知の統合と構想力

以前『断片への偏見』と題して書いたことがあるように、ぼくは必ずしも断片否定論者ではない。断片は創作と無縁ではないし、より大きな発想の起点になることさえある。さらには、日々の大半の行動は断片的に繰り広げられているのが現実だ。断片は決して軽視できない。この思いと相反しないという意味で、しかし、断片を断片のまま放置しておくことは知にとって機会損失を招くことになると思う。なぜなら、知は統合してはじめて断片の総和以上の結果をもたらすからである。

かと言って、知の統合のためにわざわざ断片を仕入れるには及ばないし、どんな統合知を構築しようかと予定を立てる必要もない。持ち合わせている断片を見直して、断片どうしをつなぎ、その活用の道を工夫するだけで、これまでにないまずまずの作業ができたりするものだ。レヴィ=ストロースのことばを借りれば〈ブリコラージュ〉のための手持ちの断片の活用である。「間に合わせの仕事」や「器用仕事」のことである。

知圏

スティーブ・ジョブズの“Connecting the dots”(点をつなぐ)にヒントを得て、数年前に〈知圏〉ということばを造語した。これは断片を垂直的に積み重ねる「知層」に対峙する概念である。知層は断片が統合された状態ではなく、硬直的に足し算されたもので、組み合わせの融通がほとんどきかない。この種の知のありようは、教育過程で形成した結果を象徴している。断片という〈点〉はつながっていない。層を成しているかのようだが、点は有機的に結ばれなどしていない。これに対して、知圏は水平的な広がりを持つ。脳のシナプス回路のように、異種の知の断片が融通無碍に統合されやすくスタンバイしている状態である。


ぼくたちは大人の世界で生きる上で必要な能力を一気に学ぶことができないので、全体を細分化するという方便に従ってきた。すなわち、国語だの算数だの理科だの社会だのと断片化して勉強してきた。大学というのはその中から一つの専門分野を深めると同時に、幅広く教養を身につけることを目的としたはずである。そんなふうにうまく学んできたとしよう。さて、ここで学舎から世界へと出る。その世界で期待されるのは、超専門性で深化を目指す一部の人たちを除けば、細分化して学んできた断片の統合である。すなわち、点と点をつないで自分独自の知のネットワークを創造や問題解決に生かすことである。

にもかかわらず、大多数の社会人は旧態依然として学校時代と変わらぬ、没個性的な断片の足し算のような学習を続けている。それは、点を結ぶという知圏発想からほど遠いと言わざるをえない。学校時代は十数年でよかった。その三倍にもなろうかという年月を性懲りもなく無限インプットに費やし、断片の在庫は膨らむ一方で、いつまでたっても臨機応変のアウトプットへと結実しない。教育機会の提供者は知を切り売りするほうが楽であり、学ぶ側は分断された知のほうが学びやすい。こうして実社会においても、知の統合に知らん顔して、教える側と学ぶ側が目先の断片ノウハウを弄ぶ。双方にとって都合のよいもたれ合い関係なのである。

よく似たものを一括りにし、異なるものをそのグループから排除するという、断片の分類作業にぼくたちは毒されてしまったかのようである。分けたのはいいが、統合することを二の次にしてしまった。ここで、1718世紀に生きたイタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコの構想力の論理に耳を傾けたい(『命題コレクション』)。

遠く隔たった観念を結合する能力としての構想力こそは、矛盾した概念を弁証法的に統合することを可能ならしめる。

えらく難しそうだが、知の統合のエッセンスがここに詰まっている。混迷する世界と時代にあって、断片や分類という作業からは新しい課題が生まれるはずはなく、問題も解決する見通しは立たないのである。一見して相互に無関係な点と点を結ぶ構想力が希求されている。そして、構想力こそが、先入観で無関係だと決めつけてその場を立ち去ろうとする足を踏み止めるのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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