学学

読書の方法について、図書館の活用法について、あるいは文章の綴り方や推敲のやり方について、きちんと教わったり学んだりしたことがあるか? コミュニケーションすることについて――そのために必要な読み書きの技能について――国語の授業はいったいどれほど有効なヒントを与えてくれたのか? 

しかも、こうしたリテラシー一般に関して、誰かが教えてくれないのなら、自分で試行錯誤して技能を身につけようと一念発起した人がどれほどいるだろうか? ほとんど誰もがそれぞれの生きている「ことばの環境」の中で成り行きのやり方で、さほど工夫もせずにやりくりしてきたにすぎないと思われる。「学ぶことについての学び」と真剣に向き合ったことなどまずないのである。

学び方の学びのことを、ぼくは〈学学まなびがく〉と命名して、社会人に遅まきながらも実践するように推奨してきた。本ブログでも『学び学でリテラシーアップ』と題して書いたこともある。リテラシーとはおおむね「読み書きの技能」である。しかし、読み書きの技能は読み書きだけを目的としない。言語を高度に運用するために、ひいては思考力を高めるために、読み書きの効用を再考すべきだと思う。


何事であれ、最も成果を生みやすい習慣ほど地味である。但し、並大抵ではない継続と集中を要する。自分の仕事でそれが想像しにくければ、好きなスポーツの一流選手の練習ぶりを見ればわかりやすい。ありていに言えば「コツコツとハードワークをこなしている」。自分の仕事がそれを必要としないのなら、程度はたかが知れている。もっともリテラシーのことなど放っておくという生き方の選択肢はあるかもしれない。

しかし、リテラシーを放置していては言語生活は豊かにならない。たいていの大人はことばを第二の天性として鍛錬することに怠慢になっている。実は、ぼくたちが抱える諸問題の大半はリテラシーの強化によって解決することができるのだ。仕事上の業務や課題はある意味で言語的なのである。うまくいかない理由のほとんどがリテラシーの機能不全に関わっている。

自然流ではいかんともしがたいのである。本を読みながら、ノートを書きながら考えるという習慣を意識的に続けないかぎりリテラシーは高度にならないし、それどころか、加齢によって劣化するばかり。どうすれば上手に学べるかという方法を教わるか、もし教われそうにないのなら自ら編み出さねばならない。

日々揮発していきそうな諸々をノートに綴ってみる。本に書いてあることを覚えようなどとせずに、何度も読んで自分の知識や経験と刷り合わせる。気に入った文章を音読しながら意味や主題を考える。こういう習慣の繰り返しによって、語感が鋭敏になり構文が作れるようになり、やがて思いとことばがつながってくる。リテラシーの強化は練習に比例する。驚くようなノウハウの練習ではない。一日三度の食事のように、普通の行いを集中して継続するだけである。

日にちのこと

「日にち」はある意味で冗長な用語だ。「日」と書けば済むのだが、それだと頼りなく感じるのだろうか、敢えて「ひにち」と言う。漢字で書くと「日日」。これは見た目が感心しない。しかも「ひび」や「にちにち」と読まれてしまう。ゆえに「日にち」に落ち着く。

「年末年始は1230日(土)から14日(水)まで休みます」。店側の休業日程を知らされてもあまり役に立たない。結局、忘年会や新年会の日にちを決める時には、いつまでやっているのか、いつから始まるのかに置き換えることになる。それなら、「年内の営業は1229日(金)まで。新年は15日(金)から営業します」と書くほうがいい。

特定の日取りや日付は、その一日だけわかればいいから明快である。しかし、日にちと日にちをまたぐと飲み込みに少々時間がかかる。「○日ぶり」や「○年ぶり」の解釈が人によって異なることがよくある。たとえば、元日に会って7日に再会したら「6日ぶり」と言うのだが、いちいち頭でそんな計算をせずに、適当に一週間ぶりと言ったりする。


サッカーの試合が土曜日にあり、次の試合が水曜日だとする。何日ぶりと言うか。中3日なので「3日ぶり」と言う人がいる。また、土、日、月、火、水と5日にまたがっているので「5日ぶり」と言う人も稀にいる。正しくは「4日ぶり」だ。XデーからYデーまでの経過を「~ぶり」で表現する時は「(Y-X)ぶり」と言うのである。X15日(土)でY19日(水)なら、「19-15」で4日ぶりになる。

