関係と比較

ある物事から他の物事との関係を外してしまうと、個として立ち現れるのが不可能と思われる。たとえば、りんごという果物は単体でも認識できるが、他の果物と比較すれば認識の質も深さも変わるはず。もの、概念、人にも同じことが言える。関係づけたり比較してみたりして、あるもの、ある概念、ある人の意味が際立ってくる。

ものどうし、概念どうし、人どうし……いずれの間にも関係がありうる。企画や編集の仕事にあたって関係をどのように認識しているかあらためて考えてみると、そこには「配置のイメージ」が重要な役割を果たしていることに気づく。手紙を書こうとすれば、机上のペンケースに収まっている万年筆と椅子の後ろに並べてあるインク瓶が近づく。万年筆はインクによって、インクは万年筆によって、それぞれの認識が深まる。「左右」という概念を考えるとき、岐路に立つ自分がいて左右の方向感覚をイメージとして認知しようとしている。左だけを想像することはできない。左右をセットにするほうが左も右もよく見える。

自分と他人の関係では二人が登場する。ある人物と自分が配置されるとき、その人物のことだけや自分のことだけを分析するよりも、自分のこともその人物のこともずっとよくわかるものだ。異なる二人を並べてみてはじめて、類似なり関連性なりがあぶり出されてくる。〈差異と類似のネットワーク〉によって、ぼくたちは個々のもの、概念、人についての理解を深めるように思われる。


概念の関係図

「もっと深く考えよ」とよく言われてきたが、他のものと比較もせず配置関係も想像せずに、深さを追求することはできそうにない。仮にできたとしても、それを他者に説明するにはかなりの描写力を必要とする。池そのものをどれほど深く考えても限界がある。しかし、海、川、湖、沼、潟などを配置させて比較してみればどうか。固有の概念の深掘りよりも関係の広がりのほうが、池そのものが浮き彫りになってくるのがわかる。

今日の昼前、年越しそばの待ち時間に『ミケランジェロ』(木下長宏)の序章を読んでいた。序章のタイトルは「ミケランジェロとレオナルド」であるが、レオナルド・ダ・ヴィンチから始まり延々とレオナルド・ダ・ヴィンチの話が続く。これはレオナルド・ダ・ヴィンチについて書かれた本ではないのかと思ったほど。しかし、序章を読み終えて、著者を責める気にならない。レオナルド・ダ・ヴィンチとの比較において、23歳年少のミケランジェロ・ブォナローティの存在がいっそう際立ってくるからである。

日本人だけを語る日本人論、日本文化だけを語る日本文化論に出合ったことはない。他国人との比較、他国の文化との関係においてはじめて語りうるテーマである。いや、こうしたテーマだけに限らない。すべてのもの、概念、人は「関係的存在」なのである。

諺に「下手があるので上手が知れる」というのがある。優劣は比較してわかる。下手のお陰で上手の程度がわかる。ある一つの物事だけを目の前に置かれて評価するのは難しい。ところで、いつもの蕎麦屋の年越しそばは今年もうまかった。下手とは勝負にならないレベルだが、並み居る競合店相手に勝ち抜いてきたのは、常連客が他店の味との比較をしている結果にほかならない。ぼくがこの蕎麦屋のそばの味について誰かに語るとき、これまで立ち寄った他店の味を思い浮かべている。

取るが我等が得もの

京都の知人は、手元に金がある時は安い居酒屋で飲み食いして現金払いする。「いつもニコニコ現金払い」ができるのは持ち合わせがあるからだ。しかし、金の融通がきかない時にふいのお客さんの接待ということになると、なじみの高級割烹とお茶屋に連れて行く。掛け買いができるからである。縁のない世界なので詳しいことは知らない。知人によると、請求は年に一回のみ。十二月に一年分をまとめて支払うそうだ。何百万という金額になることも珍しくないらしい。

今もこのような掛け売り・掛け買いという商習慣が一部で生きている。かつてのように、掛金取り立てのために駈けずりまわって集金しているのだろうか。もしそうなら、隠れたり言い訳で逃れたりという輩がいても不思議ではない。貸し手と借り手の駆け引きにあって、昔は「取るが我等がとくもの」と豪語する人物に出番があった。ずばり「取り立て上手」のことである。こういう情景をイメージすると、師走を特に慌ただしく感じてしまうのもうなずける。


☑井原西鶴終焉の地

自宅からオフィスまで1.3キロメートル。その途中に井原西鶴(1642-1693)の終焉の地の碑がある。交通量の多い谷町筋の道路を背にしている。西鶴は道路向かいの鎗屋町やりやまちに住んでいたという。元禄期に書かれた『世間せけん胸算用むねさんよう』は、まさに師走の掛金を巡る貸し手と借り手――主として中下層の町人ら――の喜怒哀楽を描いた作品だ。「大晦日おおつごもりは一日千金」という副題が示すように、二十章のすべてが大晦日の一日に起こった物語として綴られている。久々に気まぐれに本を繰ってみた。

(……)この帳面見給みたまへ、二十六軒取済とりすまして、ここばかりとらでは帰らぬ所。この銀済まぬうちは、内普請うちぶしんなされた材木はこちのもの。さらば取って帰らん。

この引用の冒頭に「取るが我等が得もの」という大見得が切られている。取り立ての男が、「この帳面を見てごらんなさい。ここまで26軒まわって回収してきて、お宅から取らずには帰れません。支払いをしていただけないなら、リフォームにお使いになった木材を回収します。さあ、持って帰らせてもらいましょう」とプレッシャーをかけている。それにしても、見事な回収率である。

元禄時代、現金による当座買いのほうが珍しく、商売の主流は帳面による掛け売りと掛け買いが主流だった。この仕組みがすっかり姿を消したわけではないが、当世、大晦日が一年の最後にして最大の収支決算日ではなくなった。ところで、11月末に一回6,000円ほどするストレッチの回数カードを3回分買った。一括払いすると割引特典があるからだ。買ったのはいいが、2回利用した後、仕事の都合で期限までに3回目を消化できなかった。特典に目がくらんで損をした。何事もできるかぎり現金払いがよく、現金で受け取るのがいいと思う年の瀬である。

