悲しき食品

自分で調理するにせよ店で食べるにせよ、一人の食事で食べものを残したことはない。好き嫌いがまったくないからでもあるが、食べられる分しか作らないし注文しないからである。しかし、数人または団体での食事となると、料理は残ってしまう。食べられた量よりも多い食べ残しは悲惨な残骸と化す。これをMOTTAINAIもったいない“の精神で使ったりすると、横流しだ、使いまわしだと批判される。ゆえに捨てる。

直近のデータによると、わが国の食品廃棄量は年間1,900万トンとのことである(2,700万トンという数字をはじき出している調査もある)。何かと比較しなければ、この数字がどの程度なのかを想像するのはむずかしい。さらに、この数字とは別に、まだ食べられる消費期限・賞味期限内なのに捨てられている、いわゆる「食品ロス」が500万~900万トンと推定されている。要するに、捨てられる食品の総量は2,500万~3,000万トンという数字に達するらしいのである。

こんなふうに数字を挙げられて、「すごい」と驚いたり「ひどい」と嘆いたりできるはずもない。力士の体重150キログラムなら、「そうか、自分の倍くらいか」などと類推できるが、なにしろ1,000万トン単位の重量である。想像の範囲には収まらない。重量だからわかりにくいと思うのなら、金額換算してみればどうか。実際、換算されたデータがある。総額100兆円を超すそうである。百万円や一千万円、頑張れば、あの強奪事件の3億円くらいまでなら何とかついて行けそうだが、兆までは無理である。


大きな数字というのは、左から右へとやり過ごされる幻想だとつくづく思う。しかし、わが国の食品事情をもっとわかりやすく嘆き悲しむ手立ては、ある。まず、「食べられるのに捨てている」という事実がひどいのである。何百グラムでも何万トンでも関係ない。次に、わが国の食料自給率はカロリーベースで39%であり、残りを海外から輸入している。上記で示した食品廃棄物の数字は、輸入食料の半分に相当する。つまり、海外から買い付けておいて、その半分を捨てている勘定になる。これはかなりひどい。

ひどさを痛感するとどめは、食品廃棄の総額がほぼ東京都のGDPに匹敵するという事実だ。東京都の年間総生産が灰燼に帰し水泡に帰しているのである。東京を一国に見立てれば、GDPランキングで世界の16位になる。以前、世界ランク54位のニュージーランドのGDPがウォーレン・バフェットとビル・ゲイツの総資産の合計と同じと聞いてたまげたことがあるが、わが国の食品廃棄の実情には腰を抜かしそうになる。

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捨てるために食品を輸入し、捨てるために食品を加工しているようなものである。もし10個作って売るために11個が必然で、1個が「間引き」扱いされるのならやむをえない。この程度の売れ残りや期限切れには理解を示そう。しかし、最上流に位置する大手企業の、計画通りにならない作り過ぎこそが元凶なのだ。元凶はけろっとしてちゃんと儲けている。横流しや使いまわしも低俗だが、そうさせているのはいったい誰なのかを見極めておかねばならない。

残りものの食品が廃棄物という名に変わるのは、社会が効率やシステムを優先する文明指向だからである。文明というのは厄介で、後戻りを許さない。不法な横流しは論外として、「食品→廃棄→再食品化」に何の問題もない。これこそが本来の食文化の姿ではなかったか。しかし、作り過ぎは食文化の文明化にほかならない。グルメ大国だの食の宝庫だのと言ってみても、単に腹八分目の節度と美学を放棄してしまっただけの話ではないか。解決策は一つしかない。廃棄してもなお利益が生み出される構造を消費者が幇助しないことだ。上手に無駄なく食べることが「悲しき食品」を救い、無駄を作って上手に儲ける食文化の敵を追放するのである。

