語感―ことばと思いのはざま

「あの人はすぐれた語感の持ち主だ」などと言う。「すぐれた」とは良いことである。そして、語感が良いことを語感が鋭い、語感が悪いことを語感が鈍いとも言う。日々のことば遣い以外に語感が鋭くなるように鍛錬する方法はあるのだろうか。問うまでもなく、あるに違いない。語感を磨く指南書もいろいろある。

しかし、語感だからと言って、一語一語に習熟し、他の類義語との微妙な違いを覚えてどうにかなるものではなさそうだ。一つのことばは、辞書に載っているような意味を内包しているものの、別のことばと結び付いた瞬間、おおむね意味に変異をもたらす。とある理髪店は看板にうたい文句を入れている。「頭で刈る頭」。一つ目の頭は脳や工夫を意味し、二つ目の頭は頭自体ではなく頭髪のことだ。頭を刈ると言うけれど、刈るのは髪。さらに言うと、刈るとはハサミ捌きのことである。

語感は単語単位で磨かれるのではなく、ことばとことばが連句になり文を構成してはじめて響く。だから、ことばを一つずつ覚えた、かつての英語学習はほとんど功を奏さなかった。日本語にしても同じ。仮に『広辞苑』に収録されている20数万語の見出し語を小さなチップに詰めて脳内に埋め込めるとしよう。こうしてもなお、ことばの使い手になれる保証はないし、語感が研ぎ澄まされることもないだろう。ことばは一部の例外を除いて単独で用いることはない。孤立状態の一つ一つのことばをネットワーキングするからこそ思いが伝わるのである。


avoid

英語の本を読んでいる学生が“avoid”という単語を英和辞典で引いたとしよう。そこには「避ける、よける」という意味が載っている。しかし、つねに「avoid=避ける、よける」では決してない。だから、辞書には文例が示されている。単語の意味だけではニュアンスを摑めないので、用例によって細やかな語感を感得するわけだ。

英語の意味が分かって一安心というわけにはいかない。むしろ、ここから語感の程が問われるのである。その学生は“avoid“を含む原文に戻り、さて「避ける」と訳すか「よける」と訳すかに迷う。迷うのは、避けるとよけるの語感の違いがわからないからである。外国語の悩みはいつも日本語にはね返ってくる。

中村明著『語感トレーニング――日本語のセンスをみがく55題』を参照してみよう。同書の第33問。

①「水たまりをよける」 ②「水たまりをさける」という表現から、それぞれのどちらの場面を連想しますか。

 水たまりに近寄らないように最初から気をつける、あるいは水たまりの多い道を通らずあらかじめ舗装道路を選んで歩く。
 水たまりのある道を歩きながら、飛び越えたりそうっと縁を歩いたりして水たまりに入らないようにする。

①がイ、②がアである。計画性がなく、とっさの判断による行為が「よける」。対して、「避ける」には事前に危機意識が働いている。さらには、「よける」のは目の前の具体的なもの、「避ける」のは想像する事態であることが浮かび上がってくる。

言いたいことがある。その思いを伝えたいのに、使おうとしていることばとの落差があってもどかしい。どうも語感がしっくりこないというのがこれである。一生、ぼくたちはことばと思いのはざまで苦悶する。語彙の問題ではない。文例不足、経験不足なのだ。だから、少しでももどかしさをやわらげたければ、読んで書くしかないのである。

言葉を狩る人たち

毒舌、ツッコミ、からかいも含めて、ことばの揚げ足を取ったり取られたりする場面は日常茶飯事よく現れる。関係の親密度次第では、苦笑で済むはずが嫌悪なムードになることもある。ことばは、だいたい伝わればいいではないかと大雑把な使われ方もするが、他方、神経が磨り減るほど表現のデリカシーに気遣わねばならないこともある。ユーモアやエスプリの味付けに自信がないのなら、危ない橋は渡らないほうがいい。

