都会、黄昏、孤独……

人と人が昵懇じっこんな間柄になると、親しき仲の礼儀が軽んじられる場合がある。これが高じると土足の領域侵犯が起こりかねない。人の街への馴化もこれとよく似た様相を呈することがある。

暮らしている街にすっかり馴染めば、見るもの触れるもの感じるものすべてが意識の底に沈み、もはやその街で生活することに新鮮の妙味を覚えず五感がなまくらになってしまう。視覚は行き先だけを捉え、聴覚は雑音を無反応に聞き流す。時間に追われて拘束されるその他の諸感覚も、最初に住み始めた頃に響いていた感受性をすっかり忘れてしまったかのようだ。

土着性が強かったかつての街や村ではありえなかった分散と孤立が生じ、心象風景からは街並みや現実の暮らしが消え、孤独や憂鬱が常態になる。一人で生きることが日常になれば、時折り集団と交わる場面が「ハレ」になる。ハレの場で人は日常のリズムとは異なる緊張を覚え、体験することや交わすことばに戸惑う。ある体系への慣れは別の体系への不器用にほかならない。これが現代の都会で生きる人の縮図である。不安が募れば、望みもしない群れに溶け込み匿名性によってつらさをしのぐ。


電信柱のある街風景
大阪市中央区谷町五丁目交差点から見る街並みと夕暮れ

一人になってはいけないのだろう。一人になってたとえば黄昏に遭遇すると、孤独の思いが恣意的に巡り、時には滅裂し、時には邪念となり妄想を培養する。月並みな雑踏も電信柱も心象の主役になるかもしれないのに、孤独に佇む者に対しては黄昏すら不自然な作り笑いをして人から落ち着きを奪い、好ましくない方のざわめきばかりを惹き起こす。もっとも、孤立の一人と自立の一人とは違う。孤立の心理は黄昏に襲われて孤独を増幅させる。自立の精神にとっては対象はつねに意味を持つ。ゆえに、夕景映える黄昏は美しい。

ボードレールの『巴里の憂鬱』の中の「黄昏」の書き出しを読んでみよう。

 日が沈む。一日の労苦の疲れた憐れな魂の裡に、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬほのかな色に染めなされる。
 かかる折しも、かの山の嶺から、薄暮の透明な霞を通して、私の家の露台まで、高まってくる潮のような、吹き募る嵐のような、ほど遠い距離がもの悲しい諧調に作りかえる、雑多な叫びの入りまじった、大きなうなりが聞えてくる。

まさかと思うだろうが、黄昏の苦手な都会人が大勢いるのである。彼らは憂鬱に、そして孤独に苛まれる。大都会は人から五感を抜き取るのか。自然の風景を前にしなければ五感は小躍りしないのか。

回りに誰かがいなくても、一人になってはいけないのだろう。見飽きた光景を、聞き飽きた雑音を日々更新しなければならないのだろう。路地裏、街角、公園、花壇、広場、交差点、横断歩道、看板、車、国道、人混み、街路樹、橋、バス停、歩道橋、喫茶店、旧町家、雑居ビル、小学校、電信柱、信号、大衆食堂、高層ビル、ガソリンスタンド、階段……。もう知り尽くしたと豪語できるほどにはたぶん知らない。孤独が都会の特産物であることを否まないが、せめて黄昏の憂鬱に打ち克つまなざしだけでも保ちたいものである。

先近後遠

「先近後遠」などという四字熟語はない。造語である。何と読もうか。訓読すれば「近きを先に遠きを後に」だが、一応「せんきんこうえん」としておく。

数年前、ある大学院の准教授が“Near first, far second”という表現を使った。「直近に迫っていることや身の回りのことを先に済ませ、時間的場所的に遠いものは後に回す」という優先順位の話だった。念のためにいろんな辞書や書物で調べてみたが、ついにそんな英語の成句は見当たらなかった。調べようが足りなかったのかもしれないが、その先生の造語だと推測する。別に和製英語だからと言って問題があるわけではない。意図するところは十分にわかる。英語が造語なら、ついでに日本語も造語でいいだろうと思った次第である。

様々な遠近がある。時間の遠近なら、遠い将来と現在(または近い将来)、場所の遠近なら遠方と自分のいる所(あるいは周辺)、間柄の遠近なら疎遠と親密である。いずれでも、まずはよりよく見えるもの、手を伸ばせば届きそうなことを優先せよというのが先近後遠の考え方だ。なるほど、これを習慣化すれば先送りしなくなるし、仕事もテキパキと片付くに違いない。しかし、必ずしもいいことづくめでもない。中長期的展望や構想が後回しになりかねないからだ。仕事は日々のルーチンが中心となり、緊急の業務が優先される。グズ防止の処方箋ではあるが、目先の戦術ばかりで戦略がお留守になる危うさもある。