気の向くまま雑記

「気まぐれ雑記」を書く気になったが、先月と同じ題名では芸がないので、今回は「気の向くまま雑記」とした。次に書く時はまた一ひねりしなければならない。


ダリⅠ  「背徳的にして多角経営的、無政府主義者にして超現実主義者であるダリ、ルイス・ブニュエルと映画『アンダルシアの犬』や『黄金時代』を共同でつくったあのサルバドル・ダリをめぐる手紙の公刊は、何にもまして美味であるにちがいない」という一文がある。誰が書いているのか? ダリ自身である。ダリの『ダリとダリ』という本の「はじめに」の冒頭である。他人事のように堂々と書いているのがすごい。

ダリⅡ  二週間前に「日曜美術館」を観た。ダリのことばが紹介されていた。「もっとも写実的な絵がもっともシュールリアリズム」。そうかもしれない。たしかダリ自身が言ったと記憶しているが、コッペパンを精細に描けば描くほどレンガのように見えてしまうらしいのだ。ぼくにもそんな体験がある。写実的に描いたつもりの対象が別のものとして立ち現れてくる。それはまさにシュールだろう。

ヒルガオ  ルイス・ブニュエルと言えば、仏伊映画『昼顔』の監督でもある。主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。アサガオしか知らなかった十代半ばの少年は初めてヒルガオの存在を知った。ところで、アサガオはヒルガオ科に属する。昼のほうが朝よりも大きな概念なのである。あのようなストーリーの映画の題名に『朝顔』は清々し過ぎる。『昼顔』のほうがあやしさが出るから、妥当なタイトルであった。

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ブラックフライデー  昨日のこと。遠目に頻繁な人の出入りが見えた。近づくと店内はごった返している。「50%OFF」が目に入る。疎い世界なので、飲み込みに時間がかかった。そうか、これが噂のブラックフライデーか……。しかし、「今日はサタデーではないか」と思いつつ、入ってみることにした。

冬である。オフィスのぼくの席はエアコンの位置から遠い。暖房を入れても寒いのである。だからスーツの上着を着たままデスクワークをする。カーデガンを置いていたこともあるが、どういうわけかしっくりこなかった。そんなこんなの思いがよぎって、オフィス用にこの一着を選んだ。定価12,900円の半額ということは……と暗算していたら、この商品は3,900円だった。なんと70%OFFだ。定価との差が大きい。そうか、それで“GAP”なのか。

ハピネス  ここまでの小見出しに合わせてカタカナで表記する。幸せは英語で“happiness”だが、昔から「ハピネス」の語感にあまり幸せを感じたことがない。たまに「ハッピネス」とも発音するが滑稽味が出てしまう。なお、「はっぴねす」と入力してもカタカナ変換してくれない。

いつもの寺の今月の標語に「幸せとはご恩を見つけること」とあった。幸せの代わりに「ハピネス」と書けば有難味が薄くなる。さて、幸せとはご恩を見つけることなのか。そうではないと思う。幸せは見つけるものではなく、感じるものではないか。幸せを感じる人が幸せになれるのではないか。

アメ  机の上にスーパーメントールののど飴がある。置いているだけでめったに口に放り込まない。喉が痛まないようにというおまじないみたいなものだ。机の上にアメ、外もアメ。外で用事があったが断念して引きこもることにした。音楽でも聴くか。どんな音楽を聴くか。雨の曲はどうだろう。

雨は歌詞になりやすく曲を付けやすそうである。調べてみればきっと雨をテーマにした歌はいくらでも出てくるに違いない。しかし、晴天はどうか。歌にしにくいのだろうか。青々とした空の歌は思い浮かばず、洗濯機の「青空」しか出てこない。青空が出てきたら「からまん棒」である。知っている人は知っている、知らない人は知らない。

苦楽同居説

「いちず」だの「一意専心」だのと言っても、したいことやしなければならないことを一つに絞るのは凡人には容易でない。仮に一つに絞れたとしよう。それでも、相容れない二つの要素の葛藤がありうる。それらを「両立」させようとする。しかし、そもそも両立ということばに出番がある間は成就への道は遠い。仕事と家庭、趣味と仕事……最近はやりのことばを引き合いに出せば「ワーク・ライフ・バランス」だが、調和を目指そうとする時点でワークとライフが元々調和しにくいことを認めていることになりはしないか。

