の時事的情報を知らねばならず、さもなければ、人と交わり共同で何らかの仕事をこなしていくことはできない。たとえ鎖国・隠遁が可能だとしても、その生き方は引きこもりっぱなしのオタクと同じである。彼らが流されていないという痕跡は見当たらない。いや、実のところ、彼らの大半はゲームやインターネットや趣味の世界の中で流されてしまっている。

誰にでも効く処方箋を持ち合わせているわけではないが、ぼくはまったく悲観的ではない。抗しがたい急流にあって有用の時間のみを追わず、岸辺に上がって無用の時間に興ずればいいのではないか(無用の時間はゴミ時間ではない)。現実の情報・文化・公共の場などの意味体系から離脱して「引きこもり」、せめて一日に一時間でもいい、沈思黙考する時間を自分にプレゼントする。その一時間は外部環境の変化に一喜一憂しない時間である。世の中にわざと乗り遅れる一時間である。そういう時間を持つようになってまだ数年とは情けないが、じわじわと効いてきた気がする。ただのプラシーボ効果なのかもしれないが、かけがえのない至福の時間になりつつある。

答えは一つなのか

「アルファベットのRTの間に入る文字は何か?」 この問いに対してふつうは“S”と答える。アルファベットは26文字の集合なので、必ずしも「ABC……XYZ」と並ぶことを強要してはいない。とはいえ、「アルファベットを言ってごらん」と言われれば、ぼくたちはたいていAから順に暗誦する。どうやらアルファベットには「順列」も備わっているらしい。実際、名詞の“alphabet”を副詞の“alphabetically”にすると、英語では「(アルファベットの)ABC順に」という意味になる。

「アルファベットのRTの間に入る文字は何か?」と聞かれて、たとえば“RAT”(ネズミ)が思い浮かんだので“A”と答えるとする。おそらく間違いとされるだろう。出題者がその答えを求めているなら、「RTの間にアルファベット一文字を入れて意味のある単語を作りなさい」とするはずだ。したがって、「アルファベットのRTの間に入る文字は何か? 」への答えはただ一つ、“S”でなければならないと思われる。

このような次第で、答えはつねに一つになるのか? たしかに、上記の例のような既知の事柄については唯一絶対の解答はありうる。他にも、都道府県の数は? 平安京遷都は西暦何年? 元素記号でLiは何を表わすか? などの問いは一つの答えを要求しており、解答者がそれぞれの正答である「47」、「794年」、「リチウム」以外の答えを編み出すことはできそうもない。期待された正答以外の創意工夫をしても、ことごとく不正解とされるはずだ。

絶対主義は真なるものを存在させようとする。真なるものは文化や歴史の枠組や文脈とは無関係に一つであるとされる。たとえば、学校のテストで「アメリカ大陸を発見したのは誰か?」という設問に、「コロンブス」をただ一つの正解として認めるようなものである。だが、ちょっと待てよ。ついさっき、既知の事柄については唯一絶対の解答は「ありうる」と書いた。意識してそう書いたが、これを裏返せば、ない場合もあるということだ。


コロンブスの代わりに、「クリストファー・コロンブス」と名と姓を挙げてもおそらく正解になる。だから、すでに「一つの正解」が崩れている。さらに屁理屈をこねれば、いくつでも答えらしきものをひねり出すことができるだろう。この問いが日本の中学生に出題されたのであれば、「外国人」と答えてもいいし、「もしそれが1492年でないならば、アメリゴ・ベスプッチ」と洒落てみることもできる。もし設問が「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのはいつか?」であれば、必ずしも年号を記す必要はない。「中世の時代」でも「15世紀末」でも広義の正解になるし、とてもアバウトだが「ずいぶん昔」でも外れてはいない。明らかに、既知の事柄に関して絶対主義的立場から導く答えも一つとは限らないのだ。問いの表現に解釈の余地があれば解釈の数だけ答えも生まれることになる。

そうであるならば、相対主義に至っては古今東西の文化圏の数だけ、いや人の数だけ異なった解答がありうることになる。では、既知ではなく、未来の方策についてはどうか。これを答えと呼びうるかどうかは別にして、やはり一つに限定するのは無理がありそうだ。