2001年に同窓会があり、ずっと顔を見せなかったクラスメートが久しぶりに2017年の同窓会に出席したら、「2017-2001」で16年ぶり。毎年出席していた会合に昨年欠席して今年出席したら、2年ぶり。抜けたのは一年だけだが、2年ぶりと言うのである。

「やあ、ごぶさたしています。かれこれ4年ぶりですね。」と言われて、4年会っていないと早とちりしてはいけない。Xデーの元日に会ってYデーの大晦日に再会したのなら、ほぼ5年経っている。Xデーの大晦日に会ってYデーの元日に再会すれば3年である。実質会っていない日数は4年ぶりと言うだけではわからない。確かなことは、会わなかった年が3年あったということだけである。

テーマのコラージュ

絵が描かれた板に願い事を書くのが「絵馬」。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めて再び絵馬を奉納する。願いとはある種のテーマ。いくつかの主題をラベルに書いてみた。

大それた決意表明ではない。紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示しているにすぎない。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡ってくれ、それが刺激になって雑文の一つも書くようになり、誰かをつかまえて語ってみたくなる。


【考える】 物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。

【観察】 観察イコール客観的? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観でまみれている。固有の体験だからである。それで何か困ることが起こるわけではない。

【風景】 目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物だ。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現す。

【にっぽん】 日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、切手には“NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。元気を出すには「にっぽん」でなければならない。

【都市】 都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくる回せば形が変わる。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……。

【物語】 人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になる。

【食卓】 食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことである。食卓を囲むとは一緒に食べること。ただテーブルに就くだけではない。

【本棚】 読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。

【生きる】 どこまで行っても生きるとは現実である。この現実に直面するかぎり、他のテーマが――仮にどうでもよさそうに見えるものでも――意味を持ち始めるのだろう。

【珈琲】 自分の生活シーンから消えてしまうことを想像できないものがある。たとえば珈琲がそれだ。これがなくなると、生き方や考え方をかなり大幅に変えなければならなくなる。

【仕事】 公的な仕事などと言うが、結局のところ仕事は「私事」である。仕事というものは、欲しい時には出てこず、もう十分と思う時に入ってくる。だから欲しいなどと願わないのがいい。

【世界】 部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合が切り取る概念である。

【知性】 知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は目立たないのだ。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、知性の差がはっきりと現れてくる。

【遊び】 人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきた。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕としての遊びの境地に到る人は少ない。機械にはそれができている。

【響き】 「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは、責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。

【言語】 人間のみが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。だから、それを捨てて悟るのか、言語的に生きるのかをはっきりと決めるべきなのだ。

【暮らし】 どんなにだらだらと日々を送っても、どんなに生き生きと毎日を楽しんでも、暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。

【笑い】 元気になる、励まされるという理由で無理に笑うことはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高いのだ。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃大声で高笑いするのは控えるべきだろう。

カラス、なぜ鳴くの?

カラスが声と姿を照合して仲間を認識することはよく知られている。ぼくたちからすれば、カラスはみんな黒くて同じ姿格好に見える。犬や猫なら少しは違いがわかるが、カラスの個体差となると峻別は容易でない。しかし、カラスどうしはお互いがわかる。わかるのは差異の認識ができるからだ。

鳥類の中ではもちろん、動物界にあっても、カラスの観察力と学習力はずば抜けている。コミュニケーションも行動パターンも想像以上に複雑、伝え合う意味も深いということが近年の研究で解き明かされた。カラス、なぜ鳴くの? カラスの勝手ではなかった。また気の向くままに鳴いているのでもなかった。意味のある複雑なコミュニケーション行動をしていたのである。

都会のカラスの脳のシナプスが、刺激が少ない地域のカラスのそれに比べて複雑な構造を持つことがわかっている。神社周辺と森にいれば変化が乏しく、たいていの状況は定常処理で切り抜けられる。しかし、都会に棲息するカラスが晒される情報量は半端ではない。生きる上で必要な情報を環境から入手し、それらを組み合わせて記憶として働かせる能力がいる。環境適応しようとしてカラスは仲間との綿密なコミュニケーションに必死である。


