甘口と辛口

幼稚園児や小学低学年の子らは思う存分にほめそやしてあげればよろしい。笑顔だけでなくことばでもほめ、いい気分にさせてあげる。不出来を分析して理屈っぽく説明しても、やる気を失くすだけだ。出来不出来にかかわらず、行為そのものを評価してあげる。それが自発的な頑張りのきっかけになる。もっとも、こんなふうにやる気の醸成に手を差し伸べても、やがて分別がしっかりしてくると、自他を比較して自分の出来具合を判断するようになる。その頃になると、ほめるだけでは動機づけが難しくなってくる。いずれにせよ、この子たちはまだ仕事人ではない。

思いやりがあるつもりだが、表現がストレートなので辛口の毒舌家だとぼくは思われている。そういう評判が定まって久しいが、痛くも痒くもない。まったく気にもしていない。ところで、甘口に人気が集中する残念な世の中になった。子どもみたいにほめられ承認されたがる社会人が増殖しているのである。彼らはメッセージの中身よりも表現のほうに強く反応する。ことばが穏やかならほめられたと感じ、ことばがきつければ否定されたと感じる。批判されるよりもほめられるのを望む風潮を、批判する力量のない上司や年長者らがはびこらせている。

別にファインプレーでも何でもなく、普通の仕事ぶりなのに、「なかなかいい出来だねぇ」と上司が部下をほめる。部下はそれに慣れる。組織はぬるま湯になり雰囲気がやわらぐ。しかし、セクハラやパワハラのタブーを恐れる上司たちのもとで「馴致」されていても、部下たちは組織外の顧客や他業界の人々との折衝場面に遭遇する。顧客からの叱責や批判に対する免疫があるはずもない。内輪での切磋琢磨が甘いからこそ他流試合が奨励されてきたのではなかったか。実は他流試合こそが本番なのだ。アウェイのからい本番をしのぐには、それ以上に激辛のホーム環境が必要なのである。


構成員が互いに過剰なまでにほめ合う集団はプロフェッショナルからほど遠く、消費者や一般市民の目には滑稽に映る。組織の甘い採点システムに慣れると社会の辛い採点は受け入れがたくなる。このことと、若い世代が現場に行きたがらず営業職を避けたがる現状とは無関係ではないだろう。話を誇張してなどいない。企業の実態を目の当たりにし研修を通じて何万人もの受講生と接してきた経験に基づいて素朴に印象を描いているつもりだ。なぜ上司と部下の関係心理はこうなってしまったのか。ほめる側(上司)がほめられる側(部下)の心理を読むからだ。そして、ここには他人からほめられたいという上司自身の心理が反映されている。嫌われたくないと思う上司が増えたのである。

一億総活躍社会よりも一億総素人社会のほうが早く実現してしまいそうである。信じることは疑うことよりも穏やかである。ほめることはけなすよりも爽やかである。穏やかかつ爽やかな組織は働きやすいだろう。しかし、働きやすさと仕事ができることは同じではない。信を定立すると疑は反定立として排除され、承認を常とすれば批判は駆逐される。甘さは辛さを拒否する。やがて本来あるべき毀誉褒貶きよほうへんが姿を消す。よく考えてほしい。懐疑するのは信頼のためであり、批判するのは承認のためなのだ。辛さは甘さに対して本来寛容にできている。

甘口と辛口

さあ、ソフトクリームに馴染んだなまくらな舌にタバスコを数滴たらそう。まるで子どものサークル活動のような仕事場を変貌させよう。甘口を辛口に変えようなどと言っているのではない。アメとムチが釣り合う組織風土の復元を構想しているのだ。問いを投げてみよう。ほめる効用を喧伝する人たちはほめそやしてなお後々まで面倒を見てくれるのか。いやいや、そこまで考えてなどいない。ほめることから人間関係を始める者や自己保身のために甘くささやく者は、都合が悪くなるとひどい仕打ちをしかねない。ほめは「ほめ殺し」を孕んでいる。

ほめられても有頂天にならず、さらなる精進につなげる人もいる。他方、ほめられて自己満足に陥り、そこで成長を終える人もいる。タイプの違うこれらの人たちを分け隔てせずに、ぼくは辛口で付き合ってきた。辛口に閉口し気分よろしくない人たちは周辺から消えた。これからも批判精神を基本として自分流でやっていく。その代わり、徹頭徹尾辛口に耐えられるまで面倒を見る。慈悲の精神で最後まで見届ける。これが、批判と表裏一体を成す責任だと自覚している。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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