腹が減ったら目の前の食事にありつこうとする。当たり前だが、空腹時に次の誕生日の晩餐メニューにまで思いを馳せない。直近の物事に目を凝らし、ひとまず差し迫った事態に反応するのは、人も動物だからだ。ちゃんと先近後遠がDNAに仕込まれているのである。動物は目の前のエサに反応し、近くにいる天敵に怯え、先のことなど考えずに交配する。種の保存を強く意識して行為しているという説は滑稽である。たとえば「巣作り→抱卵→生育」などと書くと、そこに時系列の流れを感じ取ってしまうが、そんなものは概念上の理屈に支配されているからだ。どの過程もその時その場の行為であって、深慮遠謀の目的が意識されているはずもない。


人が動物と異なるのは、手段と目的の分別をしている点においてだ。目的を達成するために手段があり、また、諸々の手段は目的につながるものであると考えている。そして、しばしば手段と目的を取り違えたり目的よりも手段が気になったりするのは、時間的に手段のほうが目的よりもつねに手前にあるからだ。こうして、だいたいにおいて目的よりも手段が優先されることになる。本来は目的あっての手段だったはずなのに、本末転倒の誤りをおかしてしまう。小事と大事の関係も同様で、小事ほど具体的に見え、大事ほど輪郭がぼやけている。だから小さな仕事が大きな仕事につねに優先される。理不尽にして小さなクレームなのに緊急に対応してしまうなどはその最たるものである。

呼出と流す

ところで、二つの事柄に遠近の差がないとどうなるか。たとえば、よく使うものは先近、めったに使わないものが後遠のはずだが、両者が空間的に同じように扱われ近接している場合である。先日泊まりで検査入院した折りにこれを経験した。個室のトイレの〔流す〕と〔呼出〕ボタンがそれである。

病の身でないから、よほどのことがないかぎり〔呼出〕に用はない。下剤を服用し水分を十分に補給しているから、出番があるのは〔流す〕のほうだ。にもかかわらず、二回に一回はつい〔呼出〕に手が伸びてボタンを押しかけた。幸い一度も誤作動させずに済んだが、こういう状況に置かれると、ぼくたちは遠近や先後に、ましてや手段や目的に意を払うどころではなくなってしまうのである。

と、ここまで考えてきて、ふと気づく。頭の中でやれ手段だ目的だ、これが先であれが後、これが近であれが遠だなどと思い巡らしてみても、結局のところ、今何が重要なのかという判断は個人に委ねられる。ちょうど病院やトイレ設計者が自らの思惑で〔流す〕と〔呼出〕を同等に扱って近接させたように、ぼくたちも日々の仕事において勝手な思い込みで先近後遠を判断しがちである。ならば、いっそのこと先の先まで考えずに、その時その場で環境の変化に対応すべく日々を営めばいいのではないか。遠望を捨てる代償は小さくないが、とりあえず目先の小さなことをこつこつとこなしていくほうがうまく行くこともある。少なくともグズな人には有力な処方箋と言えるかもしれない。

アートナイフと消しゴム

父親は公務員の傍ら書道に没頭し、やがて五十半ばで早期退職して書家一筋の身となった。器用な人なので著名な師範に師事して篆刻も手掛けた。小中学校時代に手習い経験があったぼくに「やってみたらどうだ?」と道具と石を手渡されかけたが、受け取らなかった。もう四半世紀も前の話である。

数年前、工場で規格外となった消しゴムを大量にいただいた。何十年かけても消し尽くせないほどの消しゴムの山を見て、何か別の用途がないものかと考えた。あるはずもない。ハンコにするくらいしか思いつかなかった。そして、彫ってみるかと思い立った。ゴムなら何とかなるだろうと甘い見通しを立て、オルファのプロ用アートナイフを買ってきたのである。

デザインした反転文字を消しゴムの上にフェルトペンで直接かたどり、左手の親指と人差し指で消しゴムを押さえアートナイフ1本だけで印刻する。文字部分を彫る「陰刻」はさほど難しくないが、文字を残す「陽刻」には神経を遣う。なにしろ素材がやわらかいゴムであるから、アートナイフを1ミリでも滑らせたらおしまい。瞬間接着剤でも修正はできない。ある時期腱鞘炎の一歩手前になるまで560個ほど彫っただろうか。ハンコに付いた印肉をティッシュで拭き取らずにそのままプラスチックの容器にポンと収めていたので、ゴムが容器にぴったりとくっついているのに気付いた。それに、ゴムだけに劣化も早い。と言うわけで、印影をスキャンしてデジタル保存したのである。