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「楽は苦の種」「苦は楽の種」という。もし因果関係だけを説いているのだとしたら、矛盾をはらむことになる。今日楽ばかりすると明日に苦労が増える、だから今日苦労しておけば明日は楽になれる。こんなふうに解釈すると、今日楽をしたら明日は苦しむが、明日苦しむので明後日は楽になり、明後日の楽は……と、苦と楽が交互に日替わりでやって来ることになる。

苦が先にあって楽が後にあるのではないし、楽の後に苦がやって来るのでもない。楽には苦がつきまとい、苦の中にこそ楽がある。苦と楽は相伴う。あるいは同期する。苦楽は同じ屋根の下で同居しているのだ。楽を、「らく」ではなく「たの(しい)」、つまり歓びと考えると、苦楽同居説にうなずけるはずである。


こんな遠回りな話をしなくても、自分の仕事や趣味、スポーツのことを考えればわかることだ。好きな対象があり、それを楽しもうとする動機も意欲もある。対象をレベルアップしたりものにしたりできれば歓びとなる。結果だけが歓びではない。過程に身を置くこと自体が歓びなのである。その過程では上昇志向に伴う刻苦精励が欠かせない。刻苦は楽しみの前段階に位置するのではなく、歓びの付属品のようなものだ。快を求めて快を実感しながらも、その快は「快苦」と呼ぶべきものなのである。

苦か楽かと考えると二律背反になる。同様に、好き嫌いで生きるのも、得意不得意で生きるのも、両者相容れないという前提に立つ。すなわち、事をするにあたって居心地の良し悪しが優先判断されている。人生の辛酸がわからぬ幼児ならまだしも、一人前の人間が苦や嫌いや不得意を避けて、楽や好きや得意だけで生きれば、自己免疫力が高まるはずもない。

「好きこそものの上手なれ」を買い被ってはいけない。好きな事には必然熱中するから上達が早いなどというのは希望的美談に過ぎない。好きの対義語は嫌いとされているが、嫌いを排除した後の好きに、別の対義語が立ち現れる。たとえば、面倒くさいがそれだ。あの店のラーメンが好きだ、しかし雨の中を歩くのは面倒、しかたがない、カツ丼の出前でも頼むか……好きと面倒くさいが対立して、面倒くさいの顔が立ってしまう。苦と楽が同居するように、好き嫌いも得意不得意も同居する。砂金とただの砂を選別するような調子でいいとこ取りはできない。人生にも仕事にも苦楽の線引きはなく、苦しいけれど楽しく、楽しいけれど苦しいものなのだろう。

並べ替え

ものは言いようと言われる。言いたいことは一つでも、表し方はいくらでもある。だから、ことばの表現をあれこれと吟味することになる。しかし、ものは言いようだけにとどまらない。ことばの配列にも意を注がねばならない。ものは並べ替えようでもあるのだ。

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ここに簡単な計算式が4つある。伝えようとしている数字の関係性は同じ(23を足すと5になるという関係性)。しかし、数字の配列を変え、の表現にしてみると、意味も変わるような気がするから不思議だ。並び方が変わって、視座が変位するのである。


Normal

豊かにして貧しく

健やかにして病み

微笑んでいても寂しく

颯爽として疲れている

Reverse

貧しくても豊かで

病んでいても健やか

寂しいのに微笑み

疲れても颯爽としている

こんなはずじゃなかった……

民主主義が完全だとは思わない。その完全でない民主主義社会の意思決定方法である裁判や選挙が完全だとも思わない。しかし、不完全な民主主義に代わるオプションが発明されるまでは、裁判や選挙の結果が己の意に反したとしても、潔く受け入れるしかない。アメリカの次期大統領がドナルド・トランプに決まった。反対派は怒りや怨念を早々に鎮めて、今後はしっかりと働きぶりを検証し、必要に応じて批判するのがいい。何を決めるにせよ、思惑が外れた側は言う、「こんなはずじゃなかった……。」

