過剰だが豊饒ではない

話をしたりものを書いたりする時、ちょうどよい程度というのが難しい。後で振り返れば過剰になっている。不足を戒めるゆえの過剰である。もちろん「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の教えも重々心得ている。しかし、長年にわたる習い性ゆえ過剰側に傾く。そんな人間だが、今時の情報の過剰ぶりは見るに堪えない。見るに見かねて嘆いては多弁を弄することになり、過剰の連鎖が続く。

何かにつけて注意書きやくどい説明が必要になった。説明箇所を読んでもらわねばならぬ、誤解があってはいけないなどの理由から、注意書きへと誘導する注意書きが補足されたりする。目を通させるための工夫を凝らせば、文章はどんどん増える。商品まわりの説明はこうして膨らみ続ける。文芸にもある。ちょっと良識を働かせれば、そのエッセイがパロディないしは冗談だとわかるのだが、「ふざけるのもいい加減にしろ!」とクレームをつける者が出てくる。触らぬクレーマーに祟りなしであるから、「この本の内容はフィクションでありパロディ仕立てになっておりますのでご了承ください」と断り書きを入れる。過剰な情報が作品を台無しにする。

「心から出たことばは心に響く」と誰かが書き、それだけを書いて後を続けない。こんなふうに一文だけをぽつんと置かれると、「なるほど」と頷けないし易々と諭されない。「心から出る」などということがまずわからない。短い文章だが呪文なのである。情報不足ゆえに悟ったかのように見えるこんな文章を見ると、黙ってやり過ごせない。戦闘意欲が湧いてつい饒舌気味に検証してみたくなる。他方、「千年ロマンへと想いをはせ、海の幸、山の幸、自然豊かな宇佐のチカラの恵みを未来へと紡ぎ広める条例」の過剰には疲労感を覚えて口を閉じる。大分県宇佐市の日本一長い条例名である。結局、「千年ロマン宇佐条例」などと略されることになるのだろう。


プリントアウトした資料を年末に処分し、必要なものは整理して残す。特に物持ちがいい人間ではないが、処分したワープロの遺影のような印刷資料は念のために残してある。残された資料に新たな書類が加わるから、毎年同程度の作業をすることになる。過剰なまでに情報と接し、過剰なまでに文章を綴った過去をそこに見る。しかし、どれほどの役に立ったのか。そのつど役に立ったと思っていても、記憶は薄れあるいは消滅し、ただ判読不能な足跡だけが残る。

研修があるたびにテキストを用意する。知恵を絞って書き何度も編集するからテキストの内容はほぼ記憶再生できる。テキストと同じフォルダーには受講生のアンケートも綴じてある。彼らのうち、いったいどれだけの人たちが研修の断片だけでも覚えているだろうか。「大変満足」に✔を印し、詳しく感想を書いたその人が書いた感想を覚えているとは思えない。情報化社会では、情報が溢れるのみならず、過剰に垂れ流しされている。昨日、溜まっていた新聞のクリッピングに23時間費やしたが、知の豊饒とは程遠い、惰性的習慣に思えてきた。

この拙文は〈世相批評〉というカテゴリーに属するが、実は「自己批評」である。今年も例年同様に、自らが情報発信源となって数百枚以上の雑文を書き、ほぼ同数のテキストを編集し、ほぼ同数のパワーポイントスライドを作成した。書いたばかりではなく、過剰に話した。情報の受信はどうか。こんな比ではないから驚く。どちらかと言うと、おぞましい驚きである。

跡形も残らない情報に晒され、コントロール不能な冊数の本も手に入れた一年。どれほどの知の新陳代謝があったのか。買い求めたままの未読の本、読みかけたまま放置した本が背後霊のようにプレッシャーをかけてくる。漠然と何とかしなければならないと焦るだけではなく、具体的な工夫を凝らさねばならないと思う。近影写真を填め込んで決意の証とし、誓いを立てることにした。

断り書き

オフィスの隣りは市立高校。その道路向かいに運動場がある。運動場は壁で囲まれていて、壁に沿って花壇が設けられている。その花壇に最近樹木の苗木がかなりの本数植えられた。苗木は愛らしくていいのだが、残念なことに標識も一緒に埋め込まれている。「ポイ捨て禁止」「駐輪禁止」……。標識ばかりが目立って花壇の見栄えが悪い。自動販売機と並んで、言わずもがなの標識は景観価値を低める要因である。