辞書、辞典、事典、百科……

ある人に聞かれたことがある。「どのジャンルの本が一番多いですか?」 「それはもう間違いなくジョークと雑学の本ですよ。続いて言語と語学。その次に文化・芸術関係や思想・哲学でしょうね」。

年末になると書棚の整理をする。今年もぼちぼち始めているが、食の本やギリシア・ローマ、ヨーロッパ関係の本も少なくない。ひとつ見落としているジャンルがあった。辞書の類である。常用するものは手の届く範囲に置いている。出番の少ないものはあちこちの書棚にばらけている。オフィスに所蔵しているものもかなりある。

ブリタニカ百科事典

辞書、辞典、事典、百科などは目を通したり参照したりするページに比べて「開かずのページ」のほうが圧倒的に多い。読みもしないページがあるからと言って、いらないページを破り取るわけにはいかない。調べものをすることが目的であり、調べる必要はいつ何に対して起こるかわからないから、活用の度合いにかかわらず常備しておかねばならない。つまり、書籍としては効率が悪い。

やはり辞書は電子書籍が便利なのだろうか。いや、それが必ずしもそうではない。電子書籍を活用したことがないので断言できないが、ウェブで用語を調べるかぎり、当該用語の意味を知れば検索は終わる。しかし、紙の辞書の場合は、前後の見出し語にも目移りする。つまり、目的から寄り道することになる。それでも、その寄り道こそが紙の辞書を繰る副産物にほかならない。気が付けば、調べものを忘れて両隣の字義を読むのに没頭していることがある。こういう「ついでの知識」というのが案外ためになるからおもしろい。


「一日一言」や「~集」の類、それに図鑑や図録を除いて、辞書、辞典、事典、百科だけに絞ってどれほどあるのか数えてみた。90冊弱あった。その一覧を見て呆れかえっている。備えあれば憂いなしのつもりで買い集めたものの、手に取りすらしたことのないのを目の当たりにして憂いあるのみである。「あいうえお順」に辞書を並べてみた。

【あ】
アメリカの雑誌を読むための辞書
アメリカ俗語辞典
悪の引用句辞典
悪魔の辞典

【い】
いろはカルタ辞典
イタリア語動詞辞典
伊和辞典

【う】
うらよみ演劇用語辞典

【え】
英語情報辞典
英文を書くための辞書
英和翻訳表現辞典

【お】
オックスフォード現代英英辞典
思いちがい辞典
音楽用語辞典

【か】
がくがく辞典
カタカナ新語辞典
科学のことば雑学事典
科学技術大辞典
架空地名大事典
漢字表記辞典
漢和辞典

【き】
機械用語辞典
気のきいた言葉の事典
季語辞典
擬音語・擬態語辞典
逆引き辞典

【け】
経済用語辞典
建築学用語辞典
建築人間工学辞典
現代思想を読む事典
現代無用物事典

【こ】
ことわざ悪魔の辞典
ことわざ成句使い方辞典
こんなものいらない事典
コーパス辞典
言葉の違いがわかる事典
古語辞典
故事成語辞典
五體字類
広辞苑
広報事典
国語辞典
国際金融用語辞典

【し】
ジョーク雑学大百科
思考の用語辞典
実存主義辞典
昭和古語辞典
笑死小辞典
新大字典
新明解国語辞典

【せ】
世界の故事名言ことわざ事典
世界名言格言辞典
西洋哲学小事典
西和辞典

【そ】
ソシュール小事典

【て】
ディベート用語辞典
哲学事典

【と】
当世悪魔の辞典
独和辞典

【に】
日英口語辞典
日英比較ことわざ辞典
日米表現辞典
日本語をみがく小辞典〈名詞篇〉
日本語コロケーション辞典
日本語誤用・慣用小辞典
日本語使いさばき辞典
日本語大シソーラス
日本史小辞典
日本人の英語欠陥辞典

【ね】
ネーミング辞典

【ひ】
ビジュアル大辞典
比喩表現辞典

【ふ】
ブリタニカ大百科事典
仏教語小辞典
仏和辞典

【み】
民俗学辞典

【よ】
四字熟語辞典

【ら】
ランダム英和大辞典

【る】
類義語辞典
類語新辞典

【わ】
和伊辞典
和英辞典
和西辞典
和独辞典
和仏辞典

料理を考える

当然のことだが、食べることを思うと料理について考えるし、料理をしていると食べることを連想する。料理する人と食べる人が別だとしても、料理と食べることはつながっている。その料理の「料」は「米」と「斗」でできている。昭和三十年代の米屋の店先、升に盛った穀類を斗掻とかきという棒で平らにならしていた光景をよく目にした。一斗分(10合)をはかっていたのだ。「料る」が「はかる」と読めるのはおもしろい。この料に理がついて料理になる。理は良し悪しの判断だから、料理にはすでに「考える」という意味が含まれていることになる。だから、厳密に言うと、「料理を考える」という見出しは同語反復なのである。

料理に健康概念を持ち込む人がいる。やり過ぎではないかと思う時がある。もうだいぶ前の話。ある企業の幹部らと同社の戦略について会議をしていた。相談を依頼されたのはぼくと他社のコンサルタント。話が煮詰まってきたものの最後の詰めへと進めない。ちょうど昼食時間となり、弁当が配られた。誰もが、ことば少なに、包みを外してふたを開け、箸を手にして食べ始めた。コンサルタントの方に目を向けると、弁当を顔のあたりまで持ち上げて底のラベルを読んでいる。しばらくして、「添加物が多いので、やめておきます」と言い、部屋を出て行った。