四か月前の本ブログで『思惑外れ』と題して書いた。最後の段落を次のように締めくくった。

トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。

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素人が三人寄って文殊の知恵になるのなら、エリートや専門家が何人も集まれば超文殊の知恵になると思ってしまう。しかし、買いかぶりは禁物である。新国立競技場や豊洲市場の顛末は、専門性に罠や陥穽がつきものであることを示した。専門家もメディアの見解や推理もたかが知れているのである。

「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とニューヨーク市民に皮肉られたトランプ。反知性主義者を諷刺的な戯画にしたら、あのような人物、あのような話し方・ことば遣いになるのだろうとぼくも思っていた。その反知性主義の権化が勝った。得票率を見れば、アメリカ人の半数が支持したのである。既存体系における知性の象徴、ヒラリー・クリントンと互角の評価を受けたことを素直に認めざるをえない。


「トランプが大統領とは情けない」と嘆くなかれ。その情けないトランプに敗北したクリントンはさらに情けない存在になったのだ。ところで、トランプを反知性主義者だとぼくは書いた。そのトランプが大統領になったのは、アメリカが反知性の風土へとシフトしている兆しの証だろうか。必ずしもそうとは言えない。反知性派だと胸を張る中に知性派がいたりして、知性と反知性に明確な線引きができないのである。「クリントン=知性」に立ち向かうには、反知性という対抗スタンスは戦略的に必然であった。多分にそのように演じたはずである。だから、既存の知性にうんざりした知性派なら「隠れトランプ」になった。つまり、トランプ支持者でありながら、支持者であることを明かさなかった人たちである。

タイガースの話で盛り上がっている時に、その場にジャイアンツファンが居合わせているとしよう。賢明な人なら話に適当に順応してその場をやり過ごすだろう。大阪にはそんな「隠れジャイアンツ」が少なからずいるのだが、めったなことではファンであることを明かさない。会議の席上にしても同じことが起こっている。人は時に自論を露わにする一方で、場の状況を見ながら自論を隠す。どんな職場でもホンネとタテマエが入り混じり、何がホンネで何がタテマエかは、実はわからなくなっている。

1960年のジョン・F・ケネディ(民主党) vs リチャード・ニクソン(共和党)がもっとも古いぼくの記憶である。以来、米国大統領選挙を十数回「観戦」してきた。2000年のジョージ・W・ブッシュ(共和党) vs アル・ゴア(民主党)は史上稀に見る、獲得選挙人数「271 vs 266」という大接戦で、速報から目が離せなかった。今年の選挙はそれに劣らないスリリングな展開、結果となった。

負けた候補者に投票した市民はつぶやく、「こんなはずじゃなかった……」。そう、選挙のみならず、人生、いつも何かにつけて「こんなはずじゃなかった」という思いは生じるのだ。「こんなはずじゃなかった」が案外多いのだから、負けていつまでもむのではなく、頭を切り替えるのが一つの身の処し方なのである。

ターゲティング極まる

ワンフロアーにおびただしい種類の品々を揃えて売る店がある。百円ショップとスーパーマーケットとコンビニなどだ。食料品や日用雑貨はたいてい間に合う。こうした何でも屋は誰にでも門戸を開いている。十分条件は満たせないが、不特定多数の必要条件ならある程度は満たす。かつてはすべての業種でこんな万屋よろずやが五万とあった。しかし、「大衆から分衆の時代へ」と言われ始めてから、もう三十年の歳月が過ぎた。今日、多様化が進み、大半の店は専門色を色濃く出さなければ生き残れなくなった。