言葉狩り

講義で「彼の奥さんは……」と言った。悪気のあるはずもない。単なる例文の一つだったから。講義後に主催者側のオブザーバーから注意を受けた。「奥さんという表現はよろしくない」と言うのである。「何と言えばよかったのですか?」と聞けば、「妻です」。「はい、わかりました」と世渡り上手に振る舞っておけばよかったが、そうはいかない。「彼の妻ですか……ぼくの語感ではありえないですね」と、納得がいかないことを伝えた。

この組織での講義はこれが最初で最後となった。そのオブザーバーは内容や文脈には一切関心を示さない、言葉狩り専任の担当者だった。

「奥さん」に不快感を示す人などいないと断言する気はない。しかし、そこに居合わせるすべての人たちの感情をいちいち斟酌していたら何も言えないではないか。「奥さん」という表現は避けるほうがいいと書いてある本を知っているが、これが差別語であるはずもない。そう判断して例文として使ったのである。言葉狩り担当は、組織固有の表現コードによって機械的に単語だけをチェックする。彼らが話者の「意」を汲んだり文脈を考慮したりすることはない。


作家の里見弴に『文章の話』という著書がある。言論の自由がきつく制限されていた戦時中に発行された本だ。トルストイに言及したくだりがある。

トルストイは、「悪行はゆるをべし、されど悪心は悔ゆるを得べからじ」と言っています。(……)ああ、あんなことを言ってしまった、こんなことをしてしまった、という風に悔むのは、おもに言行で、それの基となっている心持の方は、えてして省られないがちです。

舌を滑らせたのは「言」。里見はその言を「しっぽ」、言の元を「頭」に見立てる。しっぽだけ引っ張ったり叩いたりしてもどうしようもないことで、仮に悪しきしっぽだとしても、そのしっぽの動きを指令した頭のほうを見ての是非であるべきだ。悪意か、未必の故意か、あるいは必要あっての意図か……どのような頭がしっぽを動かしたのかを感知しなければならない。判定者に感知する器量が備わっていなければ、しっぽの動きはすべて規制される。悪意ある思想が「彼の奥さん」とぼくに言わしめたと判断されたのなら理不尽である。思想など動いていない。単純な習慣的なものの言い方に過ぎない。繰り返すが、そもそも「彼の奥さん」に悪しきものが見当たらない。

経験を積み重ねていろいろと考えてきたことを――たとえそれが取るに足らないものだとしても――「思想」と呼ぶのなら、思想はことばによって組み立てられている。ことばは思想にして、思想はことばである。だから、ことばが品性を欠き、悪意に満ち、腹いせのように発せられていれば、思想もそんな程度のものだと考えて間違いない。きれいごとだけ上手に並べるずるい頭は逃げ上手にして隠れ上手だから、しっぽではなく頭のほうをよく見ておくことだ。

言わずもがな?

ごめんなさい

どうもしっくりいかない標語である。米と魚と野菜のそれぞれに「お」をかぶせ、「さん」付けしている。幼児ならそう言うだろう。だから、三行までは幼児ことばとしては不自然ではない。だが、最後の「ごめんなさい」に引っ掛かる。「どうしてごめんなさいなの?」と尋ねる子どもがいても不思議でない。

めったに通らない道の寺の掲示板。「ほほう、こう来たか」という感覚で眺めていた。標語の書き手には何がしかの思いがある。それを敢えて語らずに、前後関係の読み取りを通行人に期待している。こういうのを〈ハイコンテクスト・コミュニケーション〉という。みなまで語らずに文脈に依存する伝達方法のことだ。

ぼくの語感に間違いがなければ、「ごめんなさい」は謝罪の気持ちを表わす表現の一つである。謝っているのは罪か過ちを犯したからだ。米に、魚に、野菜に何か良くないことを仕出かしたので謝っていると思われる。飲み込みが悪いのではない。だいたいのことは類推できる。粗末にしたか、食べ残したか、好き嫌いを言ったのだろう。


それでもなお、やっぱり小難しいことを言っておくことにする。感謝の気持ちを表わす「ありがとう」なら、余計な説明をしなくても文意は通る。毎日の食事と食材への感謝の意味として、それ以外に何かことばや情報を足すことはない。「ありがとう」なら、少々唐突に出てきても意表は衝かれないのだ。しかし、「ごめんなさい」は奇異に映る。謝罪の理由は決して「言わずもがな」として片付かない。食べ残してごめんなさい、好き嫌い言ってごめんなさいという具合に言わないといけないのではないか。