言うまでもなく、カラスは文字を持たないから、音声によって伝達理解をおこなう。仲間の鳴き声を聞き分け鳴き声で反応する。人間も同じだが、人間は文字によって音声を補い、高精度なコミュニケーションをおこなう。すなわち、読み書きというリテラシーによって知を共有できる。これが人間関係の基本の基本である。

日々強く意識してリテラシーの習熟に励めば、ことばと想いは近づいてくる。ことばと想いの完全一致など万に一つも望めないが、読み書きを習慣化すると、考える力が養われる。強く意識して続けるには脳のスタミナが欠かせない。ところが、五十の声を聞く頃から、スタミナ切れが生じる。若い頃に操れていたことばが思うように出てこない。それまでと同じレベルの学び方や鍛え方では劣化に歯止めがきかなくなるのだ。

カラスにとってコミュニケーションは生きることと同義である。大いに見習うべきだ。歳をとっても生きていかねばならない。しかし、話す聞くという音声面のリテラシーだけでは壁にぶつかる。壁は、読み書きというリテラシーで突き破らねばならない。残念なことに、ほとんどのシニアは読書意欲も減退し、文を綴る機会も減ってくる。やがて、ことば遣いが雑になる、固有名詞を忘れる、考えの精度が落ちてくるなどの症候群に見舞われる。

鍛えるのに時間はかかるが、衰えるのはあっと言う間だ。五十代、六十代になると筋肉の衰えと同じことが脳でも起こり始める。せっかくいろいろと経験を積んできたのに、晩年になってそれを生かせないのは実に情けないではないか。このような理由から、来年度に向けて「アンチエイジング・リテラシー」の実践方法を集大成しようと構想を練っている。見通しが立てば少しずつここに書いてみるつもりである。

懐かしい珈琲用語

コーヒーは外来ものだから用語もほとんどがカタカナ。なかには色褪せたことばがある。今も普通に使っているものの、喫茶店で耳にしたり目にすると違和感を覚えるのもある。時代錯誤のように響くのはぼく独特の感覚かもしれない。かと言って、別にケチをつけるつもりはない。むしろ、懐かしく過去を思い出し、コーヒーと喫茶店を通して時代の移り変わりを実感する。

アロマ  「亜呂麻」などと漢字で表記する店名があった。ちょっと怪しげな雰囲気があり、音も妖しげに響く。『コーヒールンバ』は、♪ 昔、アラブの偉いお坊さんが……で始まり、独特のメロディに意表を衝く歌詞が乗せられ、やがて♪ 南の国の情熱のアロマ……というくだりにやって来る。正しくは「アローマ」と歌う。アロマセラピーなどという概念よりもずっと前から、コーヒーはアロマをゆったりとくゆらせていたのである。

サイホン  サイフォンではなく、サイホンというところが通好みだ。店名の横に堂々と「サイホンコーヒーの店」と掲げるのが流儀である。哲学のフィロソフィーを明治時代には「ヒロソヒー」と発音していた。あれと同じである。「ファ、フィ、フュ、フェ、フォ」は「ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ」と言うのが正統派なのである。フラスコ状のあの器具がコーヒーを抽出するのを初めて見た時、かなり驚き、一部始終を見届けたものだ。ガラス底を炙っていたアルコールランプが懐かしい。

シュガー  砂糖ではなく、わざわざシュガーと言う。二十代の頃、コーヒーの飲めない年上の同僚がいた。それでも、付き合いのいい人だったので、喫茶店によく同伴してくれた。注文するのは決まってホットミルク(この響きも懐かしい)。「ぼくはホットミルク」と言ってから、いつも一言付け加えた。「シュガー抜きで!」 自分で言ってみればわかるが、「砂糖抜き」では拍子抜けするのだ。しかし、コーヒー皿にスプーンと一緒に添えられた二個の立方体は「角砂糖」と呼んだものである。

ブラック  時々行くカフェには「ダーク」というコーヒーがある。ブレンドの中で一番濃いのをそう呼んでいる。ダークを頼んで砂糖を入れるのは自由。そのダークとブラックは意味が違う。ブラックとは砂糖無し、ミルク無しのコーヒーのことだ。誰がこんな表現を最初に思いついたのか。かつてはなじんでいたが、最近ではノスタルジックで古めかしい印象を受ける。企業訪問するとコーヒーを出してくれることがある。「ブラックでよろしいでしょうか?」と聞かれる。「ええ」と答えるが、若い人にそう聞かれて違和感を覚える。なお、ぼく自身は一度もブラックと言ったことはない。丁寧に「砂糖とミルクは結構です」と言う。