「出掛ける時は忘れずに」というスローガンで有名な大手クレジット会社のDMが来た。DMは忘れた頃に送られてくる。以前この会社のゴールドカードの会員だったが、複数のクレジットカードの年会費がバカにならないので、整理対象にした。もちろん会員履歴が残っているから、ぼくの個人情報はリストに入っているに違いない。今回のDMは個人カードの復活を促すものではなく、法人のビジネス・プラチナカードの案内。年会費が消費税別で130,000円という「怖ろしいカード」だ。

DM20cm×20cmの正方形サイズで12ページ。不特定多数を対象にしているはずもない。ターゲットを絞り込んで想定している。十数年前ならいざ知らず、今のぼくをそのターゲットに含めているのは買いかぶりである。では、ターゲットは誰か? 景気のいい会社の経営者かプロフェッショナルであり、ステータス志向者であり、そこそこのインテリジェンスを備えた顧客のように思える。なぜインテリジェンスを備えた顧客かと言えば、表紙をめくった表紙裏のページがいきなりこれだからだ。

働く喜びが仕事を完璧なものにする。
――アリストテレス


哲学者の名前に違和感を覚えたり尊大な姿勢に見えたりする人が共感するはずもない。アリストテレスに響く可能性の高いターゲットを定めているはずである。ページをさらにめくると、次に出てくるのがアリストテレスの師匠筋のことば。

世界を動かそうと思ったら、まず自分自身を動かせ。
――ソクラテス

さらに続く。

最も生きた人間とは、最も年を経た人間のことではない。最も人生を楽しんだ人間のことである。
――ルソー

「最も生きた人間」というこなれない翻訳的表現に違和感があるが、見逃そう。とどめはこちら。

うまく使えば、時間はいつも十分にある。
――ゲーテ

偉人たちのキーワードを並べると、働く喜び、仕事、世界、自分自身、人生の楽しみ、時間……ということになる。こうした概念がそこそこのステータスに辿り着き、さらに上を目指す人たちに訴求し、カードを手にしたくなるという目論見のようである。このDMの効果のほどは知る由もないが、何を売るか、何を伝えるかという古典的マーケティング手法でないことは確かだ。誰に売るか、誰に伝えるかというターゲティングを意図している。

targeting

人は他人と同じものを欲しがり、何が何でも欲しがるというピークはとうの昔に過ぎている。要らないものは要らない。たとえ欲しくてたまらなくても、要らないものは手にしないというのが当世の傾向である。“Marketing”を修正して“Targeting”に置き換える時代ということだ。定価500円の商品を100人に売って5万円を売り上げるのではなく、定価5万円の商品を一人に売る。売上額は同じである。

そのつど無い知恵を絞って、手作りさながら少人数ターゲットに多品種小量を提供する仕事をしてきた身である。そこに仕事の楽しみを見い出してきたのが精一杯の自負かもしれない。研修の仕事一つを取っても、ターゲティングが極まっている。千人集めて話すようなテーマに挑むよりも、せいぜい十人、二十人程度の極小勉強会のほうがやりがいがある。欲張ってターゲットを広げると画一的にならざるをえない。画一的であるということは、一人ひとりの個性や個別ニーズに目を向けていないということにほかならない。

時間の自浄作用

何ヵ月か前に故障していたフランス製の掛け時計が偶然動き出し、機嫌よく動いていたが、数日前から時の刻みが遅れ出した。現在37分の遅れである。何に対して遅れているのかと言えば、「正規の時間」に対してである。しかし、この時計、遅れていることを気にしているようには見えない。堂々とした遅れぶりである。

今日は月曜日。自宅にいて養生している。先週水曜日の出張明けに喉の痛みがあり、大事に到らないようにと在宅で仕事をすることにした。翌日の木曜日、オフィスで仕事をして早々に帰宅した。金曜日に休み、土曜日と日曜日を挟んで今日である。大した症状でもないのに、これほど自宅で時間を過ごすのは何年ぶりだろうか。仕事は職場のほうがはかどる。しかし、在宅ワークには、疲れたら横になれるという長所がある。