篆刻用額縁

デジタル化ついでにネットから額縁をダウンロードして16作品を並べてみた。こうして作品をあらためて眺めていると、彫った文字の意味にその時々の思いが反映され、また、一つの線か流れのようなものがあることに気づく。

【一列目左から】

大局観(たいきょくかん)
物事の全体の成り行きを見通し判断すること。十代の頃、将棋を通じてこのことばを知った。

心如水(しんはみずのごとし)
本質を変えずに水は方円の器に随う。心も本物になれば融通が生まれる。なお、「こころ」と読むと情感過多になるので、ここは真に通じる「しん」と音読みしたい。

虚心(きょしん)
虚心坦懐でおなじみ。わだかまりや先入観のないさまだが、心如水に通じる。
三昧(ざんまい)
我を忘れて一事に専念する境地。心が安定していないと難しい。カラオケ三昧などと言うが、ああいうのは誤用である。

【二列目左から】

自在(じざい)
束縛も支障もなく思いのまま振る舞うさま。自由自在などは、言うは易し行うは難しの域である。
(らく)
一文字なので一応「らく」と読むが、手を抜いたり苦を惜しむという意味ではなく、「たの(しむ)」という作意である。
(ゆ)
「あそ(ぶ)」でもなく「ゆう」でもなく、「ゆ」と読ませる。ゆとりの「ゆ」。余裕綽々に興じるさまである。ぼくの主宰するユーモアの会は〈知遊亭ちゆてい〉と言う。
傾聴(けいちょう)
実は、雄弁よりもたいせつな言語行為だと思っている。語られる言葉やメッセージを身構えて理解するのは、語ることよりもハードルが高い。

【三列目左から】

眼力(がんりき)
「めぢから」ではない。また、視力の良さでもない。物事の是非や善悪を見抜く力のことである。

春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)
丸印にして時計に見立て右回りに読む。一人の人生からすればいつかは終わるが、終わるまでは一応巡ることになっている。

人間万事塞翁馬(じんかんばんじさいおうがうま)
計り知れないのが人間の運命。しかし、ここは「にんげん」のことではなく、世間のことである。ゆえに、「じんかん」と読む。

長楽(ちょうらく)
篆刻で人気の二文字。文字通り、長きにわたって楽しむことだが、大袈裟に人生のことを形容するのではなく、飽きずに三昧を楽しむという意味でぼくは使っている。

【四列目左から】

(がん)
何かを得ようとしたら欲が出て願いが叶わない。願っている分にはリスクはない。

知情意創(ちじょういそう)
ギリシア哲学のロゴス・パトス・エトスに近いのが知情意。しかし、漱石の『草枕』の冒頭にもあるように、智に働けば角が立つし、情に棹差せば流されるし、意地を通せば窮屈になる。知情意は「創」につながってやっと完結する。

(えん)
今の繋がりや関わりには不思議な因がある。アナログの縁のみならず、ソーシャルネットワーク上の情報や写真も縁となった。かと言って、目くじらを立てることはない。それが当世というものだから。

妙言無古今(みょうげんにここんなし)
よいことばはいつの時代も名言であり続ける。そんな普遍的価値を湛えることばは潜在しているが、見たり聞いたりすることはめっきり少なくなった。

必読書考

一般論として「誰もが読んでおくほうがいい本」はあるかもしれない。しかし、誰にとっても「必ず読まねばならない本」が存在するとは思えない。もしあるとすれば、特定のテーマを究めようとする研究分野においてだろう。つまり、そのテーマについて必要最小限知らねばならないことがあり、それを知らなければそのテーマについて意見が交わせないなどの不都合が生じる場合である。

何らかの目的があるから読む必要が生じる。たとえば、テストに出題されるかもしれないから、そして、テストに受かりたいから、本やテキストを読むのである。なるほど、読んだ結果として具体的な成果が生まれるなら必読本と言えるだろう。では、よく耳にする「万人必読の名著」や「青少年時代に読んでおくべき世界文学名作選」などは、いったい何のために読むのか。良き大人になるため? 教養を身につけるため? 人生を充実したものにするため? いちいちそんなことを考えて読んでいるはずがない。何を読んだらいいかわからないから、必読や推薦に寄り掛かっているのが実情ではないか。

501must read books

“501 MUST-READ BOOKS”という図書推薦の本がある。超特価だったのでロサンゼルス郊外のモール内の書店で買った。分厚い500ページ超の解説書である。さしずめ『必読書501冊』というところだ。文学ジャンルは、不思議の国のアリス、ピノキオ、赤毛のアン、千夜一夜物語、ロビンソン・クルーソー、罪と罰、戦争と平和、赤と黒、審判……など多彩に網羅されている。シェークスピアの作品は一冊も挙がっていないが、まあいいとしよう。