以前、『陳腐なことば』と題して、ありきたりのスローガンや公共の場での注意書きを批判したことがある。今時のスローガンには無難な「ふれあい」が目白押し。「ふれあい天然温泉」に「ふれあい広場」。「ふれあいトイレ」なるものも出現するに及び、いったい何を奨励しているのかさっぱり理解できなくなった。美しく整備された芝生なのに、まるでその美観を台無しにするような「芝生に入るな!」の立て札もよく見かける。

商品パッケージや説明書には、使用方法や効能書きよりも、注意書きや禁止事項のほうにより多くのスペースが割かれている。エネルギーや関心が注意書きに向いているのだ。売り物への自負や情熱が足りないわけではないだろうが、傍目にはコンプライアンス意識過剰の裏事情が見え隠れする。十年程前の食品偽装事件以来、また、クレイマーの存在がとやかく言われ出した頃から、あらかじめ注意を促したり断りを入れたりする傾向が強くなったような気がする。


「容器の底に一部成分が沈殿する場合がありますが、味や品質にはまったく問題がありません」などという説明に苦し紛れを感じる。しかし、添加物や不純物でないのなら、つまり成分自体が天然素材で、それゆえに沈殿という現象が生じるのなら、いちいち但し書きをしなくてもいいではないか。この方面の表示ルールに疎いのでそんなものいらないと胸を張って言えないが、一消費者としてはわざわざ弁解してもらわなくてもいい。

これはSchweppes(シュウェップス)のずいぶん前の広告である。写っている人物は同社のCEO。十数年にわたって広告で起用された。見出しは三行で次のように書いてある。

“You can see the lemon in Schweppes Bitter Lemon. That’s because Schweppes uses whole, fresh lemons. Juice, pulp, peel, everything.”
(シュウェップスのビターレモンにはレモンが見えます。丸ごと新鮮なレモンを使っているから。果汁、果肉、皮、すべて。)

この広告を見て感心した。果汁も果肉も皮も一部は液体から分離して沈殿物になる。瓶を逆さまにしてその沈殿物がさまようのを見つめている。沈殿物があるという断り書きの代わりに、丸ごとの新鮮レモンを訴求している。本文文末に小さな文字で断り書きを入れるのは野暮だ。堂々と見出しにしてしまうことに共感する。

人のおこない、人が作るものには元々ファジーな要素がある。それを杓子定規に法で縛ることに無理がある。悪意も偽装もなく、善良な精神で品質を作り込んで形にしていることを断り書きにすることはない。コンプライアンスに怯えて断り書きを掲げ、断り書きさえしておけばそれで済むと考えることが信頼性の証明ではないだろう。

タクシードライバー

昨日、あまりなじみのない場所に所用で行くことになった。スマートフォンでチェックすると駅から1.2キロメートル。タクシーを拾おうかと思ったが、行き先を間違う恐れはないし急ぐ必要もなかったから、歩くことにした。約15分。途中「タキシーメーター」と書かれた、年季の入った看板が目に入る。タキシードみたいに見えて可笑しかったが、誤字ではない。かつてタキシーメーターという表記が標準とされた時代があったのだ。

ぼくは車を所有したことがない。それどころか、運転免許証がない。だから、車を運転しない。徒歩か自転車か公共交通機関で移動する。これらの手段で賄えない場合はタクシーを利用する。タクシーにはよく乗るほうだと思う。タクシーに乗れば、タクシードライバーと狭い空間でしばらく時間を過ごすことになる。ドライバーは初対面の客に背中を向けている。よく考えてみると、異様な構図だ。いくら経験を積んだ人でも緊張感を免れないだろう。

対人関係の仕事は大変である。その最たる職業がタクシードライバーではないか。マニュアルではいかんともしがたい融通性が求められる。あの狭い空間で、水先案内、会話、金銭授受、安全配慮など一人何役もこなさねばならない。乗車から降車までのサービスに合格点を出せるケースがほとんどだが、それで当り前だと思っているからめったに感謝感激することはない。むしろ、気分を害した経験ばかりが悪い印象となって残る。善良なるタクシードライバーには気の毒な話だが……。