ふだんとは違う時間がある。「時間が流れる」という表現があるが、時間に目盛りなど付いていない。時計は時間の流れを感知できない人間の発明品である。数日間独りの時間に向き合うと、時間感覚の変化を体験する。時計による時間経過の確認ではなく、たとえば窓外の明から暗への移り変わりに時間を認識する。そして、「ああ、あっという間に時間が過ぎた」などとも思わず、また、ろくに仕事ができなかった数日間への悔悛の念もなく、時間が時間そのものを自浄していることに気づく。常日頃正規品の時間に生きている者が自分の時間に救われるかのようだ。


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先日古本屋で買った『時の本』をめくってみた。文章1に対して写真やコラージュが2という、絵本のような構成である。中身は絵本とはほど遠く、小難しい理屈が綴られる。「過去はもう去ってしまった。未来はまだ来ていない。この今は短すぎる。時間はいったい何を残してくれるのだろう」というアリストテレスの言がいきなり出てくるという具合。今日は理屈を読み解くほどの熱意がないから、写真やコラージュばかり眺め、時折り各章の冒頭の数行だけ読む。シティローストしたインドモンスーンの濃厚なコーヒーを淹れてみた。

語り続けるには情熱がいる。しかし、独りの時間にあっては語ることはない。自覚したことはないが、たぶん独り言をつぶやいたりしていないだろう。語ることに比べれば、書くための情熱は小量でよい。その代わり、集中力を高めなければならない。集中力は時間を忘れさせるだろうか。いや、逆に時間を意識することになる。意識した時間は整い始める。ちょうど姿勢を意識すると背筋がピンと伸びるように。時間が整った気がする時点で、書いていた文章が終わりかける。コーヒーと時間には強い関係がありそうだ。

アリストテレス風に言えば、書いていた時間はもう去ったし、この先の時間がどうなるのかは分からない。しかし、アリストテレスと違って、この今の時間を短いとは思わなかった。ましてや、今過ぎた時間がいったい何を残してくれるのだろうかなどと問いもしない。ただ、一つの自浄作用が完了したことを実感している。コーヒーカップが空になり、文章が打ち止めとなる。

休日の倦怠と幸福

早朝の喧騒はムクドリ、姿は見えない。

鈍角な陽射しに流れ込むバロック音楽。

挽きたてのタンザニア珈琲、甘く香る。

異様なほど尖がっている短編小説の書評。

     ~~~

文字盤の秒針、せわしなく上滑りしている。

遠近法的に立ち並ぶ散歩道の電信柱。

じっと握られたままの萬年筆、文を綴らない。

大きな溜め息とあくびのような深呼吸。

 

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Katsushi Okano
Holiday’s ennui and happiness
2016

Pastel and ink

風景としての街

2013年に1,000万人の大台に達し、2016年の今年は10月末現在ですでに2,000万人を超えた。2020年には4,000万人、2030年には6,000万人という推定。わが国に訪れる観光客数である。現在、年間8,000万人超を集める観光大国フランスの足元にはまったく及ばない。しかし、数年前まで毎年800万人が精一杯だったことを思うと、伸び率は凄まじい。

訪れたい観光スポットあっての街の人気である。たとえばパリにはエッフェル塔があり、ノートルダム寺院があり、セーヌ河があり、ルーブル博物館がある。他にも数え切れない名所がある。そういう名所を目当てに人々が集まる。しかし、やがて、観光スポットを巡らなくてもいい、ただそこに佇み街歩きして魅力を満喫できればいいと思う観光客が増えてくる。その時初めて、個々の観光スポットを超越した街のブランドが確かになる。あれこれを見たいという願いが街に行きたいという思いに変わる。