アメリカン  今ももちろんメニューに載っているが、一時代前の響きがある。昭和40年代や50年代には二人に一人がアメリカンを注文していた記憶がある。ブレンドだと味が濃く、濃いコーヒーは胃に良くないなどと言われた頃で、こぞってアメリカンを注文したようだ。今では浅炒りの専用の豆が常識だが、当時は、出来上がったブレンドに湯を足していた喫茶店があった。

フレッシュ  これは関西独特の表現だとする説がある。ホットコーヒーだと黙って小さな容器で出てくるが、アイスコーヒーを注文すると「フレッシュは入れますか?」と聞く店がある。自分で加減して入れたいのに、店員が入れてからテーブルに運んでくる。余計なお節介である。カフェに置いてあるミルクの入った小さなポーションをフレッシュと呼ぶのは、1975年に大阪の会社が発売して以来だと言われている。しかし、喫茶店もそれに倣ったのか、それともそれ以前からそう呼んでいたのか、定かではない。ともあれ、生クリームの新鮮さを強調するために、「生」をフレッシュと言い換えたようである。

レイコ―  方々に出張している関東の知り合いは、レイコ―は関西独特だと言う。ぼくもそう思う。「冷たいコーヒー」、略して「冷コー」。ぼくよりも上の世代の大半はレイコーと注文するのを習わしとしていたし、今も堂々とそう言っている。一杯が150円や200円の時代はそれでよかったが、400円や500円が当たり前になった今、レイコーと呼んでは安っぽくなる。と言うわけで、ぼくは常に「アイスコーヒー」と注文する。縮めたり略したりするよりもフルネームのほうが値段に見合うような気がするからである。

ことばに生かされて

昨年から今年にかけて、コミュニケーションについて講演する機会が何度かあった。コミュニケーションは伝達や理解の単なる手段ではなく、生きることそのものであるというテーマ。他人に何かを伝えるための手段としてことばが在るのではなく、ことばそのものがコミュニケーションを可能にしている……ぼくたちが主人としてことばという下僕を使っているのではない……むしろ、人のほうこそがことばに生かされている……というような話である。

人どうしの間で「意味を共有」することがコミュニケーションの原義である。意味とは「言の葉」として驚くほど分化したことばの意味だ。つまり、コミュニケーションを生きるとは、人と人の関係においてことばの意味を分かち合うことに命を預けることにほかならない。ここが、人間とことばを持たない動物との唯一にして決定的な違いである。人間だけがことばによって生かされ、コミュニケーションを生きている。

人生の究極の最高善とは何かと自問自答し、アリストテレスは「幸福である」と喝破した。万人にとって蹂躪しがたいのが幸福という概念なのである。たいていのことには「なぜ?」と問えるが、「なぜ幸福が重要なのか?」などという問いは成り立たない。幸福には理由も説明も目的もなく、言い換えることもままならない。幸福はただ幸福と言う以外に他はない。したがって、「幸福を求めて生きる」という言い方もありえない。ぼくたちはただ幸福を生きるのみ。同じく、ことばに生かされて、コミュニケーションを生きている。


ことばで人の思いや世界の何もかもがわかるわけではない。わからなくてもやむをえない。しかし、ことばそのものの内にしか「わかる可能性」はなく、また「わからない可能性」もそこにしかない。わからない覚悟もしておかねばならないのである。仮に何かがわかったとしても、どの程度わかったのかを知る手掛かりがあるはずもない。わかったことの程度がわからないのなら、それはわかったとは言えないのではないか。

ことばによって何かをわかろうとすることには気の遠くなるような困難がある。わからないことをわかろうとして苦悶し、結局のところ、わからずにやむなく退散する。そしてまた、性懲りもなくわかろうと努める。考えるとはこういうことの繰り返しなのだ。意味を分かち合い物事を考えようとして、ぼくたちはつねにことばの壁にぶつかっている。しかし、絶望するには及ばない。この時、ことばに生かされているからこそ考えることができ、コミュニケーションを生きていると実感するのだから。

