言葉を狩る人たち

毒舌、ツッコミ、からかいも含めて、ことばの揚げ足を取ったり取られたりする場面は日常茶飯事よく現れる。関係の親密度次第では、苦笑で済むはずが嫌悪なムードになることもある。ことばは、だいたい伝わればいいではないかと大雑把な使われ方もするが、他方、神経が磨り減るほど表現のデリカシーに気遣わねばならないこともある。ユーモアやエスプリの味付けに自信がないのなら、危ない橋は渡らないほうがいい。

言葉狩り

講義で「彼の奥さんは……」と言った。悪気のあるはずもない。単なる例文の一つだったから。講義後に主催者側のオブザーバーから注意を受けた。「奥さんという表現はよろしくない」と言うのである。「何と言えばよかったのですか?」と聞けば、「妻です」。「はい、わかりました」と世渡り上手に振る舞っておけばよかったが、そうはいかない。「彼の妻ですか……ぼくの語感ではありえないですね」と、納得がいかないことを伝えた。

この組織での講義はこれが最初で最後となった。そのオブザーバーは内容や文脈には一切関心を示さない、言葉狩り専任の担当者だった。

「奥さん」に不快感を示す人などいないと断言する気はない。しかし、そこに居合わせるすべての人たちの感情をいちいち斟酌していたら何も言えないではないか。「奥さん」という表現は避けるほうがいいと書いてある本を知っているが、これが差別語であるはずもない。そう判断して例文として使ったのである。言葉狩り担当は、組織固有の表現コードによって機械的に単語だけをチェックする。彼らが話者の「意」を汲んだり文脈を考慮したりすることはない。


作家の里見弴に『文章の話』という著書がある。言論の自由がきつく制限されていた戦時中に発行された本だ。トルストイに言及したくだりがある。

トルストイは、「悪行はゆるをべし、されど悪心は悔ゆるを得べからじ」と言っています。(……)ああ、あんなことを言ってしまった、こんなことをしてしまった、という風に悔むのは、おもに言行で、それの基となっている心持の方は、えてして省られないがちです。

舌を滑らせたのは「言」。里見はその言を「しっぽ」、言の元を「頭」に見立てる。しっぽだけ引っ張ったり叩いたりしてもどうしようもないことで、仮に悪しきしっぽだとしても、そのしっぽの動きを指令した頭のほうを見ての是非であるべきだ。悪意か、未必の故意か、あるいは必要あっての意図か……どのような頭がしっぽを動かしたのかを感知しなければならない。判定者に感知する器量が備わっていなければ、しっぽの動きはすべて規制される。悪意ある思想が「彼の奥さん」とぼくに言わしめたと判断されたのなら理不尽である。思想など動いていない。単純な習慣的なものの言い方に過ぎない。繰り返すが、そもそも「彼の奥さん」に悪しきものが見当たらない。

経験を積み重ねていろいろと考えてきたことを――たとえそれが取るに足らないものだとしても――「思想」と呼ぶのなら、思想はことばによって組み立てられている。ことばは思想にして、思想はことばである。だから、ことばが品性を欠き、悪意に満ち、腹いせのように発せられていれば、思想もそんな程度のものだと考えて間違いない。きれいごとだけ上手に並べるずるい頭は逃げ上手にして隠れ上手だから、しっぽではなく頭のほうをよく見ておくことだ。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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