成熟した観光都市のステージとわが国の諸都市のステージは大いに違う。わが国ではスポットで集客している。京都なら伏見稲荷神社、金閣寺、清水寺。広島なら平和記念資料館と宮島。奈良は東大寺と奈良公園である。街のブランドと言うよりは観光地ブランドの知名度が先行している。それでも、これらの観光地は創世期の面影を残していて歴史を感じさせる。対して、ぼくの住む大阪の人気上位はユニバーサルスタジオ、梅田スカイビル、海遊館の3ヵ所である。大阪城の4位を凌いでいる。明らかに現代のテーマパーク的なスポットに人が集まっていて、歴史の街としての人気とは言い難い。


見どころ多彩なだけで知名度が上がるわけでもない。世界には「単機能」だけで固有のブランドを築いている街がある。イタリアはマルケ州のカステルフィダルドはその典型。アドリア海に面した人口2万人足らずの小都市だ。この街について世界的な日本人アコーディオン奏者のcobaが語っている。「イタリアで最初にアコーディオンを作り始めた街。小さな街なんですが、世界中のアコーディオンの8割を生産しているんですよ」。カステルフィダルドと言えばアコーディオン、アコーディオンと言えばカステルフィダルドというわけだ。名産から街を、街から名産を言い当ててもらえれば、一流の街ブランドの証である。

『世界ふれあい街歩き』で紹介されたドイツのリューネブルクなどは、絵筆を取って絵を描いてみたくなる街だという。観光客がどれほど押し寄せるのか知らないが、「絵を描いてみたくなる」とは街の魅力を伝える決めぜりふではないか。一言の表現しかできないのではなく、その一言に固有の価値が凝縮されている。単機能しか持ち合わせない街は特徴的であり、かつ潔い。そんな街を訪れた後は、何でも便利で多機能だが、マルチやメガという形容しかできない大都市がつまらなく思えてくる。

至宝が溢れるアートの街と自他ともに認めるのがフィレンツェ。以前このブログで書いたことがある。

ルネサンスの余燼が未だ冷めやらぬ街。いや、余燼というのは正しくない。156世紀のルネサンス時代のキャンバスをそのままにして、その上に現在が抑制気味に身を寄せているのがフィレンツェだ。美術品は美術館内だけに収まらない。建造物、彫刻、石畳、昔ながらの工房や修復アトリエが中世をそのまま伝えている。

歴史的遺産の原型を残さない街は、早晩飽きられるだろう。なぜなら、現代でいいのならどこにでもあるからだ。わが街にないものがあるから観光地に出掛け、わが街とは違うから遠くの街に赴くのである。

20073月にフィレンツェに一週間滞在し、シニョリーア広場に面したホテルに4泊した。数世紀前の建物をリフォームした古色蒼然としたホテルだ。ラウンジの窓から毎日広場を眺め、ルネサンス時代を気ままに回想していた。

ルネサンス時代という表現が誇張でない証拠がある。ぼくが実写した一枚にはシニョリーア広場、その右端に市庁舎(かつてのヴェッキオ宮殿)、市庁舎前にミケランジェロが制作したダビデ像のレプリカが写っている。この写真に16世紀か17世紀頃に描かれた広場の風景画を対比させてみる。前景は変わっていても、キャンバスである後景がほとんど同じであることに驚嘆する。未来を見据えて何を変え何を変えないかを考え抜いてきた、もう一つの歴史。風景としての街づくりには時間と忍耐とプライドが欠かせないのである。

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発想のパターン

〈セレンディピティ〉については何度か書いている。「偶察力」と訳される通り、察知する力に偶然が働いて新しい発見がもたらされるという意味。意図や目的に沿って何事かを察知しようとしたところ、そこに偶然が働いて意図や目的と異なる所に着地する。狙い通りではなかったものの、予期しなかった成果を代わりに得ることになる。もちろん、偶然の作用だけで何もかもがうまくいくことはない。集中的に経験や知見をフルに生かしてこその、何十回か何百回かに一回の望外のご褒美。それがセレンディピティである。おそらく従来のパターン化された発想回路に異変が起きるのだろう。