しかし、他のジャンル――歴史、伝記、現代文学、SF・ミステリー、紀行――の大半は初耳の本で、ぼくから見ればかなり偏っている。もっともアメリカ人によるアメリカ人向けの英語の必読書紹介だからやむをえないか。思想や哲学関係は編集方針として除外されたのかもしれないが、「世界にありえないものとしてアメリカの哲学」がジョークのネタになるように、その分野は上位501には入らなかった可能性もある。


必読書とは、つまるところ、学識経験者や職業的読書家や教育者らが自らの読書遍歴で印象に残っている本、あるいは、彼ら自身が先人の推薦するところに従って読み感銘を受けた本などである。そして、他の人たちも読むに値する作品であると彼らが判断したのである。必読書は推薦者が決めるものであるから、本来万人が差し障りなく愛読できる書でなくてもいいはずだ。にもかかわらず、最終的にはほぼロングセラーやベストセラーが選ばれ、癖のありそうなものは除外される。一般的に必読とされるのは、将来の人生に教訓的であり生きることのヒントになりそうな本に落ち着く。

もし必読書を参考にしたいのなら、読者は誰が必読書を推薦しているのかを気にすべきである。そして、推薦している知識人を誰が指名して選任しているかにも気を配るべきである。さらに、指名し選任している人を誰が決めたのか……という具合に気にしていくとキリがないことにも気づくだろう。そう、必読書決定に至る背景を遡ると無限連鎖に陥るのだ。

こうして考えてみると、人それぞれに読みたいと直感する本があるように、人それぞれに必要に応じて読まざるをえない必読書があり、人それぞれに他人に紹介したい推薦書があることがわかる。万人が読みたいと思う本などが存在しないように、万人が読まねばならない必読書や推薦書を最大公約数化できるはずがないのである。必読書に振り回されて読書ノイローゼを患うのは馬鹿げている。どこかの偉い人が薦める本などはしばし棚上げして、読みたいと思う本を読めばいい。そして、権威に頼らずにそういう本を見つけるには、足繁く書店や図書館に通って自ら「読書」なるものを結ぶしかないのである。

知の統合と構想力

以前『断片への偏見』と題して書いたことがあるように、ぼくは必ずしも断片否定論者ではない。断片は創作と無縁ではないし、より大きな発想の起点になることさえある。さらには、日々の大半の行動は断片的に繰り広げられているのが現実だ。断片は決して軽視できない。この思いと相反しないという意味で、しかし、断片を断片のまま放置しておくことは知にとって機会損失を招くことになると思う。なぜなら、知は統合してはじめて断片の総和以上の結果をもたらすからである。

かと言って、知の統合のためにわざわざ断片を仕入れるには及ばないし、どんな統合知を構築しようかと予定を立てる必要もない。持ち合わせている断片を見直して、断片どうしをつなぎ、その活用の道を工夫するだけで、これまでにないまずまずの作業ができたりするものだ。レヴィ=ストロースのことばを借りれば〈ブリコラージュ〉のための手持ちの断片の活用である。「間に合わせの仕事」や「器用仕事」のことである。

知圏

スティーブ・ジョブズの“Connecting the dots”(点をつなぐ)にヒントを得て、数年前に〈知圏〉ということばを造語した。これは断片を垂直的に積み重ねる「知層」に対峙する概念である。知層は断片が統合された状態ではなく、硬直的に足し算されたもので、組み合わせの融通がほとんどきかない。この種の知のありようは、教育過程で形成した結果を象徴している。断片という〈点〉はつながっていない。層を成しているかのようだが、点は有機的に結ばれなどしていない。これに対して、知圏は水平的な広がりを持つ。脳のシナプス回路のように、異種の知の断片が融通無碍に統合されやすくスタンバイしている状態である。


ぼくたちは大人の世界で生きる上で必要な能力を一気に学ぶことができないので、全体を細分化するという方便に従ってきた。すなわち、国語だの算数だの理科だの社会だのと断片化して勉強してきた。大学というのはその中から一つの専門分野を深めると同時に、幅広く教養を身につけることを目的としたはずである。そんなふうにうまく学んできたとしよう。さて、ここで学舎から世界へと出る。その世界で期待されるのは、超専門性で深化を目指す一部の人たちを除けば、細分化して学んできた断片の統合である。すなわち、点と点をつないで自分独自の知のネットワークを創造や問題解決に生かすことである。

