当然のことだが、食べることを思うと料理について考えるし、料理をしていると食べることを連想する。料理する人と食べる人が別だとしても、料理と食べることはつながっている。その料理の「料」は「米」と「斗」でできている。昭和三十年代の米屋の店先、升に盛った穀類を斗掻という棒で平らにならしていた光景をよく目にした。一斗分(10合)を量っていたのだ。「料る」が「はかる」と読めるのはおもしろい。この料に理がついて料理になる。理は良し悪しの判断だから、料理にはすでに「考える」という意味が含まれていることになる。だから、厳密に言うと、「料理を考える」という見出しは同語反復なのである。
料理に健康概念を持ち込む人がいる。やり過ぎではないかと思う時がある。もうだいぶ前の話。ある企業の幹部らと同社の戦略について会議をしていた。相談を依頼されたのはぼくと他社のコンサルタント。話が煮詰まってきたものの最後の詰めへと進めない。ちょうど昼食時間となり、弁当が配られた。誰もが、ことば少なに、包みを外してふたを開け、箸を手にして食べ始めた。コンサルタントの方に目を向けると、弁当を顔のあたりまで持ち上げて底のラベルを読んでいる。しばらくして、「添加物が多いので、やめておきます」と言い、部屋を出て行った。
小一時間して戻ってきた。外食してきたかどうかはわからない。仮に腹ごしらえしてきたとして、また、それが日替わり定食か何かだったとしても、定食に使われた化学調味料や添加物、さらには加工品にどんな保存料が使われていたか、知る由もなかっただろうし店で説明を受けたはずがない。体躯の貧相な、そよ風に吹かれてもふらつきそうな男性だった。見るからに病的であった。食は細かったに違いない。それはそうだろう、弁当が出されるたびに拒否していたのだから。
医食同源という美徳的な考えに逆らうつもりはまったくない。ただ、病人の身体をおもんぱかって食事の理を料ることと、ひとまず普通に生活している健康な人間が食事を考えることは同じではない。病人の食養生は食を以て医を施すことにあるから、医と食を一体と見なして不都合はない。あのコンサルタントはそんな指導を専門家に受けていたのだろうか。ともあれ、まずまず健康であると自覚している者が、食事のたびに栄養バランスだの添加物だのに気を奪われているのは滑稽だ。味わいも食事の楽しみも半減するに違いない。
数年前になるだろうか、東京駅で東北新幹線に乗り換える際に弁当を買った。車中弁当など何でも良さそうだが、講演の前などは胸焼けやげっぷしそうな食事は禁物。だから、少々思案することがある。品定めをしていたら、48品目弁当なるものを見つけた。こういう弁当に手を出すことはめったにないのだが、若干体調不安を抱えていたので、「これはヘルシーかも?」とミーハーな表現を思い浮かべ、これまためったに起こらない気分に支配されて買い求めた。
新幹線の席に着いて弁当を食べ始めた。おかずを口に運ぶたびに素材を数えていた。ほんとうに48品目も使っているのか興味津々だった。ひじき、枝豆、ごま、たまご、各種野菜……ていねいにカウントした結果、うたい文句通りの品目をほぼ確認した。ぼくとしたことが、不覚にも、健康によいという意識で弁当を食べた半時間。お利口さんのランチタイムのようだった。通路を挟んだC席の男性は、ワイルドに深川めしを食っていた。アサリ、ハマグリなどの貝をたぶん三種ほど乗せた丼。せいぜい五品目だ。実にうまそうだった。そして、健康的に見えた。食べたいものを食べたいときに食べるのがうまい。そして、うまいものを食べれば元気になれる。