繰り返すが、何を言いたいのかはわかる。しかし、その言いたいことを文脈から察するか察しないかは、通行人である標語の読み手が決める。「言わずもがな」と考えるのは書き手の勝手な判断なのだ。屁理屈ついでにもう一言添えるなら、英語に訳してみればいい。「なぜ謝るのか」という理由無しには英語にはならないはずである。「ありがとう」には理由はいらない。エレベーターで開くボタンを押してくれている人には「ありがとうございます」か、ありがとうの意味の「すみません」の一言でいい。「わたしのために開くボタンを押して待っていてくれてありがとう」とは言わない。

話さねばわからないのか、それとも話さなくてもわかるのか。みなまで言うべきなのか、それともすべて言い尽くさなくてもいいのか。先に書いたハイコンテクスト・コミュニケーションでは多くを語らないのが基本である。論理的にとことん説明するまでもなく、「言いたいことは分かるでしょ?」というスタンスを貫く。他方、〈ローコンテクスト・コミュニケーション〉では饒舌なまでに伝えたいことを明らかにする。つまり、みなまで語るのである。

どこまで語るかは、状況に応じて判断するしかない。その判断もせずに、話してもわからない者には何を言ってもわからない、だから話してもしかたがないという諦めは困ったものである。最初から意思疎通不全を覚悟しているのなら、標語を貼り出さなければいい。いや、伝えたいことがあるというのなら、その文言でコミュニケーションができているかどうかの検算くらいしてもらいたい。

ことばの冒険、ことばによる冒険

企画の指導をしている経験から、企画力が二つの重要な要素を基礎にしていることを疑わない。一つは着想であり、もう一つは言語である。いずれも欠くことができない。企画の手法や構成にはある種の「型」が存在する。わざわざ編み出さなくても、いくつかの型を習得して組み合わせてみれば体裁は整う。しかし、アイデアは変幻自在、アイデアを生み出す習慣を身に付けるには何度も試行錯誤の場数を踏むしかない。アイデアを得ても、次にことばをどうするかという難関が待ち受けている。アイデアはいいが、ことばが拙いために値打ちのない企画に成り下がることはよくある。

冒険

ありきたりなことばの表現に安住してはいけない。ことばは未知を照らす灯りである。ことばの担い手は冒険家でなければならない。ことばで表現することに勇気は欠かせない。人類はことばを発明してことばによって生き、そしてことばそのものを生きてきた。生きるとはことばの飽くなき冒険にほかならない。

冒険には行動が伴う。だが、ほとんどの行動は偶然の思いつきの所産ではない。ホモサピエンスの出アフリカ以来数万年、行動はしたたかに計画されたと考えざるをえない。計画はことばによって練られたはずである。ことばそのものが冒険であり、ことばこそが冒険という行動を可能にするのである。ことばをないがしろにして鈍感になり始める時、人は冒険心を失い行動の幕を引く。


ことばは止まらない。「ことばは継がれて絶えず、しかももとのことばにあらず。巷間に語られしことばは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」。聞き覚えのあるくだりに似ているだろう。『方丈記』をもじってみた次第である。

ことばは生まれ、ことばは消える
ことばが浮かばない、そして茫然とする
ことばを諦めれば、ことばは隠れる
ことばを疎外すれば、ことばがきみを疎外する
ことばに挑めば、ことばは生きる
やがてことばどうしが結ばれて
見えなかったものが見え始める

壁は扉になるか?