小一時間して戻ってきた。外食してきたかどうかはわからない。仮に腹ごしらえしてきたとして、また、それが日替わり定食か何かだったとしても、定食に使われた化学調味料や添加物、さらには加工品にどんな保存料が使われていたか、知る由もなかっただろうし店で説明を受けたはずがない。体躯の貧相な、そよ風に吹かれてもふらつきそうな男性だった。見るからに病的であった。食は細かったに違いない。それはそうだろう、弁当が出されるたびに拒否していたのだから。


医食同源という美徳的な考えに逆らうつもりはまったくない。ただ、病人の身体をおもんぱかって食事の理を料ることと、ひとまず普通に生活している健康な人間が食事を考えることは同じではない。病人の食養生は食を以て医を施すことにあるから、医と食を一体と見なして不都合はない。あのコンサルタントはそんな指導を専門家に受けていたのだろうか。ともあれ、まずまず健康であると自覚している者が、食事のたびに栄養バランスだの添加物だのに気を奪われているのは滑稽だ。味わいも食事の楽しみも半減するに違いない。

駅弁

数年前になるだろうか、東京駅で東北新幹線に乗り換える際に弁当を買った。車中弁当など何でも良さそうだが、講演の前などは胸焼けやげっぷしそうな食事は禁物。だから、少々思案することがある。品定めをしていたら、48品目弁当なるものを見つけた。こういう弁当に手を出すことはめったにないのだが、若干体調不安を抱えていたので、「これはヘルシーかも?」とミーハーな表現を思い浮かべ、これまためったに起こらない気分に支配されて買い求めた。

新幹線の席に着いて弁当を食べ始めた。おかずを口に運ぶたびに素材を数えていた。ほんとうに48品目も使っているのか興味津々だった。ひじき、枝豆、ごま、たまご、各種野菜……ていねいにカウントした結果、うたい文句通りの品目をほぼ確認した。ぼくとしたことが、不覚にも、健康によいという意識で弁当を食べた半時間。お利口さんのランチタイムのようだった。通路を挟んだC席の男性は、ワイルドに深川めしを食っていた。アサリ、ハマグリなどの貝をたぶん三種ほど乗せた丼。せいぜい五品目だ。実にうまそうだった。そして、健康的に見えた。食べたいものを食べたいときに食べるのがうまい。そして、うまいものを食べれば元気になれる。

紙にこだわる

先日実施した研修にプチディベートの実習を取り入れた。論題は「電子書籍は有益である」。争点はいろいろ出たが、残念ながら、電子書籍と紙の本とを鋭く対比させた議論は聞けなかった。電子書籍有益論を唱える側の主張は、「紙の浪費は環境によろしくない」、「いつでもどこでも大量の本が手軽に読める」という二つの論点に集中した。4試合のディベートに耳を傾けながら、慣れ親しんできた紙の書物のこと、さらには紙そのものが担ってきた知や文化のことを思い巡らしていた。

電子書籍がさらに普及すれば、僧侶はスマホやタブレットの画面をスワイプしながら般若心経を唱えるのだろうか。いや、お坊さんはお経を暗唱しているから、電子であれ紙であれ経典がなくても大丈夫。では、教会ではどうか。牧師はタブレットの新約聖書を見ながら「ヨハネの福音書第5章……」などと言い、集まった信者たちは、手垢のついた革表紙の聖書ではなく、スマホで参照するようになるのだろうか。ちょっと想像しづらい。一般的には、TPOに応じて電子と紙を使い分けて本を読めばいいと思う。

ただ、ぼくに関して言えば、無料で何冊かの小説をダウンロードしたものの、ろくに覗きもしていない。いつぞやカフカの『変身』をiBookで読みかけて途中でやめた。若き頃に紙を繰りながら読んだ感覚とはほど遠く、読書の味わいをまったく感じなかった。自宅書斎に数千冊の本を所蔵しているが、置き場のやりくりに困惑し床が抜けないかと不安になりながらも、ぼくはこれから先、電子書籍ではなく、紙の本を読み続けるはずである。

絵をよく描いた頃、絵具よりも紙にこだわった記憶がある。手習いのほうは、半紙を師範が使っているものに変えただけで字が格段に変わった。無料の雑誌を手にしたら、記事を読む前にページの手触りを感じている。当社の名刺をデザインした時も、文字やレイアウトやインクを云々する前に、まず紙を選んだ。気に入ったものに出合うまで探していたらフランス製の紙に辿り着いた次第。どんなに値の張る万年筆を手にしても、それ自体の書き味を品評することはできない。インクが重要。そして、インク以上に書き味を決定づけるのが紙である。もっと言えば、紙さえよければ100円の水性ボールペンでも10万円もするモンブランでも書き心地に納得がいく。


紙業は昨今全般的に苦戦しているので、80年代、90年代の頃のように豪華な見本帳を大盤振る舞いしてくれなくなった。それでも、仕事柄、当社には紙の見本帳がまだかなりある。見て手触りを確かめるだけでも楽しいものだ。自宅ではスケッチ帳やポストカードサイズの用紙、画用紙が収納スペースの一角を占めている。整理整頓するたびにどれだけ紙好きなのかと呆れるが、かさばるという理由だけで白紙のまま処分する気にはなれない。

知的生活という粋な表現はぼくにふさわしくないけれど、リテラシーの基本は30数年間ずっと手書きノートであり、それを発想の出発点にしてきた。最近では万年筆や水性ボールペンと相性のよさそうな紙を見つけてきては、試行錯誤している。今年の年頭から二十年ほど前に使っていたシステム手帳を復活させた。ITが加速する今となってはクラシックスタイルかもしれない。バイブルサイズの6穴ノート。補充するリフィルは安直に百均で買うこともあるが、厚口の上、紙質ももう一つ。まったく気に入ってはいない。そこで、広島の知り合いの洋紙専門家のT氏に相談した。「薄口で丈夫で万年筆の書き味がよく、しかも裏写りしにくい紙」という厚かましい条件を出してみた。オリジナルで作ることもやぶさかではないと付け加えた。