にもかかわらず、大多数の社会人は旧態依然として学校時代と変わらぬ、没個性的な断片の足し算のような学習を続けている。それは、点を結ぶという知圏発想からほど遠いと言わざるをえない。学校時代は十数年でよかった。その三倍にもなろうかという年月を性懲りもなく無限インプットに費やし、断片の在庫は膨らむ一方で、いつまでたっても臨機応変のアウトプットへと結実しない。教育機会の提供者は知を切り売りするほうが楽であり、学ぶ側は分断された知のほうが学びやすい。こうして実社会においても、知の統合に知らん顔して、教える側と学ぶ側が目先の断片ノウハウを弄ぶ。双方にとって都合のよいもたれ合い関係なのである。

よく似たものを一括りにし、異なるものをそのグループから排除するという、断片の分類作業にぼくたちは毒されてしまったかのようである。分けたのはいいが、統合することを二の次にしてしまった。ここで、1718世紀に生きたイタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコの構想力の論理に耳を傾けたい(『命題コレクション』)。

遠く隔たった観念を結合する能力としての構想力こそは、矛盾した概念を弁証法的に統合することを可能ならしめる。

えらく難しそうだが、知の統合のエッセンスがここに詰まっている。混迷する世界と時代にあって、断片や分類という作業からは新しい課題が生まれるはずはなく、問題も解決する見通しは立たないのである。一見して相互に無関係な点と点を結ぶ構想力が希求されている。そして、構想力こそが、先入観で無関係だと決めつけてその場を立ち去ろうとする足を踏み止めるのである。

明日はあるのか?

「朝が来ない夜はない」だったか「明けない夜はない」だったか忘れたが、若い頃にずっとそう言っていた知人男性がいる。熟年を迎えてさすがに言わなくなったが、明日がやって来ることを前提にした今日の生き方は相変わらずで、身体の隅々にまで楽観が滲み込んでいるかのようだ。これまで生きてきた……よろしい。今日生きている……よろしい。しかし、「明日も生きる」は現実ではない。だから、ぼくたちは「だろう」という未来形で望みをつないでいる。

先月アリストテレス哲学について書いたが、幸福や善について語ると、なんと悠長なとつぶやかれる。幸福も善もプラトンのイデアと同類で、ともすれば明日に結びついてしまう。「明日、幸せに生きるだろう」とか「明日、善を尽くすだろう」などは虚言を弄するに等しい。そうではなく、今日生きている中で幸福と善を実感することに謙虚でなければならない。

ぼくたちはみんな今夜寝て翌朝に目を覚ますつもりでいる。今を生きる、ゆえに明日以降に命をつなぐことを”サバイバル”と呼ぶ。サバイバルは将来に及ぶ話だが、とりあえず「今を生きる」のが先である。「明日などない」と言えば場を興ざめさせるし、いつの時代も評判のよくない意見だが、必ずしも冷淡な発言でもない。なぜなら、明日に希望をつなぐ時点で往々にして今日がおざなりになっているからだ。幸福や善は現在進行形として体感に努めるしかないのである。


明日があるさ

青島幸男作詞で一世を風靡し、今も集団でよく歌われるあの歌を思い出す。

♪ 明日がある 明日がある 明日があるさ

残念な今日の自分を励ますのがこのフレーズだ。残念な自分とは、「今日も待ちぼうけ」して「だまって見てるボク」で、「今日はもうやめた」と言い「(電話に)出るまで待てぬボク」、そして「とうとう言えぬボク」が「わかってくれるだろう」と甘える……そんな自分の逃げ場として、「♪ 明日がある……」が6番まで歌い上げられるのである。

モラトリアムもはなはだしい。ただ明日があると信じるだけであって、そこにはダメだった今日の反省も改善策もないのである。あの知人男性一人の話ではない。今日とつながっている明日ならともかく、今日と断絶させておきながら、明日に淡い期待を寄せる人々や集団がおびただしい。懲りない彼らは明日になったら同じことを言うのだ、「♪ 明日がある 明日がある 明日があるさ」と。

「明日があるさ」で思い浮かぶのが「やればできる」である。為末大がつぶやいて賛否両論渦巻いて話題になった。わが国では努力や継続や頑張りの悪口を言うと少なからぬバッシングを受けるのだ。今日の善を実践していない偽善的道徳論者ほどうるさく文句を言う。

冷静に考えてみればわかる。「やればできる」というのは一つの定言命題ではなく、二つの命題がくっついた仮言命題なのである。「もしきみがやれば(P)、それが可能になる(Q)」と言っているのだから、仮定条件のPに軸足がある。勝手にQが実現することはなく、QはつねにPに寄り掛かっている。要するに、「やれば」の「やる」が、誰でもやれるわけではないのだ。才能や経験もさることながら、今日きちんと予定したことをやらねばならないのである。「やればできる」と「明日があるさ」は発想上似通っており、一方が好きな者はほぼ他方も好む傾向がある。