壁が扉になる

オフィス近くの寺の掲示板に「壁が扉になる」としたためられた貼り紙が出ている。今月の標語だが、言いたいことは重々承知の上で、軽く冷やかし気味に遊んでみたい。

この歳になるまで、さなぎが蝶に変態したのを見たことがなければ、壁が扉になるのを目撃したこともない。何時間も何日も見つめなかったぼくの忍耐不足のせいだったかもしれない。さなぎの変態は教養として知っている。ある朝突然、人が虫になる可能性はカフカに教えられた。しかし、壁が扉になることはこれまで誰にも教えられなかった。

壁が扉になるのなら、壁のあちこちに錠を付けないといけない。鍵をかけ忘れたら泥棒が入り放題だから。錠だらけの壁はきっと壮観だろう。ところで、ぼくの目の前で壁が扉になったことはないが、稀に扉が壁になったことはある。帰宅したらポケットに入れていたはずの鍵がなく、当然ドアは開かない。ドアがまさに壁になる瞬間である。

XYになる」という構文はわかりやすい。「秀吉が関白になる」というのも同じ。もちろん秀吉自身が物質的に変化したわけではなく、関白という立場に就いたという意味である。「XYになる」が成立するかどうかをチェックする方法が論理学にはある。〈対偶〉がそれ。対偶は「YにならなければXではない」という命題表現をとる。元の命題が成立するなら、この対偶も成立しなければならない。「壁が扉になる」の対偶は「扉にならなければ壁ではない」である。リフォームすればともかく、こう言い切るには無理がある。


くだんの寺の僧侶が、生物学や物理学や論理学の観点から「壁が扉になる」と書いたのではないことは承知している。工夫を凝らした比喩である。何かと何かを隔てたり閉ざしたりしている心理状態にあっても、ある日突然開かれるという意味だろう。それなら日常茶飯事だ。また、心を開いていたはずの誰かが、前触れもなく壁を設えて引きこもることもある。と、書いているうちに、壁や扉はどうでもいい、むしろ「~になる」という自動詞が曲者なのではないかと思い始めている。

何人かで居酒屋に入った時のこと。焼酎をボトル一本注文し、若い従業員に「ロックグラス一つ」とお願いした。しばらくしてグラスを持ってきてこう言った、「こちらロックグラスになります」。ふつうのグラスが手品のようにロックグラスに変わることはない。「ロックグラスになりますって、今の状態がすでにロックグラスだけど」とつぶやいたが、本人はツッコミだと気づかない。自動詞「なる」は何らかの変化を示すと理解しているので、元からのロックグラスは、落として粉々にでもならないかぎり、無変化のままロックグラスのはずである。

客の「ロックグラスもらえる?」に対して、「はい、こちらロックグラス!」では愛想がない、何か足すなら「です」かもしれないが、「はい、こちらロックグラスです」では拍子抜けしてしまう。業界であれこれ考えた挙句、座りのいい言い回しとして「はい、こちらロックグラスになります」に落ち着いた、と類推できる。

「壁が扉になる」を弄んだが、「壁が扉になります」に比べたら哲学的な貫禄を感じてしまう。もっとも、「こちらの壁が扉になります」だと勇み足になる。これでは、大掛かりなマジックが始まるのではないかと人だかりができてしまう。昔、山伏の恰好をした大道芸人が、大きな石が空中浮遊すると言ってお題目を唱えている光景に出くわしたことがあるが、今か今かと待てども石は地上から浮くことはなかった。石は勝手に動かず、壁も勝手に扉にはならないのが常である。

シミュラークル

〈シミュラークル(simulacre)〉は一応フランス語とされている。しかし、手元にある白水社の『ラルース仏和辞典』には載っていない。模倣、摸造、虚像のことだ。「コピー」と呼んでおく。

コピーは何かを真似たはずなので、「オリジナルなきコピー」はありえない。しかし、コピーのコピーのコピーのコピー……を繰り返しているうちに、元を辿れなくなるかもしれない。例の伝言ゲームの最終メッセンジャーの片言にオリジナルの微塵も残っていないのはよくあることだ。

美川憲一のマネをするコロッケ。そのコロッケのマネをする匿名x、そのxのマネをする匿名y……yがマネしているのはいったい誰か? 美川やコロッケでないような気がする。本物に似ているからコピーだとわかるのだ。コピーはリアリティに依存する。本物がさっぱりわからなければ、リアリティが失われ、コピーの価値は消滅する。


ぼくらが厚かましく知性と呼ぶ本質も、直接経験に根ざす類を除けば、シミュラークル知識群で構成されている。ぼくが知人から聞いた話をAに伝えたところ、後日ABにあたかもオリジナルのように話した。別の機会にぼくがBに同じ話をしたら、Bが「Aのネタをパクリましたね」とぼくに言った。コピーは一方通行のみならず、可逆したり循環したりする。