6穴リフィル

見積書によると、上記の条件の紙を6穴バイブルサイズに断裁して12,000枚作れば1枚あたり2.8円。悪くない。しかし、一年に400枚使っても30年分になる。いかにノートマニアと言えども30年先までの在庫を抱える気にはなれない。三、四人で共同購入するのが賢明だが、あいにく周囲にこの仕様のノートを使っている人は見当たらない。

思案していたら、T氏から郵便が届いた。「わざわざ作らなくても市販でいいのを見つけた、100枚単位で買え、しかも1枚あたり3.45円」というメッセージとともに、親切なことにサンプルも同封してくれていた。薄い! かぎりなく辞書の紙に近い感触。システム手帳に現在綴じている枚数の2倍近くは収められそうだ。これから二、三ヵ月間試してみることにする。紙にわくわくしている自分がいる。紙にはこだわるだけの値打ちがある。紙を侮ってはいけない。

甘口と辛口

幼稚園児や小学低学年の子らは思う存分にほめそやしてあげればよろしい。笑顔だけでなくことばでもほめ、いい気分にさせてあげる。不出来を分析して理屈っぽく説明しても、やる気を失くすだけだ。出来不出来にかかわらず、行為そのものを評価してあげる。それが自発的な頑張りのきっかけになる。もっとも、こんなふうにやる気の醸成に手を差し伸べても、やがて分別がしっかりしてくると、自他を比較して自分の出来具合を判断するようになる。その頃になると、ほめるだけでは動機づけが難しくなってくる。いずれにせよ、この子たちはまだ仕事人ではない。

思いやりがあるつもりだが、表現がストレートなので辛口の毒舌家だとぼくは思われている。そういう評判が定まって久しいが、痛くも痒くもない。まったく気にもしていない。ところで、甘口に人気が集中する残念な世の中になった。子どもみたいにほめられ承認されたがる社会人が増殖しているのである。彼らはメッセージの中身よりも表現のほうに強く反応する。ことばが穏やかならほめられたと感じ、ことばがきつければ否定されたと感じる。批判されるよりもほめられるのを望む風潮を、批判する力量のない上司や年長者らがはびこらせている。

別にファインプレーでも何でもなく、普通の仕事ぶりなのに、「なかなかいい出来だねぇ」と上司が部下をほめる。部下はそれに慣れる。組織はぬるま湯になり雰囲気がやわらぐ。しかし、セクハラやパワハラのタブーを恐れる上司たちのもとで「馴致」されていても、部下たちは組織外の顧客や他業界の人々との折衝場面に遭遇する。顧客からの叱責や批判に対する免疫があるはずもない。内輪での切磋琢磨が甘いからこそ他流試合が奨励されてきたのではなかったか。実は他流試合こそが本番なのだ。アウェイのからい本番をしのぐには、それ以上に激辛のホーム環境が必要なのである。


構成員が互いに過剰なまでにほめ合う集団はプロフェッショナルからほど遠く、消費者や一般市民の目には滑稽に映る。組織の甘い採点システムに慣れると社会の辛い採点は受け入れがたくなる。このことと、若い世代が現場に行きたがらず営業職を避けたがる現状とは無関係ではないだろう。話を誇張してなどいない。企業の実態を目の当たりにし研修を通じて何万人もの受講生と接してきた経験に基づいて素朴に印象を描いているつもりだ。なぜ上司と部下の関係心理はこうなってしまったのか。ほめる側(上司)がほめられる側(部下)の心理を読むからだ。そして、ここには他人からほめられたいという上司自身の心理が反映されている。嫌われたくないと思う上司が増えたのである。

一億総活躍社会よりも一億総素人社会のほうが早く実現してしまいそうである。信じることは疑うことよりも穏やかである。ほめることはけなすよりも爽やかである。穏やかかつ爽やかな組織は働きやすいだろう。しかし、働きやすさと仕事ができることは同じではない。信を定立すると疑は反定立として排除され、承認を常とすれば批判は駆逐される。甘さは辛さを拒否する。やがて本来あるべき毀誉褒貶きよほうへんが姿を消す。よく考えてほしい。懐疑するのは信頼のためであり、批判するのは承認のためなのだ。辛さは甘さに対して本来寛容にできている。

甘口と辛口

さあ、ソフトクリームに馴染んだなまくらな舌にタバスコを数滴たらそう。まるで子どものサークル活動のような仕事場を変貌させよう。甘口を辛口に変えようなどと言っているのではない。アメとムチが釣り合う組織風土の復元を構想しているのだ。問いを投げてみよう。ほめる効用を喧伝する人たちはほめそやしてなお後々まで面倒を見てくれるのか。いやいや、そこまで考えてなどいない。ほめることから人間関係を始める者や自己保身のために甘くささやく者は、都合が悪くなるとひどい仕打ちをしかねない。ほめは「ほめ殺し」を孕んでいる。

ほめられても有頂天にならず、さらなる精進につなげる人もいる。他方、ほめられて自己満足に陥り、そこで成長を終える人もいる。タイプの違うこれらの人たちを分け隔てせずに、ぼくは辛口で付き合ってきた。辛口に閉口し気分よろしくない人たちは周辺から消えた。これからも批判精神を基本として自分流でやっていく。その代わり、徹頭徹尾辛口に耐えられるまで面倒を見る。慈悲の精神で最後まで見届ける。これが、批判と表裏一体を成す責任だと自覚している。

2015年の年賀状

年賀状2015年(web版)

生きていくうえで人は環境に適応しなければならない。そのために環境から情報を得て環境を知る必要がある。情報は日々の生活や仕事の場面で人を介してやってくる。しかし、こうして得る情報はささやかであり偏っている。そこで、新聞・雑誌、テレビ、インターネットなどの媒体を通じて体験外の情報に目配りする。古来、書物はそんな媒体の一つとして親しまれてきた。

「一人の子ども、一人の教師、一本のペン、一冊の本で世界が変わる」……一冊の本で世界が変わるなら、一人の人間なら容易に変われるはずだ。
数ある読書の方法から見出しを厳選し、わずか一ページの『読書辞典』を編んでみた。主な読み方の特長、効果、短所のほどを探っている。ご笑覧いただければ幸いである。