「任せる」の多義性

角川の『基礎日本語辞典』に「任せる」という見出し語が収録されていない。これはかなり重要な動詞なのに。意外だった。実は、一般の辞書では解き明かしてくれないこと――信頼、自由、放置、諦念などのニュアンスの重なり――を調べてみたかったのである。

「ここまではぼくがやった。後はきみに任せる」という時は、きみへの信頼ときみの裁量を含む。「想像にお任せします」なら、自由と放任、すなわち、勝手気ままにお好きなように、である。「成り行きに任せる」なら放置と諦念、「神の思し召しに任せる」なら信頼と諦念。「あいつは何事も他人任せ」は無責任と甘えという具合。

どこかの牛丼店じゃないが、自分がやってみるよりも「うまい、安い、早い」なら適材に任せる。自分ができないことを、見事にやってのける人がいれば、その人の才能やエネルギーに期待すればいい。但し、自分がやってみるほうが「うまい、安い、早い」という場合でも、早晩任せるつもりなら、先物買いよろしく誰かに役割を委譲すべきだという意見もある。

小さな記念日(ワイン)

一杯のワインが欲しい時、素人が自分で作ってみようなどと思うのは暴挙である。ぶどう畑を手に入れ、苗から木を育て、秋に収穫、破砕、圧搾して発酵させ、再び圧縮し樽で熟成させて濾過し、やっと一杯のグラスに注げる。その一杯が世界一うまい保障はないが、世界一コスト高のワインになることは間違いない。最高級のロマネコンティを買うほうがずっと安くつく。蛇の道は蛇、餅は餅屋、ワインは蔵だ。上手・安価・迅速の三拍子が揃わないなら、アウトソーシングするに限る。


何かにつけて親に頼り、判断は人に委ね、流れに身を任せて生きていけばどうなるか。子どもならともかく、成人してもなおこのようなモラトリアムが根を生やした「必殺任せ人」に必殺仕事人はいない。日常生活でも、どこに遊びに行くかは友人任せ、焼肉の塩・タレ・素焼きの味付けも料理人任せ。仕事においても、上司任せで指示待ち。その上司にしても部下に任せっぱなし。権限委譲と言えば聞こえはいいが、それもお任せの一つの亜流にすぎない。「 任せ任され  うまくは行かぬ  ドジを踏んだら  きみのせい」と都都逸の一つで皮肉りたくなるのが、当世の会社事情である。

生れてからある時期まで、人は生きること、すべきこと、学ぶことなど、ほとんどすべてを他者に依存し、他者に判断を委ねる。依存とは任せるということだ。そして、任せておけば真剣に考えないで済む。考えないとは疑念を抱かないことでもある。何事かを疑い自ら別の判断を捻り出さないのは、一個の人間として未成熟、未完成の証である。

しかし、幼さを脱皮して青年期に差し掛かれば、何事かを誰かに任せながらも、そのことを納得してばかりいられないという内的動機が生まれてくるものだ。かくありたい、かくあらねばならないという意識への目覚めから、他者への依存が弱まり自助自立への意志が強まる。「他人に任せる」から「自分に任せる」へ……考えることも生きることも判断することも……これを「責任」と呼ぶ。それは、任せることと任せっぱなしの峻別をともなう能力でもある。

小さなハレの儀

連休前後からずっと、オフィスでは創業以来の約30年分の書類、自宅では約45年分の書き物を総点検し、捨てるものは捨て、残すものは整理している。作業はまだまだ続く。

教師が板書したものを左から右へとノートに写し換えるようなことを、高校時代まではほとんどしなかった。その反動か反省かわからないが、18歳を境目にしてぼくはノートに文字を諄々と書き連ねるようになった。今では多弁であり饒舌であると思われていて、そのことは決して間違いではないが、ぼくが書いてきたくだらぬ文章を見れば、語ることよりも書くことの蕩尽ぶりに我ながら驚く。何冊かの著書と研修テキスト以外に、書いてきたものが直接何かに化けたわけではない。しかし、仕事のささやかなバックボーンになったことは確かだろう。

18歳ノート

ろくに受験勉強もせず、ひたすら拙く書いていたノートが数冊残っている。提出義務がなかったから好きなだけいくらでも書けた。大学ノートにびっしりと縦書きするのが当時のスタイルだった。やがて大学ノートは小さな手帳、京大式カード、コクヨの小型ノート、システム手帳、文庫サイズのノート、無印良品の各種サイズのノートへと変遷し、再び今年からバイブルサイズの6穴ルーズリーフのシステム手帳に落ち着いた。不揃いはよくない。一念発起してこれからノート習慣を始める人には、慎重にサイズや形態を決めることをお勧めする。


