(a) ある事件が起こったのは一か月前なのに、それがつい先週のことのように甦る。
(b) ある人物と再会した。10年ぶりくらいかなと直感したが、実は2年ぶりだと知って驚いた。
(a)は現実の時間よりも感覚的時間のほうが短く、逆に(b)は感覚的時間よりも現実の時間のほうが短かったという例である。
「歳をとるにつれ時間(月日)の経つのを早く感じるのはなぜ?」 歳をとったと自覚する人なら一度は自問したり誰かに尋ねたりしたことがあるだろう。このことについてぼくは過去何度か考えたことがある。本ブログでも《いま・ここ》の明快さというタイトルで書いたことがある。そして、時間のことを考えるたびにいつも繰り返し問うている、「はたして時間は流れているのか?」と。
人々が時の流れのあまりに速やかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
ダ・ヴィンチは「時の流れ」という表現を用いている。天才が言うのだから素直に従えばいいのかもしれないが、ぼくには時が流れているようには感じられないのである。過去の瞬間や断片的体験を記憶の中でつなぎ、あたかも動画のように再生しているだけではないのか。時間が流れているように感じるのは、記憶を過去から現在へと呼び寄せ、現在から未来へと想像を馳せるからである。つい「時の流れ」などと言ってしまうが、実は「時間とは瞬間である」と思う。
いま思い返しているのが過去であり、いま洞察しているのが未来である。過去も未来も現実の内にしかない。
「現実は生命にかかわるもの、触れることのできるもの」
(大森荘蔵『流れとよどみ』)
もしそうならば、現実以外に〈いま・ここ〉の時間など存在しない。過去も未来も現実ほど明快ではないし、過去や未来が現実を凌ぐほどの説得力で迫ってくることは稀である。
にもかかわらず、いまビジョンを描いているうちに、人は現実よりもビジョンに軸足を置いてものを考えてしまう。今日が終わらないうちは明日は来ないのだが、今日よりも明日に期待してしまったりする。あるいは、過去を回顧しているうちに、人は現実よりも過去の経験を甦らせて懐かしさに酔いながら――時には後悔に苛まれて――人生を眺めてしまう。
昨夜見た夢も数年先を見据えたビジョンも、今という現実の中でしか実感できないはずだ。そして、過去も未来も、手で触れられるような現実感覚に比べて曖昧であり、輪郭のはっきりしない表象でしかない。過去や未来を起点として発想するなどと言えば何だか体裁が良さそうだが、現実直視が後回しになるのが常である。〈いま・ここ〉から逃れて行き着ける場所などない。逃避したくても、時間は流れてなどいないのだから、流れを遡ってもそこに過去はないし、下流へと辿って行ってもそこに未来はないのである。
岡野さん、ご無沙汰しております。
最近fbを始め、岡野さんのページに出逢いブログを拝読致しました。「時」という尺度を創ったのは私たち人間ですが、時計などの表示で「時」を確認できるものの、時そのものを五感で感じ取って認識することはできませんから、あたかもそこに流れがあって、その流れに沿って進むことも、反対に逆らって進むことも体感することはできない―というわけですよね。感覚や思考が「今この瞬間の内」にあるとすれば、私たちは今この瞬間の連続の中で生きていることになります。『時間とは瞬間である―現実以外に《いま・ここ》の時間など存在しない』という考察は納得です。
ところで、私の英語の言語係数は「1.0」に遠く及ばないまま三年前に還暦を迎えました。加齢の所為もあってかその数値はさらに低下基調にあることに危惧の念をいだき、また、昨年から塾で英語指導を始めたことも引き金になって英語学習を再開しました。
そんなわけで、この考察を英語の言葉上の「時」である時制にあてはめてみました。
【現在時制】今この瞬間を中心に、過去のある時間(瞬間)から未来のある時間(瞬間)に及ぶ時間(瞬間)の連続を表すカタチ
【過去時制】今この瞬間とは切り離された過去のある時間のことに対して、今この瞬間そこに視点を置いて表すカタチ
【現在完了相】過去のある時間のことを取り出して、今この瞬間に視点を置いて表すカタチ
【未来】現実ではない(非現実)のでそれを表す時制はない
【仮定法】現実に反する(反現実)ことを仮定するので、現実から遠く離れるため時制をバックシフトして表す
Feel what you feel now, think what is on your mind now, do what you can do now, and you’ll be pleased that you did so.
こんな感じでしょうか?
上杉さん、ごぶさたしています。拙文が少しでも考察の機会を提供できたのでしたら幸いです。時間論については古来哲学の命題になっていましたが、時の流れを感じた時代と、時計によって時が刻まれていくのを見るようになってからでは、時間感覚が大きく変わったと言えるでしょう。
ぼくはさほど時間の哲学を読み解いてはいませんが、十数年前に別の意図でバシュラールの本を読み、その中で時間が「瞬間の連続」であるという一節に出合って時間について考えるようになりました。あなたのおっしゃる通り、老いへと向かう自分を反映していたかもしれません。
未来の瞬間についてぼくの想像力は不毛ですが、過去に関して言えば、過去という時間(経験や思い出の瞬間の群れ)は記憶の中にしか存在しえないと思います。記憶というのは《いま・ここ》で想起できますから、現在と過去の切り離しは不可能です。未来も今に至る経験の記憶から導かれる想像図の中に描けるでしょうが、そこまでの思考受容器の余裕がありません。つまり、過去の経験を今にどう生かすかということで精一杯の今日この頃です。
哲学論争に飢えていますが、骨のある相手がめっきり少なくなってきたので、一人ディベートをしている今日この頃。また機会と縁があれば久々にお越しいただければ小宴でおもてなしいたします。