角川の『基礎日本語辞典』に「任せる」という見出し語が収録されていない。これはかなり重要な動詞なのに。意外だった。実は、一般の辞書では解き明かしてくれないこと――信頼、自由、放置、諦念などのニュアンスの重なり――を調べてみたかったのである。
「ここまではぼくがやった。後はきみに任せる」という時は、きみへの信頼ときみの裁量を含む。「想像にお任せします」なら、自由と放任、すなわち、勝手気ままにお好きなように、である。「成り行きに任せる」なら放置と諦念、「神の思し召しに任せる」なら信頼と諦念。「あいつは何事も他人任せ」は無責任と甘えという具合。
どこかの牛丼店じゃないが、自分がやってみるよりも「うまい、安い、早い」なら適材に任せる。自分ができないことを、見事にやってのける人がいれば、その人の才能やエネルギーに期待すればいい。但し、自分がやってみるほうが「うまい、安い、早い」という場合でも、早晩任せるつもりなら、先物買いよろしく誰かに役割を委譲すべきだという意見もある。
一杯のワインが欲しい時、素人が自分で作ってみようなどと思うのは暴挙である。ぶどう畑を手に入れ、苗から木を育て、秋に収穫、破砕、圧搾して発酵させ、再び圧縮し樽で熟成させて濾過し、やっと一杯のグラスに注げる。その一杯が世界一うまい保障はないが、世界一コスト高のワインになることは間違いない。最高級のロマネコンティを買うほうがずっと安くつく。蛇の道は蛇、餅は餅屋、ワインは蔵だ。上手・安価・迅速の三拍子が揃わないなら、アウトソーシングするに限る。
何かにつけて親に頼り、判断は人に委ね、流れに身を任せて生きていけばどうなるか。子どもならともかく、成人してもなおこのようなモラトリアムが根を生やした「必殺任せ人」に必殺仕事人はいない。日常生活でも、どこに遊びに行くかは友人任せ、焼肉の塩・タレ・素焼きの味付けも料理人任せ。仕事においても、上司任せで指示待ち。その上司にしても部下に任せっぱなし。権限委譲と言えば聞こえはいいが、それもお任せの一つの亜流にすぎない。「〽 任せ任され うまくは行かぬ ドジを踏んだら きみのせい」と都都逸の一つで皮肉りたくなるのが、当世の会社事情である。
生れてからある時期まで、人は生きること、すべきこと、学ぶことなど、ほとんどすべてを他者に依存し、他者に判断を委ねる。依存とは任せるということだ。そして、任せておけば真剣に考えないで済む。考えないとは疑念を抱かないことでもある。何事かを疑い自ら別の判断を捻り出さないのは、一個の人間として未成熟、未完成の証である。
しかし、幼さを脱皮して青年期に差し掛かれば、何事かを誰かに任せながらも、そのことを納得してばかりいられないという内的動機が生まれてくるものだ。かくありたい、かくあらねばならないという意識への目覚めから、他者への依存が弱まり自助自立への意志が強まる。「他人に任せる」から「自分に任せる」へ……考えることも生きることも判断することも……これを「責任」と呼ぶ。それは、任せることと任せっぱなしの峻別をともなう能力でもある。