記憶を過信してはいけないと思う。老いたる者は当然ながら、若き者も自惚れてはいけない。外部の情報を取り込む視聴覚などの感覚器官そのものの不安定を考えてみれば、感覚器官経由で記憶することの頼りなさともろさを心しておくべきである。ぼくたちはどうでもいいことをよく覚え、千載一遇かもしれないたいせつなアイデアや教訓を忘れてしまう。忘却は年を追って深刻度を増す。歯止めをかけるには、忘れかけそうな事柄をメモ書きして再生可能な状態に保つしかない。手軽なノートに何かを綴ったり備忘のために記したりする。日常茶飯事の小さな習慣としてノートを活用しない手はない。

しかし、よく考えてみれば、よほどのマニアでないかぎり、習慣化はやさしくない。日々の諸々の事柄の多くは似たり寄ったりであり決まり事である。三日も書けば飽きてしまう。三日坊主とは言い得て妙である。ぼくもずっとそうだったが、ある日気づいた。ノートに記す内容が繰り返されるのは、流されるように生活を送っているからであり、自ら感受性を鈍らせているからであると。以来、小さなノートを開ける瞬間、ペンを持つ瞬間に、ほんのわずかに気を張るように意識してみたのである。

ノートをつける――あるいは、かつての日記をつける――という行為は、のっぺらぼうな日常の素顔の中に〈相貌〉を敏に知覚させてくれる。昨日と同じ今日はないと自らに言い聞かせ、いくばくかの緊張を感じて、新たに発見した些事や取るに足らない気づきを一本のピンで仮止めするような行為である。日常における「小さなハレの儀」と呼んでもいい。断片情報を明文化すれば、忘れやすい〈点の記憶〉に代わって、〈線の記録〉が生まれる。そして、その記録は記憶の再生を促してくれるのである。

視覚とエッシャー

滝、上昇と下降、反射球体と手、メタモルフォーゼ、メビウスの帯、空の城、解き放ち、モザイク、鳥で平面を埋めつくす、バベルの塔、相対性、凸面と凹面、メタモルフォーゼ、爬虫類、魚とうろこ、蝶、蟹のカノン、三つの世界、露滴、もうひとつの世界、メビウスの帯、昼と夜、表皮片、水溜り、さざ波、ラーメスキータ、三つの球体、立方体とマジックリボン、蟻のフーガ、秩序と混沌、上と下、龍、カストロバルバ、描いている手と手、プリント・ギャラリー、言葉。

以上はエッシャーの版画やスケッチに命名されたタイトルである。

エッシャー2

ここに拾ったタイトルの図版は、ダグラス・R・ホフスタッター著『ゲーデル、エッシャー、バッハ――あるいは不思議の環』に収録されている。これは750ページを超える大作で、いったい何についての書物かを説明するのに戸惑う。一応科学に分類されるのだろうが、かなり多岐にわたっている。お勧めする気はまったく起こらない。それにしても、エッシャーの絵画には、まるで短編小説を思わせるようなタイトルが並ぶ。

エッシャーは版画家である。しかし、「だまし絵」と称される一連の作品は、科学や哲学など芸術以外の分野の考察対象にもなっている。自然法則上の構造に対して独創的なアンチテーゼを呈したのがエッシャーだ。彼の作品には空間の有限世界を無限化してみせるというテーマが横たわっている。


エッシャー

エッシャーの図録を何冊か持っている。ページを繰って眺めていると、ありきたりだが、視覚の不思議に気づかされる。視覚はおそらく知覚の代表格である。人は長きにわたって「一見いっけん」の力を信じてやまなかった。しかし、視覚は「錯視」という誤動作をしばしば起こす。手品のネタを明かされても手さばきの鮮やかさに見惚れてしまうように、エッシャーの版画の構成の正体を承知してもなお、何度見ても錯視が生じてしまうのである。

エッシャーの作品には幾何学や物理学の法則が本来あるべき姿として存在していない。だから、不安定で不気味で落ち着かなくなるはずである。しかし、なじんでしまうと、しかるべき現実の空間のほうにむしろ違和感を覚えることがある。うまく表現しづらいので、『共通感覚論』から中村雄二郎の視点を拝借する。

「(……)一面幾何学的な冷やかさをもちながら、同時に人間くさく、宇宙的感覚に充ちている」
「(……)視覚の逆理が単なる知的遊戯として示されているのではなく、作者のうちに内面化され、いわば触覚化されている(……)」

