感動していないくせに……

喋ることばが感動詞だらけという知人がいた。「こんにちは。ほう、元気そう。えっ、ぼく? まあ、元気。おや、それいいねぇ。へぇ、そう?」。感動詞を抜いたら、「元気」と「いい」と「ぼく」しか言っていない。コミュニケーションは潤滑油だ、黙っているより何でも話せばいいなどと言うが、この程度なら「こんにちは」と言って黙っておけばいい。

感動詞に「おっと」がある。おっとと言えば古舘伊知郎だ。彼は驚きを増幅させるために「おおっと!」というバリエーションで叫んだ。それに続くことばは別に何ほどのものではないが、耳にする者は釣られるように驚くという仕掛け。知人同様に、取って付けたような演出が過ぎると、感動の叫びが胡散臭く思えてくる。

「『おっと』という間投詞の意味は、しぐさからことばへの、本人が思っていたよりも遠い隔たりを指している」
(船木亨『メルロ=ポンティ入門』)。

ここでは感動詞ではなく間投詞と呼んでいるが、意味は同じだ。視覚的にとらえた何かをそのままことばに変換する前に、注意喚起の声を上げておく。この様子だと次はこうだろうと思っていたが、そうではなかった。予期せぬことが現れた。その遠い隔たり、あるいは落差を「おっと」の合図で表わすというわけである。


感動詞はめったに文章では出てこない。そもそも発話されるものだ。使ってやるぞと目論んで使うものでもない。自然体でなければならない。先の本では「あなたの頭のなかにはそうしたことばが一切生じないまま、なぜ自分が振りかえるのかは知らないままに、なにげなく振りかえっている自分に気づくということではないだろうか」と続く。感動詞にはこの「なにげなく」が欠かせないのではないか。つまり、素直な心の状態での音声化ゆえに会話に誠実味を添える。メルロ=ポンティ流に言えば「まことのことば」になるだろうか。

「なるほど!」が口癖の人がいる。さほど納得してもらうほどの発言でもないのに、連発されると、さりげなさが息苦しさに変わる。感動のテンションばかり上がって何も残らない。時には「ふーん」で済ましてくれるほうがありがたいのに……。感動はたまにするから印象的なのだ。明けても暮れてもやられると、一つ一つは高密度であっても、やがて希釈されて会話が空っぽになってしまう。

たいていの辞書では、この図にある発声や掛け声を「感動詞」と呼んでいる。たしかに心の動きや驚きの声も含まれるが、応答や呼びかけもあって、必ずしも感動とはかぎらない。「感嘆詞」とも呼ばれるが、感嘆ばかりでもなさそうだ。

もっと言えば、感動詞と名づけても、まったく感動のシチュエーションで使われず、口癖として発せられ、「おい、そこで使うのは場違いだろう」と言いたくなる場合が少なくない。単にを繋ぐだけ、ポカンと空きそうな隙間に投げるだけなら、先の著者が使っているように「間投詞」のほうが字句的にもぴったり来る。ともあれ、間投詞人間とのやりとりの後はどっと疲れる。おっと、合点、ぼくも気をつけよう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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