あいどく 【愛読】
いつもの本をこよなく好み、繰り返し読むこと。理解は深まるが、「狭読」になることは否めない。

いちどく 【一読】
本の最初から最後まで一通り読むこと。これで分かるかどうかは本の難易度と本人次第である。

いんどく 【印読】
傍線を引き、各種の印をつけ、欄外にメモを書き込みながら読むこと。古本価値が低くなるのが短所。なお、傍線一本やりの読者は「線読」と呼んでいる。

うどく 【雨読】
雨の日に読むこと。晴耕と対なので、晴天日に働くことが前提となる。わが国の平均雨天日は年間約一二〇日。これだけ読書ができれば十分。但し、降雨の地域差があるため、北陸では一八〇日の雨読日があるが、広島のそれはわずか八五日。

おんどく 【音読】
声に出して本を読むこと。幼稚だとする意見もある。斎藤孝が言い始めたのではなく、人類は十九世紀まで音読していたのである。読解効果は不明だが、やった感はある。〔反意語〕 黙読。

かいどく 【会読】
みんなで本を読むこと。参加者はそれぞれ違う本を読むのがいい。ちなみに、当社主宰の《書評輪講カフェ》では書評による発表で会読効果を高めている。

くどく 【苦読】
難しい本と格闘しながら読むこと。学びが少なくても忍耐力が鍛えられる。苦読が被虐的になると「悶読」へと変化する。

げきどく 【激読】
なりふりかまわず懸命に読むこと。傍目には読書ではなく運動に見える。〔類語〕 爆読、烈読。〔反意語〕 軽読。

ざつどく 【雑読】
ジャンルを問わずに手当たり次第に読むこと。クイズ大会に出場する直前には有効な方法とされる。

しどく 【覗読】
電車内で隣席の他人の新聞・雑誌・書籍をのぞき見すること。文脈までは理解できないが、時間潰しにはもってこいの読書法。

すんどく 【寸読】
ちょっとした空き時間にページを適当にめくって読むこと。運がいいと望外のお宝情報に出合う。

せいどく 【精読】
手抜きせずにディテールまで読むこと。ローマ時代の博物学者小プリニウスは「多読よりも精読すべきだ」と言った。正しくは、精読の反意語は濫読。多読かつ精読はハードルが高いが、必ずしも相反するものではない。

そつどく 【卒読】
読み終えることだけを目指して急いでざっと読むこと。牛丼をがっつくようなさもしいイメージがつきまとう。〔反意語〕 熟読、味読。

たどく 【多読】
数多く本を読むこと。読書の専門家たちが推薦する読み方。自腹だと家計を圧迫する。〔類語〕 広読。

たんどく 【耽読】
一心不乱に読むこと。オーラが出ることがある。なお、読み耽った結果、「溺読できどく」にならぬよう注意したい。〔類語〕 熱読。

ながしよみ 【流読】
すでに内容を知っている本に限られるアバウトな読み方。類語の「速読」などもちょっと胡散臭い。

ねんどく 【念読】
本と一体になりたいと祈るように読むこと。宗教や超常現象関係の本の読書に適している。

はんどく 【反読】
批判や敵意を前提にして読むこと。たった一文にも納得・共感してはいけない。〔類語〕 攻読。

ひつどく 【必読】
「これは読むべき本だ」と権威に勧められて読むこと。人生に必ず読まねばならない本などはない。

ふりよみ 【振読】
実際は読んでいないが、書名と目次を見て読んだことにすること。

へいどく 【併読】
複数の本を並行して読むこと。異種知識を有機的に統合できる高度な読み方。ストーリー性のある読み物には向かない。

へんどく 【偏読】
分かる箇所だけを読み込み、分からない箇所を無視する読み方。知識が偏るが、これが一般的な読書だと言われている。

みどく 【未読】
類語の「積読つんどく」は読む気がまったくないが、こちらは一応読む意識だけはある状態。

やどく 【夜読】
夜に読むこと。関連語に朝読、夕読がある。

らくどく 【楽読】
気楽に読むことではなく、読むことを楽しむ読み方。趣味欄に読書と書く人に人気がある。

りどく 【離読】
本を読み漁った結果、読書がすべてではないと悟る心理状態。再び戻るつもりなら「休読」、生涯本を読まないのを「不読」という。 

れんどく 【連読】
一冊の本に刺激を受け、関連する本を求めて読み続けること。

わどく 【和読】
著者と共調しながら波風を立てずに読むこと。平均的教養を身につけるにはいいらしい。


《あとがき》 本の読み方は、環境(人・時代・世界)の読み方の縮図である。

ALLとSOME

一昨日、関東へ赴いた。心の赴くままではなく、半日セミナーで小難しい話をするため。論理とディベートの話だが、論理のほうに軸足を置いた構成にした。この論理というテーマ、二十代に出合った頃は難攻不落だった。三十代になって難しさが小難しさに変わり、薄っすらと明かりが見え始めた。そして、四十代になって輪郭がだいぶはっきりしてきた。『論理的思考』と題して数時間以上話せるようにもなった。

とは言え、この十数年で論理についての考え方は大きく変わった。まず、頭の中の論理的思考など見えるはずがないと懐疑した。便利なことばなので、英語の“logical thinking”ロジカルシンキングも当り前のように使われるようになった。しかし、Aさんの思考自体が論理的であるかどうかは本人にも他の誰にも確かめようがない。Aさんが書いたり語ったりしてはじめて、筋道が通っているかどうかが分かる。論理はことばに宿る……コミュニケーションの論理は思考の論理に先立つ……こんなふうに考えるようになった。論理は他人によく理解してもらうために欠かせない。論理はことばを明快にする上でたいせつであり、その結果として、自分の考えの整理に役立ってくる。