もはやオリジナルと照合できないほど劣化したコピーのコピーのコピーに成り下がるよりは、限りなく本物に近いコピーでありたいと思う。産地直送のシミュラークルである。

〈着想〉と題した抽象画を描いたことがある。何かからインスピレーションを得たはずだが、その何かが写真だったか文章の一節だったか覚えていない。シミュラークルのようで、シミュラークルとも断定できず、宙ぶらりんが気持悪い。と言うわけで、画像処理をしてみた。ぼくが描いた作品のコピーが誕生した。ほっとしている。

concepimento di un'idea 5724Katsushi Okano
Concepimento di un’idea (着想)
2005

Color pencils, crayon, pastel (part of image digitally processed)

単語と文章

『コミュニケーションを生きる!』と題して講演する機会があった。コミュニケーションは思いを伝える単なる手段ではなく、人間関係の潤滑油でもない……何のためのコミュニケーションか? という問いは成り立たない、何のための幸福かと問えないように……人は人間関係に生きコミュニケーションそのものを生きている……というような趣旨であった。コミュニケーションは「飲みニケーション」などとダジャレでごまかすような甘いものではない、ということだ。

少々生真面目で硬派に聞こえるかもしれないが、決して大上段から概念を振り回したわけではない。随所に笑いの仕掛けも埋め込んで、耳にやさしく響かせたつもりである。一昨日、この講演について受講された人たちからの所感がまとめて送られてきた。百枚くらいあったが、すべてに目を通した。鵜呑みにしてはいけないが、「おもしろかった、ためになった」という感想が多くあり、これを機に「コミュニケーションをよく実践していく」という決意も書かれていた。目立ったのが「語彙をもっと増やしたい」という願望である。

新明解国語辞典

講演中、演台に近い最前列に座る男性と目が合い、恐縮ながらいじらせてもらうことにした。「日本語が20万語くらい入っているICチップを脳内に組み込めたらいいですよね」と水を向けたら、彼は無理強いされたようにうなずいた。たしかに、それだけの語彙があればコミュニケーションの達人になれそうな気がする。しかし、単語量の多寡は話せたり書けたりすることとあまり関係がない。たとえ20万語の語彙があっても文章力、つまり話し書く力は担保されないのである。語彙の大きさよりも、単語の配列、ひいては文章論理のほうが決定的な意味を持つ。


とりあえず語彙を増やしたいという話から、ジョークを一つ思い出した。

ある物乞いの前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてあげようと言った。千載一遇のチャンスとばかりに、物乞いは考えに考えた。そして、懇願した。
「神様、実は、最近物乞いが増えて競争が激しくなっています。どうかあっしをこの町でたった一人の物乞いにしてくださいませ」

いわゆるオンリーワン戦略だが、かなり控えめな願いではある。定職を願ってもよかったし、生涯困らない金品を厚かましくねだってもよかった。競合が消える願いが叶っても、彼はこの先も物乞いであり続ける。

「コミュニケーションの能力のうち、一つだけ授けてあげよう」と神様に告げられて、「語彙を増やしたい」と願うのはこれに似ている。語彙を増やしても、今悩んでいるコミュニケーションは向上しないのである。むしろ、文章構成力こそを願うべきなのだ。

単語を膠着的に並べるかぎり、そうして出来上がる文章は論理を持たない。メッセージは断片的な点を寄せ集めたもの以上にはならない。単語を寄せ集めて文章を作るという発想から脱皮しよう。表現したい伝えたいメッセージが単語の配列を構造的に選択するのである。たとえば、自然や現象や思想に触れる。そこから意味や主張を取り出して法則のようなものを見い出そうとすれば、必然、主格と客体の関係で表現するしかない。つまり、文章という形の描写や命題としてメッセージを立ち上がらせなければならない。

