断片への偏見

「点をつないで線に」とか「部分を統合せよ」などという主張をよく耳にする。ぼくも時々言う。点をばらばらにして途方にくれたり、部分を単純に足し算してけろりとしている人に言う。そう言いながらも、絶対真理として「全体が部分よりすぐれているから」などとは思っていない。

断片

総体や全体に比べたら断片は劣っているように扱われる。「全体は部分の総和にまさる」(アリストテレス)という名言にはちょっと抵抗しにくい。実際、適当にではなく、調和的に部品を組み合わせれば、全体は単なる足し算以上の力や機能を発揮する。ところが、その部品の一つが精密なネジだとして、そのネジのお蔭でロケットも飛ぶではないか。はたしてネジあってのロケットなのか、ロケットという全体構想があったからネジが生かされたのか……正直なところ、よくわからない。

物事は全体を把捉するから理解できるのか、それとも全体では理解しにくいから分けていって小部分にすれば理解できるのか……かなり悩ましい問いである。全体ゆえの部分なのか、部分ゆえの全体なのかと言い換えてもいい。レヴィ・ストロースが『野性的思考』で語った「いろんな出来事の残片ざんぺんを組み合わせて構造をつくる」というメッセージは、全体設計図以前の、試行錯誤的な断片の組み合わせの重要性を暗示している。


総体や全体、場合によっては体系などが語られた後に、断片のことなどを言い出すのは勇気がいる。しかも、ろくに全体構想できない者が、各論や部分を蔑視するから滑稽である。断片への偏見は根深い。しかし、アメリカの作家ドナルド・バーセルミは「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式である」と吠えた。この作家の短編小説を最初に読んだのは二十代半ばだったが、どう形容すべきか戸惑った。論理や物語や全体に一瞥もくれずに、句読点もなく、ひたすら断片をつなぐのである。ちょっと長いが、『アリス』から引用してみる。

ぼくはかつてハンマー投げの頑丈な男だった 余暇の時間のため余分のハンマーがあってしかるべきじゃなかろうか?
アリスの大腿部はすばらしい黄金色のワニスをかけた木製のオールみたいだ もちろん他にそんなものを見たことはない
混沌とは味がよくてしかも有益なものだ
色染めの衣装 紙製ハンカチ 絶妙な諷刺漫画 ちょっとしたさわやかさ 伝導中の教皇のラバが 種々さまざまなプジャード運動の声明 濃い色調の黒人 権利放棄証明書と一緒になってとてもまずい作用を起こし ツェントラル・ビブリオテク・チューリッヒ・ガソリン 彼女の裸のお尻に合わせ アリゲーターの背中を切りとった文鎮で伸びきった宙吊り状態に保たれた縫いぐるみの熊のがらがら紐と一緒にたわむれる
きみだってそれがやれるんだ 見かけ通りのたやすいことさ
そうした特別の遊び手にとって定法なんかありはしない エアブラシをにぎって生け垣や溝に吹きかける白色と菫色 まだ独身だけれども指輪をはめて 乾燥 まったく無意識にやってるようなふりをして働かせるいっそうすぐれた感情 魚の群れ ハンマー投げの長いでっかい脚 濡れて美しい水中ダンサー 音楽の調べ スイス飛行の情緒の費用 透明で 希薄で アルカリ性で 白い風どもにとって非常に滑りやすい流体の危険 いなかの小さな電話ボックス 口づてにもたらされた辛辣な侮蔑 有名な事件
(……)

こんな調子がずっと続くのである。全体理解に比べたら部分など簡単だと思っていたぼくはちょっと困ったのである。ナンセンスと片付け、奇妙な作家だという烙印を押して退けたらよかったのだろうが、断片侮るべからずと思ってしまったのである。論理の助けがあるから分かることが、論理の骨を抜かれると難解になる。それまでは、非論理的だとして取り計らわなかった構造以前の寄せ集めなのに、一つの形式としてあってもいいのだろうと寛容になった。

そして今、部分に対して全体が重要だと発言する機会が多いものの、断片に偏見を抱いていたらぼくの仕事などは成り立たなくなるということも心得ている。もっとも、バーセルミのように、断片を「唯一の形式」だとは信奉していない。思考形式であれ表現形式であれ、多様な形式があるほうが凡才には生き延びやすいと思うのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「断片への偏見」への2件のフィードバック

  1. フラクタルは全体と断片が相似であることを示唆して興味深いと思いませんか?

  2. 宮さん、ブログを書いていても、多忙な時はコメントまで目配りできておらず、今日になって初めて投稿に気づきました。失礼しました。
    全体を演繹的に部分へと下っていくと当然全体の特性が部分に見られることはよくあることです(つまり相似性の出現)。ならば、部分の帰納的集積によって浮かび上がる全体も想像は可能でしょう。しかし、この理論がある程度成立するためには、対象分野の底辺にロジックが横たわっている必要があるはずです。生活文化や性格・癖などにおいては、一つの例が全体類推に必ずしも役立つとは思えません。
    ディドロ現象のようなライフスタイル分析に役立てばいいのですが、今のところ難しいという判断です。たとえばローレックスの時計をしているという「部分的ライフスタイル現象」を帰納的に拡張していっても、その消費者の全体的生き様が見えてくるとは考えにくいのです。ローレックスの時計を持つ者は(ニューヨーク系ヤッピーなどにおいて)BMWを所有し、趣味としてブロードウェイがあるなどと関連付けていっても、結局は部分と部分のつなぎ合わせであって、全体を見つけるのは至難の業です。もし全体が見えれば、マーケティング的に売りたい商品を位置づける画期的な手法になるでしょう。

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