タクシードライバーと言えば、ロバート・デ・ニーロ主演の同名の映画を連想する。腐敗した街を、すさんだ心の人を浄化しようと行動する男の話。デ・ニーロ扮するドライバーは無口だった。喋り過ぎも困るが、無口はもっと困る。初対面の二人だけの狭小空間の数秒は恐ろしく長い。お喋りか無口かというのは変えづらい性格であるが、そのつどの相手によっても変わる。話題によっては無口がよく喋り、お喋りが黙ることになる。先日、関西有数の観光地でタクシーに乗った。「どうです、観光客は増えていますか?」と尋ねたら、「さぁ~」とドライバー(福原愛か!?) 客に仕事のことを聞かれて「さぁ~」はない。よろしい、そう応じるのなら、目的地に着くまで話し掛けないぞと決め、ずっと黙り通した。ドライバーのほうが沈黙空間の苦痛を味わったはずである。

十数年前の話。大阪の中心街Aでタクシーに乗った。ドライバーは40歳前後。当時住んでいた郊外のCを告げた。声が消え入りそうな生返事。走り始めて間もなく、「Cかぁ……Cねぇ……」とドライバーが独り言でつぶやく。しばらくして、また同じようにつぶやく。そうか、C方面への客を歓迎していないのだと察知する。こんなドライバーとあと半時間以上走るのはまっぴらだ。「Cに行っても帰りの客はないだろうし、行きたくないのなら、ちょっと先のBで降ろしてもらってもいい」と言った。瞬時に喜色満面になり、「そうなんですよ、Cは帰りがねぇ……」とドライバー。人生初のタクシー乗り継ぎとなった。

「ありがとう」も「すみません」もないので、リベンジだけして降りることにした。千円札を二枚渡し、釣銭を受け取る時にわざと取り損ねるという企み。数枚の硬貨が手のひらから落ちた。間髪を入れず、「おい、気を付けろ!」と威喝気味に叱責した。おとなしい客だと見てなめていたのだろうが、かなり怯えた様子がうかがえた。ドライバー、恐る恐る「すみませんでした」と言った。

降車したBのタクシー乗場へ移動して並ぶ。次は初老のドライバーだった。今しがたの一部始終を話したら呆れ果てていた。お客にも同業者にも迷惑をかける存在だと嘆いていた。ところで、その夜、めったにないことが起こった。タクシーに向かって手を挙げる人の姿が目に入ったのだ。「運転手さん、ほら、お客さんですよ」と言い、自宅マンションの手前だったが、そこで降ろしてもらった。客捨てるドライバーあり、客拾うドライバーあり。

観察とトリミング

しばし立ち止まって物事に目を凝らすこと、街角に目を向けること、人や車の動きに注視すること。考えることに先立つのが観察である。観察して初めて着眼点が見つかり、そして考えるようになる。よく観察しなければ考えることは浅く狭い。

目の前の「現実」を認識する。どこを切り取って現実と呼ぶのかは人それぞれである。現実を観察すると言うものの、あるがままの現実と観察による表象との間には誤差があり、自分と他人との表象にも相違がある。観察は客観性と結び付くように思われがちだが、実はそうではない。観察の時点ですでに主観や個性が観察対象に介入している。観察して何かを観測したとしよう。そこで得られるデータはすでに観測者の存在によって一定ではなくなっている。十人の観測者は十色の見方をする。

写真画面の一部を省いて構図を整えることや縁取りすることをトリミングという。トリミングにかくあらねばならないというルールも法則もないから、主観が反映される。同時に、観察がアレンジされることになる。写真のトリミングという行為は切り取りによってある対象を拾っているが、他方、切り取った以外の背景の図を捨てている。あるものを拾って別のものを捨てるという点で、対象に対して主観的な抽象と捨象がおこなわれているのである。


パリのオペラ座の衣装展示室から窓外をじっと眺めたことがある。窓枠に填め込まれたような光景を雑念もなく虚心坦懐に眺めたつもりだが、この時すでに現前しているオペラ座前の通りと建物の構図は、別の窓から覗くのとは異なっている。「オペラ座前の通り」と呼べば、それはぼくの見える主観的な光景にほかならない。

次いで、ポケットからデジタルカメラを取り出して撮影する。この時点で撮影者であるぼくは「ある全体」からお気に入りの対象を切り取っている。カメラによる撮影は観察である。そして、観察自体がトリミングという行為になっている。

撮影した写真をさらにトリミングする。実際は縦に長い構図であったが、下段に写り込んでいる、ぼくにとって余分な対象を捨てた。撮影前に窓を選び、撮影後に切り取った。つまり、二度トリミングしたのである。いや、もっと言えば、別の建物から眺めて「オペラ座前の通り」と呼ぶ選択肢もあった。そう、オペラ座に入館したことがすでにトリミングだった。さらに遡れば、パリへの旅を決めて別の街への旅を諦めたこともトリミングではなかったか。