コミュニケーション――言うまでもなく「双方向」の言語行動――に関わる者はこのような言語運用に長ける必要がある。単語を個別に覚えることに必死になるのなら、そのエネルギーを文章を読んだり書いたりすることに向けるべきだ。描写も命題も文章の形を取る。一つの文章は別の文章とつながり、思いを紡ぐ。ひとまずよく読みよく書くこと以外にこれといった妙案は浮かばない。

誤植と校正の思い出

本を買うスピードに読むスピードが追いつかない。つまり、未読本がどんどん増えていく。図書館じゃあるまいし、どうするつもりなのか!? と自分を詰問してもしかたがない。どうすればいいか分かっているからだ。新たに買わずに、所蔵本から未読のものを読めばいいだけの話だろう。ところが、ところてんの原理によく似ていて、すでに「そこにある本」を読むには新しく買い求める本で「天突き」しなければならないのである。

誤植読本

この一週間で五冊買い求め、そのうち一冊は申し訳程度に通読したが、残りはまだページすら捲っていない。しかし、一昨日の夜に天突き効果が出た。書棚から偶然取り出した一冊を寝床に持ち込んで読み始めたのである。奥付に2013610日発行とある。三年前に買った記憶などすでにないが、とにかくおもしろいので、今もコーヒーを飲みながら読み、読みながら文章を書いている。

誤植・校正には少なからぬ縁がある。長らく英文広報誌の執筆・編集に携わっていたので、文を書いた後には編集者に早変わりして事実関係のチェックや文字の校正作業をするのが常だった。日本人二人とネイティブライター二人に加えて発行人の企業の担当者も校正する。英語に精通していない印刷関係者も原稿と付き合わせてアルファベットの文字面もじづらをチェックする。以上の作業を数回繰り返す。これほどの「厳重体制」を敷いていても、入稿直前に誤植が見つかることがあったし、残念ながら、印刷され配布された後に見つかったこともある。


英文広報ではいくつかの基本的な約束事がある。たとえば、見出しはゴシックでもいいが、長文の本文には日本語の明朝に相当するセリフ付きの書体(ローマン体など)が望ましいというのがその一つ。文字の線の太さが均一になるゴシック――たとえばヘルベチカという書体――では、l(エル)とi(アイ)とj(ジェイ)、t(ティー)とf(エフ)などが判読しにくくなる。ゴシック体で長文を読まされると目も疲れる。つまり、校正の際にも見誤りが生じやすい。セリフや明朝の書体のほうが可読性が高く、パターン認識しやすいことがわかっている。

先の『誤植読本』には作家や編集者ら53人の誤植・校正にまつわる体験エッセイが収められている。諸々の失敗談にぼくの体験が重なる。某家電メーカーの海外販促部長には、まだ校正段階だと言うのに、誤植をいくつか指摘されて怒鳴られたことがあった。もっとも、聖書に誤植が見つかると校正者が処刑された国がかつてあったそうだから、怒鳴られるくらい何ということはない。万全を期して校正したはずなのに、雑誌や本が刷り上がった瞬間、誤植が見つかる。不思議なくらいその確率が高い。校正作業が何かの法則に支配されているとしか思えない。

ぼくが今書いているような千数百字の文中の一文字と、わずか十七音の俳句の一文字では校正の重みが違う。拙文で咎められないミスが俳句では命取りになる。俳人の富安風生の話に共感する。著者は言う、「(……)一句の意味が通らなくなってくれるとまだいい。いけないのは誤植が誤植で、別の意味に通るときである」。そうなのである。誤字・脱字によって意味が滅茶苦茶になってくれるほうが、書き手は下手な言い訳をせずに済む。ところが、別の意味が形成されてしまうと作意と異なる作品が出来上がってしまう。「あれは誤植でして……」と関係者や読者に説明するのは見苦しい。と、ここまで書いたら夜も10時を回った。まだまだ書き足らないがここで終わる。読み返していないし、もちろん校正もしていない。

両義性について

一つの語に一つの意味しかないのなら、辞書の説明から「㊀、2、➌」などの箇条書きを示す数字は消える。見出し語のすぐ下に説明文を載せれば事足りる。実際、そういう一義性の語はいくらでもある。しかし、複数の意味を持つ語も決して少なくない。