文と文がスムーズにつながっていれば話は明快になる。つながりの役割を果たすのが接続詞だ。論理学では、前の文を前提、次の文を結論などと呼ぶが、その二文を「ゆえに」や「だから」などの順接接続詞で結ぶ。留保したり否定するときは、「しかし」や「だが」などの逆接接続詞を使う。接続詞は二つの文の関係性を明らかにする。さらに、一文だけを見ても、単語と単語の関係や連句・連語という形で論理が機能する。ここに、肯定や否定、選言や連言が加わる。数ある説明のうち、大森荘蔵の『流れとよどみ――哲学断章』の説明が分かりやすい。

「……でない」という否定詞、「……かまたは……」という選言詞、「……でありまた……」という連言詞、「……はみんな」という総括の言葉、それに「何々は……である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書きあげたのが「論理学」なのである。

ALL or SOME

書きたいことは山ほどあるが、話を「……はみんな」という総括に絞る。「みんな(すべて、あらゆる)」と「いくつか(一部、あるもの)」を対比させるほうが話が明快になると思うので、手っ取り早く“ALL”“SOME”で表わしておく。


口癖のように「日本人はみんな」と主張し、「ありとあらゆる要素」と豪語し、「こちらの商品、皆さんお買いになっています」と一般化する。一部の人間の集まりに決まっているのに「みんなの党」が存在したし、「なぜわたしだけ? みんなやってるやんか!?」という大阪ローカルの公共コマーシャルがあった。ALLを含む文や語は威勢がいい割には、実質ALLとはほど遠い。科学の帰納的方法を尽くせばALLに言及できるかもしれない。たとえば万有引力の法則のように。しかし、凡才にはALLは手に負えそうにない。謙虚にSOMEに限定して語っておくのが分相応だと思われる。なお、「ほとんどの場合」というのは、SOMEであってALLではない。念のため。

ALL命題に全幅の信頼を寄せると虚偽の一般化という落とし穴にはまりかねない。「百人中百人すべて」を100/100と表わすとしよう。「全員が男」を証明するなら、帰納的に一人ずつ調べていけばいい。この分母と分子サンプルは少なければ少ないほど検証は簡単だ。中小企業が「当社の社員十人はみんな営業上手である」と、10/10の証明をするのはさほど難しくない。しかし、一億人分の一億人(100,000,000/100,000,000)になると、すべての要素の証明はもはや不可能。数字が大きすぎるとコミカルにさえ見えてくる。したがって、「一億総活躍社会の実現」などは論じたり解いたりできる命題にはなりえず、確証のない幻想的スローガンに過ぎないことに気づく。

評論家の大宅壮一の造語「一億総白痴化」は一時期一世を風靡した。ちなみに「いちおくそうはくちか」をぼくのPCは「一億蒼白地下」と変換した。一億人みんなが白痴になったら地下に眠るご先祖さまは蒼白状態になるだろう。半世紀以上前に生まれたこのことばはテレビ普及が進む世相を批判した。テレビは人から想像力と考える力を奪い、日本人全員をおバカさんにしてしまうという推論。言うまでもなく極論だが、一億総活躍よりも「らしく」見えてしまうのは、ぼくがアマノジャクのせいばかりではなさそうだ。それほど、一億総活躍社会のALLの論理は危うい。叶わぬまでも理念や願いを抱くのはいいことだ。しかし、表現のおもしろさに直感的に飛びついたのだったら、これから先、どうやってコンセプトとコンテンツの辻褄合わせをしていくのか。こじつけっぽくなりそうな予感がする。

一億総活躍社会が今年の新語・流行語大賞の一つに選ばれた。今日のところは選考者を責めないでおく。ともあれ、「一億総○○」は大宅壮一がすでに創案したのであるから、新語とは言えない。だから、流行語として選ばれたことになる。いかにも表現上のファインプレーを狙った感が滲み出ている。そして、流行語であってみれば、一過性の話題特有の短命を予感させる。どう考えても、一億人みんなが活躍できる社会が実現するとは思えない。まだしも、国際競争力を強化したい分野の中小零細企業の人材総活躍を目指すほうが策の立てようもあるのではないか。

知をまとめる

今日は珍しくほとんどもの言わぬ一日だった。原稿用紙にして10枚分くらいの以前書いた文章を元にして、新たに15枚分ほど書き下ろして編集する作業に没頭していた。経験のあるテーマだから書くのにさほど苦労はしなかったが、まとめるのに手間取った。つくづく思うのだが、まとめるという仕事は一筋縄ではいかない。それは、部品を単純に組み立てるのとは違う。部分の足し算では済まないのである。

漢字一文字で「知」と現わせば、知識以外の知的要素が含まれるような気がする。「きみの知識は……」と言うのと「きみの知は……」と言うのとでは暗示されるものが違うだろう。したがって、「知をまとめる」というのは知識を束ねるだけに止まらない。そこには概念化があり要素化があり適正配列がありカテゴリー化があり相互参照がある。うまく言えないが、俯瞰的に見晴らすようなネットワーキング作業が求められる。

フランシス・ベーコンが「知は力なり」と書いたとき、ラテン語では“Scientia”だったから、明らかに「知識」のことだった。もっとも知識だからと言って断片とはかぎらない。部分を寄せ集めた全体はつねに部分の総和以上だからである。あることについて知っている。別のことについても知っている。この二つを統合したらそれぞれの知以上に理解が深まる可能性はあるだろう。だからこそ、知の編集に意味がある。

ところで、ショーペンハウエルがベーコンに異議を唱えている――「知は力なり。とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持たない人もいるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の力を発揮する人もいる」。残念ながら、ショーペンハウエルの反論は空を切っている。なぜなら、なけなしの知識ですごい力が発揮できるのなら、それこそ「知は力なり」の何よりの証拠だからだ。