言い換えて見えるもの

ことばが陳腐にならないように努めて意識するようにしている。語彙不足だと同じ表現を使うしかない。その時、思いとことばが乖離し、とてももどかしい。その表現で手を打っていていいのか。以前、次のような文を書いた。

美しい花を見て「美しい」と言い、青い空を見上げて「青い」と言うのが真っ直ぐな心の表われだとしても、美しいや青いで済ませているのはある種の怠慢、あるいは対象とことばの馴れ合いではないのか……

美しいとか青いと言う以外に候補がないのならやむをえない。しかし、どの花にも美しい、いつの空にも青いと言えてしまうなら、感覚の機微が大雑把ということになりはしないか。いや、感覚の機微はことば以上にデリケートなはず。しかし、その機微に見合った表現ニュアンスを持ち合わせていなければ、いかんともしがたいのである。


ぼくたちはある対象だけを、対象と自分だけの関係においてのみ、純粋に感じているのだろうか。一切の雑念を無にしてそこに佇んで向き合っているのだろうか。そんなことは不可能な気がする。すでに知っていることばが介入して、ことばで感覚を処理しているのではないか。美しいとか青いということばを知らなければ、実は対象もそのつどの感覚で捉えることができないと思うのである。

「秋が深まった」。秋本番を感じたからそう言ったのか。いや、そればかりではないだろう。秋ということばや長年にわたって刷り込まれてきた概念がそう言わせているのではないのか。秋と言うだけでは物足りない時がある。秋口や初秋や新秋に夏の疲れを忘れ、次いで仲秋や涼秋に入って秋たけなわを堪能し、やがて晩秋を迎えて行く秋を惜しむ。肌だけで感じるわけではないだろう。表現が大いにそういう感覚を鋭敏にしているはずである。

初めて訪れた場所を、「まち」「町」「街」「都市」のいずれで表記するかによって感覚は変わる。その場所に脱言語的に接するよりも意味が変化するかもしれない。同じものを見ていても、それを言い換えてみて違ったものが見えてくる。ことばの言い換えが、場や対象を陳腐化させず、新鮮な印象を刻んでくれるのである。

感動していないくせに……

喋ることばが感動詞だらけという知人がいた。「こんにちは。ほう、元気そう。えっ、ぼく? まあ、元気。おや、それいいねぇ。へぇ、そう?」。感動詞を抜いたら、「元気」と「いい」と「ぼく」しか言っていない。コミュニケーションは潤滑油だ、黙っているより何でも話せばいいなどと言うが、この程度なら「こんにちは」と言って黙っておけばいい。

感動詞に「おっと」がある。おっとと言えば古舘伊知郎だ。彼は驚きを増幅させるために「おおっと!」というバリエーションで叫んだ。それに続くことばは別に何ほどのものではないが、耳にする者は釣られるように驚くという仕掛け。知人同様に、取って付けたような演出が過ぎると、感動の叫びが胡散臭く思えてくる。

「『おっと』という間投詞の意味は、しぐさからことばへの、本人が思っていたよりも遠い隔たりを指している」
(船木亨『メルロ=ポンティ入門』)。

ここでは感動詞ではなく間投詞と呼んでいるが、意味は同じだ。視覚的にとらえた何かをそのままことばに変換する前に、注意喚起の声を上げておく。この様子だと次はこうだろうと思っていたが、そうではなかった。予期せぬことが現れた。その遠い隔たり、あるいは落差を「おっと」の合図で表わすというわけである。


感動詞はめったに文章では出てこない。そもそも発話されるものだ。使ってやるぞと目論んで使うものでもない。自然体でなければならない。先の本では「あなたの頭のなかにはそうしたことばが一切生じないまま、なぜ自分が振りかえるのかは知らないままに、なにげなく振りかえっている自分に気づくということではないだろうか」と続く。感動詞にはこの「なにげなく」が欠かせないのではないか。つまり、素直な心の状態での音声化ゆえに会話に誠実味を添える。メルロ=ポンティ流に言えば「まことのことば」になるだろうか。