たとえばひどく疲れているぼくが疲れを癒す方策は、適当に思い浮かべるだけでも、睡眠、風呂、散歩、体操、栄養剤、音楽など枚挙に暇がない。数時間先または明日、明後日に効果を待たねばならないから、どれがもっとも有効な方策かを今すぐに決めることはできない。この点では正解はわからない。しかし、正解候補はいくらでもある。実際、すべてを試してみれば、すべてが正解として認定できるということもありうるだろう。

何が何でも正解を一つにしたければ、「コストパフォーマンスの高いもの」や「即効性の強いもの」などの条件を設定したうえで、すべての方策を何度か繰り返してデータを取るしかない。睡眠時間の長短、風呂の温度と水量、散歩や体操の時間と強度、栄養剤や音楽の種類など気の遠くなるような定性的・定量的テストを重ねる。それでもなお、ぼくが自分の疲労条件をまったく一定にすることなど不可能ではないか。未来に求める答えを一つに絞ることがいかに空しいかがわかるだろう。正解候補も答えもいくらでも存在するのだ。どれをベストアンサーにするかは、最終的にはほとんど信念である。

考えることと語ること

だいぶ前の話になるが、コミュニケーションの研修のたびにアンケートを取っていた。いくつかの問いのうちの一つが「コミュニケーションで悩んでいることは何か?」であった。そして、二人に一人が「考えていることをうまくことばにできない」や「思っていることを他人に伝えることができない」と答えたのである。これらの答えの背景には「自分は何かについて考え、何かを思っている」という確信がある。その上で、そうした考えや思いを表現することばに欠けているという認識をしている。はたして言語はそのような後処理的なテクニックなのだろうか。

「思考が言語にならない」という認識はどうやら誤りだということに気づいた。ほんとうに考えているのなら、たとえ下手でも何がしかの兆しが表現になるものだ。幼児は、バナナではなくリンゴが欲しいと思えば、「リンゴ」と言うではないか。それは、バナナと比較したうえでの選択という微妙な言語表現ではないが、思いの伝達という形を取っている。「リンゴ」と言わないうちはリンゴへの欲求が、おそらく不明瞭な感覚にとどまっているはずだ。子どもは「リンゴ」と発すると同時に、リンゴという概念とリンゴへの欲望を明確にするのである。

「言葉は思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だなどとはとても認められない」「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識そのものである」(メルロ=ポンティ)

「言語は事物の単なる名称ではない」(ソシュール)。

「言語の限界が世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。

粗っぽいまとめ方で恐縮だが、これら三者はそれぞれに、言語と思考の不可分性、言語とモノ・概念の一体性、言語と世界観の一致を物語っている。


ぼくたちは何度も繰り返して発したり書いたりしたことばによって思考を形作っている。未だ知らないことばに合致する概念は存在しない。いや、不連続で茫洋とした状態で何となく感覚的にうごめきはしているかもしれないが、それでも語り著すことができていないのは思考というレベルに達していない証しである。先のヴィトゲンシュタインは、「およそ語りえることは明晰に語りうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」とも言っている(『論理哲学論考』)。語りえることと考えうることは同じことだとすれば、語っている様子こそが思考のありようと言っても過言ではない。

以上のような所見が異様に映るなら、相手が想像すらしていないことについて質問してみればいい。相手は戸惑い沈黙するだろう。これではいけないとばかりにアタマの中に手掛かりを求めるが、白紙の上をなぞるばかりでいっこうに脈絡がついてこない。ますます焦って何事かを話し始めるが、明晰からは程遠い、無意味な単語を羅列するばかりだろう。あることについて知らないということはことばを知らないということであり、ことばを知らないということはことばにまつわる概念がアタマのどこにもないということなのである。

芸人のなぞかけが流行っている。「○○とかけて□□と解きます。そのココロは……」という例のものだ。まず「○○」が初耳であれば解きようもない。仮に「○○」が知っていることばであっても、かつて思い巡らしたことすらなければ、整わせようがない。たわいもないお遊びのように見えるが、実は、あの技術は言語力と豊富な知識を必要とする。そう、明晰に語ることと明晰に考えることは不可分なのである。ことばが未熟だからと言い訳するのは、思考が未熟であることを告白していることにほかならない。