俳句や短歌はもちろんのこと、形式をさらに簡素にして文字数を縮減してもなお、そのわずか一行に一冊の本が太刀打ちできないことがある。ことばの無駄が削ぎ落とされた型は質朴ながらこなれていて、ケレン味がない。あらためてレオナルド・ダ・ヴィンチの言、「シンプリシティは究極の洗練」を噛みしめる。五七五も五七五七七も、たとえば「五九三六七」などよりはずいぶんシンプルで垢抜けしている。あたかも「ことばのコンポジション」が定型の中に内蔵されているかのようだ。
先日、キャッチコピーの話をする機会があったので、コピーライターの眞木準の『一語一絵』を取り出して読み直した。小説家の島田雅彦が帯に一文を書いている。
小説家は膨大な言葉を蕩尽してもなお、舌足らずなのに、優れたコピーライターが繰り出す言葉の剣はなんと切れ味がよいのだろう。
ことばの剣の切れ味が必ずしも感動を呼び起こすとは思わない。日常茶飯事の事実や現象が切れ味鋭く表現されていることに驚嘆するのではなく、むしろ物や事の見方・切り取り方に脱帽するのである。ことばを選りすぐってフィルターで濾すのはその後だ。こうして濾過され抽出されて書かれた一文は、もはや事物の表現と言うよりも思想の拠り所を見出しにした感が強い。読書万巻を破った後に出合うそんな一文が、万巻の読後感を空しくしてしまうことがある。
「ことばの剣」と聞いて、英語の諺、“The pen is mightier than the sword.”を連想する。ふつう「ペンは剣よりも強し」と訳される。かねがね不思議に思っていたのは、”sword“を「剣」と表わしているのに、”pen“のほうは原音と同じ「ペン」であるという点。ペンがすでにれっきとした日本語だからなのか。剣に見合うように訳すなら「筆」ではないか。「筆は剣よりも強し」。いや、筆では毛筆を連想してしまいそうだ。それなら「洋筆」でどうか。「洋筆は剣よりも強し」。これで表現のバランスは取れそうだが、こなれていると言えそうにない。
ペンと剣にしたのは、おそらく韻という表現上の工夫ゆえではないかと想像する。ペンと剣なら【p-en】と【k-en】と脚韻を踏ませることができる。もう一つ別の訳がある。「文は武に勝る」がそれ。ここでも韻が踏まれている。文と武で【bu-n】と【bu】という頭韻ができている。
自宅の机の筆立てに入っているつけペンと剣をXの形にクロスさせてみた。言うまでもなく、剣はペーパーナイフである。諺は「ペンは剣よりも強し」だが、剣のほうが上に置かれてペンを制している格好になった。何のことはない、最初は剣の上につけペンを乗せたのだが、転がって安定しなかったというだけの話。もう一度試せば乗ったに違いない。
ところで、具体的なペンと剣をこうして配置させた構図に、もう一つの訳である「文は武に勝る」という説明を加えづらい。抽象化して概念化した表現だからである。抽象や概念は、案外簡素な形式には似合わないのかもしれない。もちろんぼくの個人的な感覚にすぎないが、俳句にしても短歌にしても、文や武よりもペンや剣というわかりやすい表現が使われているほうが洗練されているように思うのである。