「なるほど!」が口癖の人がいる。さほど納得してもらうほどの発言でもないのに、連発されると、さりげなさが息苦しさに変わる。感動のテンションばかり上がって何も残らない。時には「ふーん」で済ましてくれるほうがありがたいのに……。感動はたまにするから印象的なのだ。明けても暮れてもやられると、一つ一つは高密度であっても、やがて希釈されて会話が空っぽになってしまう。

たいていの辞書では、この図にある発声や掛け声を「感動詞」と呼んでいる。たしかに心の動きや驚きの声も含まれるが、応答や呼びかけもあって、必ずしも感動とはかぎらない。「感嘆詞」とも呼ばれるが、感嘆ばかりでもなさそうだ。

もっと言えば、感動詞と名づけても、まったく感動のシチュエーションで使われず、口癖として発せられ、「おい、そこで使うのは場違いだろう」と言いたくなる場合が少なくない。単にを繋ぐだけ、ポカンと空きそうな隙間に投げるだけなら、先の著者が使っているように「間投詞」のほうが字句的にもぴったり来る。ともあれ、間投詞人間とのやりとりの後はどっと疲れる。おっと、合点、ぼくも気をつけよう。

小題軽話(その5)

今日のネタ  20139月~11月」と表紙に書かれた文庫本サイズの過去ノート。ぺらぺらとめくって文字を追えば記憶がよみがえる。読まなければ忘却の彼方。加齢によって覚えることがままならなくなる。だから、ノートをきっかけにして時々思い出してみるのだ。知り合いを観察していると、読まない人ほど記憶が衰えやすい。要注意。

難字  難解な漢字には、❶読みが難しいもの、❷意味がわからないもの、❸ほとんど再現できないものがある。
❶は知らなければ読めない。字画の少ない「小火」も、字画が多くて見慣れない「麺麭」も、初見だと読みづらい(それぞれ、「ぼや」「ぱん」)。
「拳拳服膺」は❷の例。この四字熟語は「けんけんふくよう」とまぐれで読めたのだが、何のことかさっぱりわからない。辞書を引いて「つねに心中に銘記して忘れないこと」という意味を知る。しかし、この表現を使うことはまずないだろう。
ワープロ時代になって、実際には書けない漢字が画面上に明朝やゴシックで再生できるようになり、❸を実感しにくくなった。本ブログを9年間書いてきて、改竄かいざん軋轢あつれきはそれぞれ一度ずつしか使っていない。使用頻度が低い漢字は書けなくてもよく、使う段になってそのつど調べればよいと思う。しかし、よく使う漢字は書けるようにしておきたい。ぼくは揶揄やゆという表現をたまに使うが、ペンを手にしてから、いつも戸惑っている。ワープロは字画の多い文字を簡略表示するので、間違った漢字を覚えてしまう。贅沢の「贅」なども侮れない。

妬み、嫉み、僻み  それぞれ「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」と読む。これらの用語は、ニュアンスの違いがわからないと使いづらい。と言うわけで、たいてい嫉妬、やきもち、羨ましいなどで代用される。嫉妬とは「そねみ・ねたみ」のことである。
手元にある簡易版国語辞典を引いてみた。ねたみ【妬み】の見出しには「しっと。そねみ」とある。そねみ【嫉み】をチェックしたら、一つ目の定義が「自分よりすぐれている人をうらやみにくむ」、二つ目が「ねたみ」。結局、ねたみとそねみのニュアンスはわからずじまい。ちなみに、ひがみ【僻み】には「ひがむこと」と書いてあった。辞書編纂者は利用者の知力を過信している。

おざなりとなおざり  201310月、関西で有名なHHホテルズの食品偽装が発覚した。記者会見で関係者は「おざなり」を詫びたが、自覚しながら七年間も誤った表示を続けてきたのは「おざなり」ではない。おざなりは急場しのぎのことばである。「適切に表示するシールがなくなり、間に合わせに手書きしたところ、それが誤っていた」なら、おざなりである。
ずっとおざなりだったのである。習慣化していたのである。ならば、おざなりではなく「なおざり」なのだ。なおざりだったのに、おざなりという表現で済まそうとしたところに狡猾さが見え隠れする。いや、関係者はそもそもそんな用語の違いも知らなかったと思われる。ところで、おざなりは「御座なり」、なおざりは「等閑」と表記する。