ほとんどの事の始まりや話の始まりは、導入自体としてはシンプルだ。誰かが「何々の件で……」と言い出す時点では、内容がわかるはずもなく、反応も気楽である。ところが、話が本題に近づいてくると何となく骨太なことに気づく。それは樹木にたとえたら幹のようなものである。幹では理解不十分だから枝葉の情報を求める。その枝葉で分かるつもりが、思いのほかおびただしく、また多岐にわたっているので、統合しきれなくなり途方に暮れる。話が果実や根に広がってしまえばもうどうにもならない。最初の「何々の件ってもっと簡単じゃなかったのか……」という思いがよぎる。

知ろうと思えば情報や知識が増える。分かろうと努めた結果、逆に話が複雑になり混沌とし、知の洪水から逃げ出したくなる。情報や企画や戦略を「まとめて欲しい」という仕事の依頼をよく受けるが、まとめるというのは依頼者が想像するほど簡単な仕事ではない。気が付けば、同輩にも後輩にも難しい話や複雑な話に首を突っ込むのを嫌がる者が増えてきた。歳のせいばかりではないだろう。知識を身につけることよりも、身につけた知識をまとめて活用するほうが実は厄介なのである。まとめるほどの知識がない人間のほうが、だからお気楽なのだ。

推論

さっき書き終えた文章は論理の話であった。論理的に考えるということも知のまとめ作業とほとんど同じである。前提1という知識と前提2という知識を踏まえて(まとめて)、個々の知からは出てこない結論を導くからだ。知識は一個の断片としては大したものではない。むしろ、そんなものに拘泥していては衒学的趣味の域を出ない。知は広がりを得て、また統合によって役に立つようになる。しかし、「知は力なり」だ。力には功罪がある。力を善用するには知を律することを忘れてはならない。

習作した頃 #10

 本になった少年

 

 ある村に記憶力にすぐれた少年がいた。両親は十一歳だと言っていたが、長老によれば十歳だった。名前はテル。テルは村に起こった日々の出来事はもとより、村人全員の戸籍の諸々、村に伝わる故事、動植物の名前や生態などすべてを丸暗記していた。幼い頃から昔話が好きだったので、長老の所に出掛けて行っては一字一句間違うことなくすべて記憶しそらんじることができたという。
 テルの家は裕福ではなかった。それどころか、大工の父親は大工とは名ばかりの生来の怠け者だった。父親の放蕩三昧に耐えてきた母親は、純朴だけが取柄の、これといって目立ったところのない女だった。テルは村でただ一つしかない初級学校に籍を置いていたが、弟と妹の世話や小さな畑の手伝いに日々追われてほとんど通っていなかった。
 テルの家に本は一冊もなかった。両親はテルが学問に興味があることを承知していたが、父親はそのことを好ましく思っていなかった。暇さえあれば訳の分からないことを暗誦しているテルの姿を見て、父親はよく怒鳴ったものだ。
 「いい加減にしないか! そんなものはいくら覚えても飯の種にはならん。さっさと大工見習いでもやれ!」
 安物の強い酒をあおりながら父親は罵声を浴びせかけた。テルはその父親を見て悲しくなった。しかし、決して憎むことはなく反発もしなかった。叱られると、父親の大工道具の手入れや畑仕事に取り掛かった。そうしながらも、父親に聞かれぬように、長老に教わった話をつぶやいていた。
 テルは偉い人になりたいと思っていた。そのためにどうしても本が読みたかった。耳から覚えるばかりだから、自分で文字を読んで覚えてみたいと思っていた。
 (ああ、本が欲しい。ぼくのこの目で字を読みたい)
 知識への興味はつのるばかりだった。

 ある日のこと。母親の用事で隣り町に使いに行くことになった。何度か行き来したことのある単調な光景が続く一本道である。往復だけで半日もかかる道のりで、十歳そこそこの少年にはきついはずだったが、テルの目にはいつもあらゆるものが珍しく映っていた。小金持ちの主人宅で用事を終えて帰ろうとしたテルに、主人は駄賃として10エルシス硬貨を二枚くれた。小遣いなどほとんどもらったことのないテルに硬貨は輝いて見えた。
「いいかい、テル。お前が正直者だということは知っている。だけどな、親父には一枚だけ渡せばよい。もう一枚は内緒だ。お前の好きなものを町で買って帰ればいいぞ」と主人は言った。
きちんと礼を言ってテルは往来に出た。10エルシスで母親に生地を、弟と妹に菓子を買って帰ろうと思った。いつも用事が終わるとまっしぐらに村へ帰るテルだが、まだ日が高いので、町の知らない場所をほんの少し歩いてみることにした。村とは違っていろんな店が立ち並んでいる。ふと、本屋の看板が目に入った。恐いものに近づくようにしてテルは本屋の店先に立ち、中を覗き込んだ。二枚の10エルシス硬貨の輝き以上にまぶしい光景だった。知恵の泉が湧いているように思えた。
(本だぁ。本がいっぱいあるぞ!)
テルは我を忘れていた。店に引き込まれ貪るように背表紙に触り始めた。薄汚れた小さな丸い手で一冊の本を引っ張り出してページをめくる。アルファベットは読めたし直感で単語も理解できたが、なにしろ適当に選んだ本だから知らない言葉だらけだった。しかし、いま本を手にしている喜びは至上のものであった。
その本を元に戻し、テルは他の本の背表紙を追った。高い位置に置かれていた一冊の本に目が止まり、その本を背伸びして手に取り、夢中になって読みふけった。十分に意味がわかるはずもなかったが、もし店主が声を掛けなかったら日暮れまで読み続けたに違いない。
「坊主、えらく気に入ったようだな」と店主が言った。
テルは立ち読みを咎められるのではないかと身構えた。それでも、その本を元に戻せない。本の重みがずっしりと手に伝わってくる。その本を買って帰り、父親に隠れて読んでいる姿さえ浮かんできた。
「この本が欲しいんだけど、これはいくら?」とテルは尋ねた。ポケットに手を入れ10エルシス硬貨が二枚あるのを確かめた。
白髪頭の店主は眼鏡を外してテルが差し出した本を見て言った。
「ほほう、まだ10歳かそこらなのに大したもんだ。でもなあ、この本は少年には無理だ。あと5、6年経たないとわからんだろうな。ちょっと待ちなさい」
そう言うと、店主は椅子から立ち上がり奥の書棚の方へ歩き始めた。テルは店主の背中に向かって叫んだ。
「これがいい! これが読みたいんだから!」
テルの必死の声と真剣な目つきに店主は苦笑いをした。しかたがないかという表情を浮かべた。
「そうかい。お前さん、いい心意気だ。名前は何と言う?」と言って椅子に座り直した。
「テル。テルだよ」とテルは告げた。
「それはそうと、テル、この本はお前さんの小遣いじゃ買えんだろう」と店主は言った。
「大丈夫さ。お金はあるから」とテルは胸を張った。
「そうか。25エルシスだが、20にしてあげよう」と店主は言った。
「20!? それは……」と言いかけたテルに、店主が「ほらね、この本は値が張るんだから」とつぶやいた。
「20は無理だよ。20は持ってるけど、10しか使えないから」とテルはみるみるうちに悲しい表情になった。
「いいかい、テル、10だとあっしに儲けはないよ……」
店主はそう言いながら、今にも泣き出しそうなテルの落胆ぶりを見逃さなかった。
ひっそりとした本屋の中で店主とテルが黙ったまま向き合っている光景は、往来から眺めるとちょっと奇妙な巡り合わせに見えただろう。テルはポケットの中の10エルシス硬貨を汗ばんだ手で握りしめながら言葉を失い、店主はどうしたものかと思案して黙るしかなかった。やがて店主は自分に向かってつぶやくように静かな口調で話し始めた。
「テル、いいだろう、10だけ置いて行きな。この本はお前さんのものだ。さあ、いいから……。だけどな、本というのは見てくれや拾い読みするだけじゃわかるもんじゃない。どこで手に入れた金か知らないが、お前さんの思うほどためにならんかもしれん。むだ遣いになるかもしれん。持って帰って何日もかけて読めばいい。気に入らなければついでの時に返しにきなさい。その時には10エルシスも返してあげよう。もし気に入ったら、残りの10をあっしにめぐんでやってくれや」
テルは何度も礼を言った。大きな声でありがとうを繰り返した。
日暮れまでに帰らないと母親が心配する。テルは一目散に一本道を脇目もふらずに走った。生地のことも菓子のことも忘れていた。生地と菓子の代わりになった本を大事そうに小脇に抱えて、テルは駆けた。