この文章からぼくが想起するのは、バルセロナで眺め、そして会堂に佇んだ、ガウディのサグラダ・ファミリア教会である。それはまさに〈人間的ミクロコスモス〉であり〈宇宙的マクロコスモス〉であった。作意が鑑賞者の内面にも響き、視覚の限界を超えてしまうのである。エッシャーの作品も同様だ。視覚の逆理を遊ぶ「だまし絵」というジャンルに振り分けられているが、騙されることを了解した上で鑑賞しているのである。こうしてみると、今ぼくたちが目の前にしている現実が――そこにあるモノや構造物が――「だましのない、見えるがまま、あるがままの存在」と言い切れない気がしてくるのである。

諺に関する諺

諺、金言、格言、箴言しんげん……いろいろな類義語がある。このようなことばで呼ばれる名言は無尽蔵だ。知らないことばが多すぎるとこぼすに及ばない。知らなくても困ることはないのだから。

句に出合えば考えのヒントになり気づきを促してくれるきっかけになる。下手な考え休むに似たり。オフィスにも自宅にもそれぞれ十数冊の辞典や書物を備えていて、よくひも解いている。最近ではウェブでもかなりの程度まで検索できるので、わざわざ座右に本を揃える必要もなさそうである。

それにしても、諺、金言、格言、箴言などのニュアンスの違いが鮮明ではない。諺がおよそ土着的で日常生活的な教訓だということは承知しているが、金言と格言の線引きがむずかしい。たいていの辞典では生き方や真理や普遍らしきものを唱えるものとしており、金言と格言の意味がかなり重なっている。格言のうちゴールドメダル級を金言と呼んでおくことにするか。なお、箴言は、金言や格言のうち、戒めの意味合いの強いものと考えればよい。

諺と石碑

古代に遡ってみれば、石に刻まれた文言にもいろいろあって、公的なメッセージ性の強い内容もあれば、PRや宣言文もあるし、当時の時事記録もある。ひっくるめて呼ぶなら「碑文」と言うしかない。石に刻まれてこそ、パピルスに書いてこそ、格言・金言となって後世に伝えられた。口伝くでんのみのリレーではこぼれ落としてしまっただろう。わが国にも稗田阿礼と太安万侶以前に名言もあったと推測するが、いかんせん、そらんじるだけでは記録は残りづらかった。


適当に辞典を繰って「諺に関する諺」を調べてみた。金言、格言、名言などをキーワードにするとかなり増えるが、諺だけに限定したら、ぼくの検索の技では十指にも満たなかった。いくつか抜き書きして少考してみた。まずはポジティブなもの。

諺は一人の才知、万人の知恵。(ラッセル)
諺は民衆の声、ゆえに神の声。(トレンチ)

多くの諺を発信源まで遡ることはできない。無名の誰かがつぶやいた後に広まったか、民話のように人々の間で語り継がれたか、そんな感じなのだろう。二つの諺には帰納推理という共通点がある。おそらく個別で特殊だったものが一般普遍としての価値を得た。万人の知恵、神の声とは力強い。他方、ネガティブなニュアンスのものもある。

諺は言い訳にならない。(ヴォルテール)
諺は蝶に似ている。蝶を幾匹か捕らえても、他のは飛び去ってしまう。(ヴァンダー)

「急いでくれと言ったのに、遅かったじゃないか!?」と文句を言ったら、相手が「急がば回れを忠実に実行したんですがねぇ」と諺を盾に取って言い訳をする。遅くなったのは諺の仕業じゃないから、当然本人を咎めるしかない。諺は万人の知恵か神の声かもしれないが、社会規範の上に君臨する法ではない。それに、複数の諺を対比してみれば、相容れないものが必ず出てくる。ある諺に従うと別の諺に背くことになるのである。ヴァンダーの言う通り、いくつかの諺を座右銘扱いすると、他の諺への意識が希薄になることもある。

時機にかなえば、諺はいつも耳を傾ける値打ちがある。(プラウトゥス)

古代ローマ時代の作家のこの諺がもっとも古い。条件付きでポジティブ、条件が落ちたらネガティブという例である。耳を傾ける値打ちがあるのなら、行動指針にしてもいいはず。但し、チャンスやタイミング次第というわけだ。いつでもどこでも誰にでも絶対ではない。時機にかなっているかどうかと自分で斟酌しなければならない。

明けても暮れても「石の上にも三年」などと胡坐をかいたり、「酒は百薬の長」とほざいて連日飲み明かすのも考えものである。諺は字句通りに実践するものではなく、己の言行や考えをチェックする素材と見るのがいい。ケースバイケースの付き合いをする分には、諺は味わい深いと言っておこう。