1960年代の後半、エドワード・デ・ボノは、従来のパターン化された発想を〈垂直思考〉と名付けた。論理的かつ分析的思考のことだ。そして、そのアンチテーゼとして〈水平思考〉を提唱した。水平思考に対しては専門的批判も少なくなかったが、ここでは立ち入らない。さて、垂直思考には功罪がある。もともと論理や分析の前提には命題や対象がある。命題や対象とは、仕事で言えば一本道のルーティンワークに相当する。垂直思考はルーティンワークで繰り返し使える。しかし、枠組みから出て目新しい発想を生み出すには柔軟性に欠ける。これに対して、水平思考は多視点からの観察や気づきから始まる。既存のものの見方に比べて発想回路が広がりやすい。エドガー・アラン・ポーも、「深さではなく、広がりや見晴らしが熟考につながる」と言っている。

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論理的思考に意味無しとは思わない。筋道を立てて推論を積み重ねていく作業はどんな職場でも有効だ。しかし、ほとんどの場合、その作業は確実に分かっていることの確認であり検証なのであって、何か新しい物事を見つけるプロセスではない。また、水も漏らさぬように証明作業を続けるには、集中力と思考のスタミナを維持しなければならない。垂直的な発想パターンは、たとえそれが複雑であれ単純であれ、一定の枠内で絶対的な緻密さを求める。新しいアイデアは枠からはみ出た所でに芽生える。ここに、垂直思考と一線を画する水平思考の出番がある。


垂直思考では一本道の思考を妨げるような逆説は厳禁である。また、自らの思考を懐疑してもいけない。たとえば「能力があればリーダーになれる」というような命題を一所懸命に考えて明かそうとする。一段ずつ証明を積み重ねていくから、一気にジャンプしたり寄り道をしたりしない。しかし、ちょっと水平的に考えてみれば、「能力がなくてもリーダーになれる」ということに経験的に気づけるはずである。つまり、逆説も真なりなのだ。

発想を豊かにしたいと思っている人は少なくないし、正直な気持ちだろう。しかし、発想豊かな人の習慣化された勉強法を教わって実践するかと言えばそうではない。なぜなら、セレンディピティや水平思考には、おおむねこうすればいいというヒントはあっても、本質はアバウトであり、ルールやパターンを確定できず、不安心理に苛まれるからである。これに比べれば、垂直思考の学びでやるべきことは明快だ。それは局所的かつ限定的であるがゆえに、手順を踏まえればそこそこの成果が得られる。優良可の「可」を目指すなら垂直思考でよい。実際のところ、人材の大半は垂直思考を軸に据えて日々仕事をこなしている。

垂直思考の人々に水平思考になじんでもらうのが、ぼくの研修テーマの一つである。なじんでもらうのであって、垂直思考を捨てさせて水平思考にシフトさせるのではない。ところが、新しいアイデアを愉快に感じ、ひらめきやセレンディピティに小躍りできるかどうかは、日常の習慣形成に関わる。何かにつけて目的が必要な人、条件を増やす人、何がしかの規定や法則がなければ仕事に着手できない人……こういう人たちは、自分が持ち合わせているスキルの種類や現実の枠組みの中でしかものを見ない。したがって、偶察によるサプライズにめったに遭遇しないのである。

では、水平思考のような新しいアイデアを誘発したりひらめきを促したりするにはどうすればいいのか。ことば側からイメージを刺激するしかない。ことばを駆使すると論理や分析に傾くのではないかという懸念があるが、実はそうではない。むしろ、垂直思考のほうがことばの融通を制限する傾向がある。縦横無尽にことばを蕩尽することが発想回路をパターンの呪縛から開放するのである。

「結局ひらめきの構造を探ったりトレーニングで強化しようと思っても、可視化でき共有できるのは『ことば』でしかないように思う」
(千葉康則『ひらめきの開発』)。

思考に行き詰まったら腕を組むのではなく、誰かをつかまえて会話をするか、一枚の紙を取り出して書き始めることである。しかし、このヒントもすでに一つのパターン化された発想にほかならないが……。