 大工道具の手入れと畑仕事は相変わらず毎日の日課だった。ほんのちょっとした合間を見つけてテルはこっそりと本を読んだ。隅から隅まで何度も読んだ。知らない言葉は長老に教えてもらった。読まない時は本を納屋に隠していた。駄賃の残りの10エルシスを渡してからは父親は機嫌を損ねることは少なくなったが、万が一本を見つけられたら、ひどいことになるとテルは恐れていた。
十日ほど過ぎた頃にはテルは本に書いてあることはすべて覚え諳んじることができた。テルの暗唱ぶりに感心した長老はご褒美に5エルシスの小遣いをくれた。この5エルシスとこれまで自分でこつこと貯めた5エルシスで10になる。テルは隣り町に行くことにした。母親に隣り町に使いに行く用事がないか尋ねた。うまい具合に、母親はテルに用事を頼もうと思っていた矢先だった。テルはポケットに二枚の5エルシス硬貨を入れ、本を大切に小脇に抱えて出掛けていった。
 本屋に入ると本の匂いがした。テルはこの前と同じように心の昂ぶりを覚えた。
「おじさん、ぼくだよ、覚えてる?」とテルは店主に声を掛け、「約束した10エルシスを持ってきたよ」と誇らしげに言った。
 店主は笑顔もなく、ただ眼鏡の奥のやさしい眼差しだけを光らせた。テルは息を飲んだ。しばらくして、店主は脇に抱えた本に目をやり口元をほころばせて言った。
 「たしかテルだったかな……。お前さん、その本を全部読んだのかい? おもしろかったかい?」
 「全部読んで、全部覚えたよ」とテルは口を一文字にして胸を張った。
 「全部覚えた……。そうか、なんて賢い子なんだ、お前さんは。たまげた」と店主はつぶやいた。そして、続けた。
 「それなら、もうその本はお役御免だな。すべて覚えて暗唱できるんなら、もう本などなくてもいいだろう。頭の中に本が入ってしまったんだからな」
 そう言うと、店主は引き出しから10エルシスを取り出して、テルの手に握らせた。
 「この前にお前さんが払った10だ。今持ってきた10は受け取らない。その代わり、すっかり覚えてしまったその本を置いていきな」と店主は言った。本を受け取った店主は背後の書棚に向かい、一冊の本を取り出して埃をぬぐった。
 「お前さんにはたまげたよ。うんと本を読めばいい。この本を持っていきなさい。また覚えたら返しにくればいい」と店主は言った。
 テルは目を輝かせて本を受け取った。「読んでいいの?」としか言えなかった。その本をしっかり小脇に抱えて踊り跳ねるように帰って行った。母親の用事のことは忘れてしまっていた。
帰り道、テルは「頭の中に本が入った、頭の中に本が入った」と何度もつぶやいた。

 テルのこんな日々はその後何年も続いた。店主は代金を受け取らずにテルに本をあてがい続けた。テルはすっかり大きくなっていた。読んだ本は百冊に達しただろう。そのすべてを覚えていた。十歳の頃に読んだ本さえも一字一句間違いなく暗唱できた。文字通り百冊の本が頭の中に入ったのである。
本になった青年

 本を読み耽った数年間、テルは家族以外の誰ともほとんど会話をすることがなかった。テルの少年期の日々は本とともにあった。世間から離れ本の中に閉じこもっていた。テルの世界は本そのものであった。もちろん誰の目にもテルは人間の姿に見えていたが、すでにテルは人間ではなかった。世間をまったく知らない、考えることのできない本そのものと化していた。

岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