意味をいくつも備えていることばを〈多義語〉と呼ぶ。ことばに多義性があると、どの意味を示しているのか紛らわしくなる。多義語はおおむね曖昧語でもあるからだ。手元にある辞書では「やま」の見出しの中に五つの意味が解説されている。高いと一般的に形容する「あの山」だけが山ではない。

多義語のうち、二つの意味を持つ語で、どちらの意味を示しているのかわかりづらいものが〈両義語〉である。掛詞かけことばも両義語だが、たとえば「松」と言って「待つ」も意味させるように、同時に表と裏のダブルミーニングが成り立つ。教養があれば両義を汲み取れる。

両義語の意味がわかりづらいケースは、二つの意味が相反する場合だ。たとえば「適当」が、ものの状態が条件や目的によく合っていることなのか、辻褄合わせのおざなりな対応でいいということなのか……どっちの意味かわからなくなることがある。語をぽつんと置かれたり短い文中で使われたりすると、ちんぷんかんぷんである。

「霜降り」は多義語だ。①霜が降りること、②牛肉の網目のような白い脂肪、③熱湯をくぐらせたのちに冷水にさらした刺身、などを意味する。しかし、「霜降り肉」と言えば、白い脂のサシが入った牛肉のことである。ここまでは辞書の定義で明解になるが、字義の意味が明解になってもなお、霜降り肉という表現は受け手に相反する印象を抱かせる。つまり、「霜降り肉はとろけるようにうまい」と「霜降り肉は身体に毒」という両義性を感じさせてしまう。ソシュールの術語を使えば、〈記号表現シニフィアン〉は同じでも、人によって〈記号内容シニフィエ〉が変わってくるのである。


岸壁から転落に注意

こんなアイコンの場合を考えてみよう。赤い三角形は一般的に注意を促す時に用いられる。もしこのことを知らなければ、この三角形そのものが多義性を有することになる。次に絵に注目する。自動車はわかりやすい。三本の波状の線は海面を思わせる。海面だから、そこは海なのだろう。こう類推してみると、少し隠れている黒い方形は岸壁ではないかと察しがつく。絵の意味は「岸壁から海面に車が落下しているところ」であり、赤い三角形の意味を足せば、「運転中、岸壁から海への転落に注意」を示すアイコンらしきことがわかる。

ここで一つのことに気づかねばならない。本来アナログ動作であるものが、デジタル的に静止して示されているという点だ。一言のことばの両義性同様に、一枚の静止画も両義性を帯びる。動画は一連の流れを見せ、そこに「方向」が示される。しかし、一枚の写真や絵にはそれがなく、眺める者の解釈に委ねられる。向きというのはぼくたちの動作の中で意味理解を促すために重要な役割を果たしているのである。すべての常識の呪縛から解かれると、このアイコンは「海中から車が浮かび上がる」というSF世界の意味に変化するかもしれない。

多義であれ両義であれ、ことばの意味は文脈によって判断するしかない。アイコン一つ、ことば一語を他要素から切り離して提示すれば、解釈者の常識に期待するしかなくなる。そして、厄介なことに、常識というものは人それぞれなのである。すべての常識が先験的であり超越的であるとはかぎらない。ゆえに、文脈不足――意味の判断材料の不足――の状態では、両義性にともなう意思不通が頻繁に生じるのである。

コロケーション考

「コロケーション」はれっきとした英語表現である(“collocation”)。念のために書くが、新しいタイプのコロッケのことではない。コロッケ(croquette)はフランス語源で、コロケーションとはまったく別物だ。ただ、おもしろいことに、コロケーションにはコロッケの本質と似たところがある。ポテトやミンチ肉を包むパン粉の衣が絶妙にマッチして上質なコロッケができるように、コロケーションも語と語のこなれた結び付きによって文の味わいを豊かにしてくれる。

英語には慣用句が多い。慣用句は変化を許さないコロケーションだから、意味を共有しやすい。別の見方をすると、英語という言語は誰が喋っても書いても、あることを伝える時の表現が同じになりやすい。だから、十代、二十代で英語を独習していた頃は、ペーパーバックの小説を読んでは慣用的な表現を熱心にノートに取り、それにこなれた日本語を付ける練習をしたものだ。ネイティブスピーカーが慣用的に使っている表現を覚えるのが英語学習のコツである。勝手に英語を発明してはいけない。