きれいな花の写真がある。現実はそのすぐそばにゴミ箱があったかもしれない。何かが拾われ何かが捨てられる。トリミングは写真撮影の専売特許ではない。今こうして文章を書く作業もトリミングの連続である。「書きたいことのすべて」があるとして、全体のうち限られた表現によって限られた一部を綴り、一部の文章を編集する。ぼくの思いを「現実」だとすれば、ここに並ぶ文章群は「現実を変形させた観察結果」と言うほかない。観察には個人的な事情が含まれる。それは抽象と捨象がせめぎ合うトリミング行為なのである。

ピクトグラム考

コンピュータ画面上で表示されるアイコンはファイルやアプリを図案化したものだ。ファイルやアプリの機能を一目で分かるように工夫しているのだが、意味が伝わる保障はない。アイコンの名称をことばで補足するか、図案が何を意味するのかをあらかじめ利用者に知ってもらわねばならない。マークという記号も概念のイメージであるシンボルも、取り決めた意味を知らなければ、表現される対象を推測するのはむずかしい。xという記号がyを示すというのは約束事であって、そのつどの推測によるものではない。

アイコン、マーク、シンボルのそれぞれのニュアンスは異なるが、ひっくるめて〈ピクトグラム〉と呼ぶことにする。ピクトグラムは絵や図などの視覚記号である。伝えたい対象を文字で表現しようとすれば言語の数だけ表示が必要になるが、視覚記号ならユニバーサル仕様にできるというのが意図だ。しかし、意図はあくまでも意図であって、現実的には万人に伝わるピクトグラムなどはありえない。記号表現とそれが意味する対象の関係は文化と無縁ではない。言語もピクトグラムもローカル色の強いものなのである。

ピクトグラムは一部の特徴を象徴することによって対象を表わそうとする。対象のすべての特徴を表現することはできない。たとえばバターを塗ったトーストのピクトグラムを想像できるだろうか。イチゴジャムならトーストを赤く塗ればいいのか。カラーなら赤い色紙に見える。カラー印刷しないで白黒にすればただのダークグレーの色紙になる。カラーついでに言うと、虹は文化によって認識される色数が異なる。誰もが七色に見えているわけではないのだ。月の表面の模様しかり。わが文化では餅をつくウサギに見える模様が、別の文化では大きなはさみのカニに見え、本を読むおばあさんに見える。どんなに工夫を凝らしても、ピクトグラムが世界の共通記号になることは不可能に思える。


温泉は日本文化固有ではないが、古代から日本人は他の文化とは異なる独特の関わり方をしてきた。その温泉の所在を示すマークにもすっかりなじんでいる。三本のS字状の記号は湯ぶねから立ち上がる湯気を表わす。ところが、それでは都合が悪いということになった。「外国人には温かい料理を出す施設と解釈される恐れがある」というのが経済産業省の弁。想像力を欠いた安易な判断である。「外国人」という一般化が粗っぽい。それに、「温かい料理を出す施設」と言うが、解釈はそれだけではないだろう。

経産省は国際規格案を検討し、併記で表示する方向で検討している。国際規格案というのがこれである。このピクトグラムに変えれば、経産省が想定する「外国人」たちが「温泉のある施設」と解釈してくれるのか。一部はイエス、しかし、残念ながら、別の解釈も生まれる。外国人それぞれの文化的背景が異なるからである。温泉だと分かったうえで混浴と思うかもしれない。温水プールだと思って水着で入るかもしれない。人食い人種が日本観光するのは考えにくいが、彼らなら温かい人肉料理を出す施設と解釈する可能性がある。

日本独自の温泉マークと国際規格の併記は、ますます混乱を招くことを経産省は分かっていない。思惑通り、国際規格案を見て「外国人」が温泉施設であると認識できたとしよう。それでもなお、日本独自の温泉マークのほうは依然として温かい料理を出す店という解釈のままではないか。つまり、併記表示すると、当該施設は必ず温かい料理を出さねばならなくなるのだ。温泉施設のある冷やし中華専門店には適用できない。