羊頭狗肉ようとうくにく  上記の不祥事は、芝エビとバナメイエビ、サーロインステーキと牛脂入り加工肉の偽装表示であった。羊頭狗肉とは「立派そうに見せかけて、実は卑劣なことをする」のたとえである。バナメイエビと加工肉に非はない。卑劣なのは行為者である。
サーロインと謳われて成型加工肉をうまいうまいと口に運んだ消費者。舌を巻く前に己の舌の程度も心得るべし。車も芝も、エビはエビ。違いがわからなければ、ブランドとは味ではなく名ということになる。「おいしいもの」と「もののおいしさ」は違う。
ところで、狗肉は犬の肉だと思われているが、馬の干し肉、ホースジャーキーである。羊肉のほうが馬肉よりも上等だった国の話。

忘れるのは勝手?  前世期の悲惨な事件の記憶が薄れる。それどころか、今年の事件でさえ忘れる。歴史も忘れる。BSテレビでヴェルサイユの街を紹介していた。17世紀まで牢獄だった施設跡がリフォームされ居酒屋になっている。壊さずに残す。客の一人が言った、「ぼくたちには記憶の義務がある」。聞き慣れないが、記憶の義務とはすばらしい発想だ。「オレの頭だ、忘れようと勝手だろ」ではないのである。

小題軽話(その4)

地と図  地と図には関係がある。あるもの(図)が他のもの(地)を背景にする時、図が浮き上って見えてくる。何かを別の何かになぞらえる、あるいは見立てるということが生じる。ルビンのさかずきと顔の絵でよく知られている。言うまでもなく、ルビンのあの絵にはゲシュタルトが仕込まれている。絵だけでなく、ことばでも起こる。何ら仕込みをしなくても、あることばが他のことば群の中で際立って知覚されることがある。たとえば、あるテーマについて考えるとする。それをテーマという対象と自分とのやりとりに見立てることができる。実際にやりとりしてみると、すでにわかっていることが地になり、わからないことが図として現れる。そして、考えるという行為が不足探しだということに気づく。

強がる弱さ  臆病で引っ込み思案のくせに、見栄だけは一人前に張ってみせ、力関係を天秤にかけては虚勢を強さに変えようとする。「強がり」は真の強者には無縁。それは弱者の振る舞いだ。老子は「柔弱」の価値を讃えたが、「強がる弱さ」はもっとも柔弱から遠いと言わざるをえない。強かろうが弱かろうが、短絡的に弱さを見せることもなければ強がってみることもない。分相応に力を発揮すればいいわけだ。外交戦略のように駆け引き過剰、強がり一辺倒には芸がなく、逆に相手に手の内を読まれてしまいかねない。あれこれとカモフラージュする暇があったら、素直に徹するのがいい。素直が強いのである。

疲れたらどうする?  根岸英一博士は「根岸カップリング」で有名だ。根岸カップリングとは、有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化合物とを……から始めて最後まで説明できないし、仮に説明できたとしてもこの際あまり関係がない。その根岸博士が、ある時チャーチル首相の本を手に取り、その冒頭の文章に大いに刺激を受けたという。「Aで疲れたら、何もしないのではなく、Bをやってみる」。うまくいかないことや疲れることがあれば、凡人は何もしない時間を作ろうとする。しかし、何もしない時間が過ぎれば、やがてうまくいかなかった作業に戻らざるをえない。以前にもまして疲れるかもしれない。もとより、何もしないことで疲れが癒される保障などない。Aで疲れてBでも疲れる可能性はあるが、BAへのヒントになるかもしれないと考えるのが非凡な発想なのである。

おばあさんの手紙は長い  「時間をたいせつに」とか「忙しければ、ひとまず短い簡単なメールか電話を」などという。ビジネスマナー論として語るまでもなく、みんなわかっていることだ。わかっているのにできないのは、時間がないとか忙しいと言いながらも、能力がないか暇な時間があるからだろう。英国に「おあばあさんの手紙は長い」という言い回しがある。毎日時間がたっぷりあるお年寄りは、いったん手紙を書き始めたらなかなかペンが止まらない。冷静に考えれば、お年寄りは日々時間があっても、人生の時間は残り少ない。人生のことを考えたら、長い手紙ばかり書いているわけにもいかないはず。しかし、時間は量なのではなく、感覚だ。時間はあると思えばあり、ないと思えばないのである。