日本語にも慣用表現はいくらでもある。一例として、「手」と結び付く動詞を調べてみたら、60近くもあった。語につく助詞(が、に、も、と、を)によって動詞が変わる。手が足りない、手が届く。手に汗を握る、手に掛ける。手も足も出ない。手と身になる。手を染める、手をこまねく、等々。なかなか使いこなせていないし、慣用的な連語ということに横着でもある。実感と来れば「実感が湧く」か「実感がこもる」なのだが、「実感がある」とか「実感する」と言ってけろりとしている。片鱗は「示す」ものだが、「片鱗がある」で済ます。もっと言えば、「ある」とか「する」とか「なる」を名詞と助詞の後にくっつければ、コロケーションのことなど意識しなくても、たいていのことは言い表わせてしまう。語感や妙味は今ひとつだが、コミュニケーションに支障は来さない。名詞と動詞の豊富な慣用的表現に恵まれながらも、日本語の融通性に甘えて安易な文を綴ってしまうのが常である。


英語のコロケーション辞典や活用辞典は二十代の頃から何冊も手垢で染めてきた。それに比べて母語である日本語の語の結び付きには意を注いでこなかった。日本語のコロケーション辞典を初めて手にしたのはほんの十数年前である。オフィスでは2006年発行の『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』を置いていて、たまに読んだり参照したりしている。どんな時に辞典を活用するかと言うと、語をフォローする動詞がしっくりこない時だ。文才に長けた書き手は動詞上手である。本来動詞が文章のトリを務めることが多い日本語なのに、「ある」や「する」や「なる」ばかりで終わっていてはつまらない。

コロケーションは「名詞+助詞+動詞」の慣用的な連語・結合である。定番になっているから、語呂がいい。あるいは、使い勝手と使い心地がよく、快く響くから生き残ってきたとも言える。快く響けば、文章が品格を漂わせる。「(品格のある日本語とは)しかるべきことばがしかるべき場所でしかるべき用法に従って使われている日本語」(別宮貞徳)という言は、適語が適所に配置されていることにほかならない。たとえば、「後釜にする」と書いた。しかし、何か物足りない。これは語彙の少なさのせいではなく、コロケーションに精通していないのが原因である。辞書を引けばいい。後釜に続くこなれた動詞は「据える」か「座る」であることがわかる。

コロケーションの構造

「流れ」という語のコロケーション構造を図示してみた。助詞を「に」と「を」に限れば、ぴったりくる動詞はおおむね三つ。もちろん、「流れに沿う」もありだし「流れが向いてきた」もありだろう。創意工夫の余地がないわけではない。これぞという新しいコロケーションが人口に膾炙すれば慣用化されることになる。ことばはそのようにして生き残り定番となってきた。但し、先に書いたように、語呂の良さとこなれは重要な条件である。

コロケーションなどという外来語を使って説明したわけではないが、丸谷才一は『文章読本』の中で次のように説いた。

文章の秘訣は孤立した語の選び方にあるのではなく(……)、語と語の関係にあると答へればそれですむ。言葉と言葉との組合せ方が趣味がよく、気品が高ければ、(……)品格の高い、優れた文章が出来るし、逆に、組合せ方の趣味が悪く、品がなければ、高尚で上品な言葉ばかり、雅語づくめで書いたとて、あまりぞっとしない文章になる。

言語の主役は動詞だと思っている。日本語であれ外国語であれ、動詞が機能しなければ文は体を成さない。人の語学力は動詞にありと言っても過言ではない。日記や小説では動詞に脈を打たせることはできるが、この拙文のように意見を開示したり説明を試みようとすれば動詞を生かすのに難儀する。丸谷才一の言うように、語と語の組み合わせ――とりわけ名詞と動詞の組み合わせ――が文章の秘訣であることを頭では重々承知しているが、ここまで書いてきた拙文を読み返して文末の仕上げに工夫の余地を感じる。追々推敲を重ねることにしよう。