もし“Spa”“Hot spring”が万国共通なら、ピクトグラムに頼るまでもなく、英語表記すれば済む。しかし現実は英語表現が誰にでも通じないので、形態ないしは動作を視覚記号化しようとする。一言のことばで意味や対象を伝えることに誰もが日々苦労している。一絵による以心伝心も至難の業であることくらい察しがつく。世界は多種多様の文化で成り立っている。そして、言語も記号も「ゆらぎ」や「ずれ」を特徴としている。ユニバーサルな統一記号には所詮無理がある。一切学習せずにピクトグラムと対象を一致させるのは不可能なのだ。この国では♨が温泉を表わすピクトグラムであることを理解してもらえるように啓発努力をするしかない。

恣意的な分節

気象庁によれば、今年は秋が短かったそうだ。職員全員が肌身で感じたはずもなく、あくまでも数字上の判断に違いない。10月上旬までは夏を引きずるような余熱があり、10月下旬に冬を予感させる兆しが観測された。風土の四季を誇らしく思うのが日本人。しかし、不幸にして、今年は秋を存分に堪能できなかったことになる。夏から冬へと気候は急変した。何とも慌ただしい話である。

急変はデジタル的である。デジタルは「01」、変化前と変化後の中間がない。あやもない。瞬時に切れ目が入る。急変、一変、豹変、激変など、いずれの表現にもゆるやかな時間の経過は実感できない。ある季節がゆるやかにフェードアウトし、別の季節がゆるやかにフェードインしてこその四季である。消えるほうと現れるほうとの境界に「ゆらぎ」が生まれ重なり合う。途切れのない時の流れを認識するために、春、夏、秋、冬というラベルを付けた。しかし、あまりにもゆるやかなので、この風土ではさらにラベルを細分化した。二十四節気という分節である。アナログ的変化の便宜上の微分と言っていい。

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分節せずに「木」と呼ぶだけでもよかった。しかし、木は木という一つの概念だけに留まらず、根、幹、枝、小枝、葉と部分に分けられた。厳密に言えば、もっと細かいラベルが付いている。人は自分を取り巻く世界の諸々に便宜上の境界を想定する。ラベルはことばだ。モノを分けたのではなく、ことばで分節して理解しているのである。

その時々の思いつきで自然や時間や概念を細かく分けた。分節は風土や文化圏の中で恣意的におこなわれた。最初に普遍的な法則ありきならば、分節のしかたやことばのラベルは風土や文化をまたいで共通のはずである。しかし、言語が違い、それぞれの言語で指し示す対象の間にズレが生まれた。


「雪」という大きな概念だけで十分に伝え合うことができる砂漠の風土文化がある一方で、初雪、白雪、細雪、残雪、粉雪、ぼたん雪などと何十もの小さなラベルを付けないと気が済まないわが風土文化がある。イヌイットの雪のラベルはさらに細かく分節されているという。

先日、回転ずしに行った。外国人で賑わっていた。目の前を流れる皿と皿の間に立て札があり、そこに“Yellow Tail”の文字を見つけた。イエローテイル(黄色い尻尾)に併記されている日本語は「ハマチ」。英語が分かるとして、はたしてどれだけの人が現物のハマチを連想できるだろうか。ハマチは出世魚の家系である。ツバス→ハマチ→メジロ→ブリと出世する(関東ではワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ)。釣りマニアだった父などは見事に判別していた。いや、経験によって魚の大きさと魚名を照合することができたと言うべきか。

ちなみに、出世魚などという概念はわが国に固有である。そんな概念がない文化圏の人々に伝えようとすれば、“fish that are called by different names as they grow old”と苦し紛れの英語で説明をすることになる。直訳すると、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる魚」。一部の外国人は、「ハマチ」ではなく、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる黄色い尻尾の魚」を食べさせられることになる。分節は風土文化圏ごとに編み出される大きな概念の小分け作業であり、ことばによるラベル化にほかならない。そして恣意的であるがゆえに、なぜそうなったのかを分析することはほとんど不可能なのである。

よい問いがよい答えを導く

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『反対尋問』(ウェルマン著)という名著がある。原書は1903年の発行。わが国で翻訳された初版は1979年に出ている。一度ディベートから遠ざかっていた頃に偶然手にした。1990年代に入ってディベート指導の依頼が一気に増え、何度か読み返した。ぼくが主宰するディベート交流協会のメンバーがこの本に興味を持ったが、すでに絶版になっていたらしい。貴重な一冊だったわけで、ひっきりなしに貸してほしいということになった。そのせいでかなり表紙は傷んでいる。

