以前、コーヒーに関するアンケートの中に「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という質問があった。これはよくない質問の代表例なので、論理思考の講義で取り上げたことがある。
「よく」というのが曲者の曖昧語だ。一日10杯なら「よく飲む」ということに誰も異論はないだろう。では、3、4杯ならどうか。よく飲むと言えそうだし、いや、その程度ならよく飲むレベルではないとも言えそうだ。まったく飲まないか、飲んでも1、2杯の人たちに囲まれていれば、3、4杯はよく飲む派に属する。他方、周囲も自分と同程度に飲んでいるなら、よく飲むと回答しないかもしれない。
調査というものに疎いので、集まったデータの生かし方がぼくにはよくわからない。アンケートを実施した当事者にはどんな人がどれだけコーヒーを飲んでいるのかというデータは役に立つのだろう。それなら、もう少し上手に問いを立てるべきだった。「よく飲みますか?」ではなくて、「一日に何杯飲みますか?」のほうがよかった。これでもなお、集まるデータの生かし方のイメージは依然湧かないが、少なくとも答える側は考え込まずに即答できる。
しっかり目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚かな者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。
『バール、コーヒー、イタリア人』(島村菜津)から引用した。哲学者ヴォルテール自身が綴った文章だから間違いはないのだろう。一日40杯は尋常ではない。と言うか、強度のコーヒー中毒である。ある本にはヴォルテールの一日の最高記録は72杯と書かれていた。呆れ果てるしかない。ヴォルテールの尺度に照らしてみれば、この世の中にコーヒーをよく飲む人などは存在しないことになる。
ベートーベンは日に5杯程度らしかったが、一つのこだわりがあった。一杯のコーヒーに使う豆を60粒と決めていたのである。この数が多いのか少ないのか、ぼくにはわからない。なにしろ挽く前に豆を数えたことなどないから。実は、これで出来上がりはやや薄めになるそうである。それにしても、飲むたびに60粒をきちんと数えたベートーベンに愚直なマニアの姿が重なる。コーヒーの愛好家はおおむね精度にうるさい。大げさに言えば、煎る時間や淹れる時間には秒単位で、湯温には1℃単位でこだわるのだ。
さて、ぼく自身は何杯飲んでいるのだろうか。あらためて振り返ってみた。多い日で5杯。朝の1杯だけという日もある。平均すると3杯というところか。目新しいカフェに足を運んでコーヒーの話をたまに書いたりもするけれど、豆をセレクトし焙煎する側に立てる身ではなく、あくまでも自前で挽いては淹れて飲むアマチュアである。もちろん、もっとおいしく飲むヒントはつねに求めているし、同じ飲むなら少し知識があるほうがいいと思っている。しかし、コーヒーにうるさい知人の凝りようを見ていると、ぼくなどはほんの少し味がわかる消費者に過ぎない。
日課のように飲むコーヒーもあれば、なにげなく飲むコーヒーもある。その気はなかったが、縁あって飲むコーヒーもある。アンケートを取る人やヴォルテールには申し訳ないが、何杯飲むか、何杯飲んだかなどはどうでもいい。何杯も飲むことを前提にした飲み方ではなく、できれば「一杯一会」とでも言うべき至福を喫してみたいと思う。同じ種類のコーヒーだけを飲み続けて香味の深遠に到るもよし、何種類かの豆を蓄えておいて飲み比べするもよし。後日に思い出せるような印象深い一杯をどう飲むかに意味を見出したい。
ところで、ぼくが思い出す一杯のコーヒーのほとんどは、ベートーベンの好んだのとは違って、深くて苦くて濃いものばかり。そういうのがコーヒーなんだといつかどこかで刷り込まれたに違いない。