法廷で実際におこなわれた反対尋問例と弁護士である著者のノウハウが紹介されている。スリルとサスペンスのほどはどんな推理小説もかなわない。文庫本ながら600ページを超える大書だが、一度読み始めるとなかなか本を閉じることはできない。問うことと答えることの意味と機能についてこの本から大いに学んだのである。言うまでもなく、生活や仕事の場面で反対尋問そのものの出番はめったにない。それでも、ぼくなりにヒントを得た。それは自問自答に通じるということだ。「よき問いはよき答えを導く」、つまり、上手に問うことが上手に考えることにつながることを知った。

さて、久々にお粗末なものを見せてもらった。先週の東京都議会定例会の本会議での代表質問の場面がそれだ。この種の質問は事前通告が慣例とされる。代表質問する都議はあらかじめ都知事に「こんなことを聞きますよ」と伝え、都知事は担当部門に回答文を用意させるのである。裁判の反対尋問の一発勝負・即興性からすれば、ある種の出来レースではある。それはともかく、自民党の都議は慣例を破って非通告の質問をおこなった。小池知事はしどろもどろになった。予期せぬ質問にもスマートに答えて欲しいところだが、大いに同情の余地はある。なにしろ、質問が28という驚きの数だったのだ。


ディベートになじんできたぼくなどは、質疑応答や反対尋問は、ある程度の準備をするにしても、いったん始まれば即興のやりとりになることを心得ている。だから、慣習を破った今回の非通知質問それ自体に異議はない。質問数28の非常識には呆れるが、問題の本質はそこにもない。知事は9問しか答えられなかったらしいが、これも大したことではない。もし全問に答えたとしても残る問題がある。世の中に十把一からげのような28の質問を記憶できる者がいるのか。どこの誰が、それぞれの質問に対する28の応答を正確に照合できるというのか。質問してそのつど答えるという一問一答をしなかった点こそが問題であり、大罪なのである。

当事者間だけの質疑応答ならまだしも、場所は議会である。どの質問とどの応答が対応しているのかを的確に都民に伝えるのも説明責任の一つになる。お名前は? 住所は? 職業は? というやさしい3問なら答えと照合できる。しかし、取り上げる話はもっとゆゆしく複雑なのだ。複数の問いをまとめて投げ掛けるとはどういうことか。もし問いの順番に意味があるのなら、誰も一括質問などしない。一問ずつするはずである。もし順番に意味はなく、単に複数質問しただけなら、答える側は律儀に順番通り対応することもない。答えやすい質問から答え始めれば済む。

一問一答で質疑をおこなえば、前の問い・前の問いへの答えが次の問い・答えとつながる。臨機応変の流れになる。仮に準備をしていたとしても、想定通りにはいかない。やりとりは即興のライブの様相を呈する。矛盾も露呈されるだろうし、隠れていた事実が見えてくるだろう。それでも、形式的な質疑応答などよりは傍聴者にもわかりやすく、何よりも緊張感が高まるのである。一問一答だからこそ当面のやりとりに集中できる。複数質問の後に複数の回答などというのはぬるま湯だ。おまけに事前通知であれば、真剣勝負になるはずがない。

前掲書にリンカーン大統領が弁護士時代におこなった反対尋問が紹介されている。証言者の偽証を暴く場面である。この本に先立って、ぼくは別の本でそのくだりを原文で読んでいた。『問いの技術』と題されたセミナー用に、付帯状況を簡略化した上で脚色して訳した文章が残っている。実際とはかなりかけ離れているが、一問一答の凄みと効果がわかるはずである。

Q あなたは被告人がドアから飛び出して逃げていくのを見たのですね?
A はい。たしかに見ました。
Q あなたは被告人とは親しく、彼の顔はもちろん、背格好も立ち居振る舞いもわかっておられる。そうですね?
A そうです。
Q あなたは庭の木陰からその場面を見たとおっしゃった。間違いないですね?
A その通りです。
Q 部屋の明かりはついていましたか?
A いいえ、消えていました。
Q そうでしょう。ふつう犯罪者は事に及ぶときは明かりを消しますからね。では街灯は? 点いていましたか?
A 街灯はあの家にはありませんよ。
Q ほう、よくご存じで。ところで、一番近い木陰でもドア付近まで二十メートルの距離はありますよ。
A 測ったことがないので、私にはわかりません。でも、私は数十メートル先にいる牛の違いだってわかるほど視力には自信があります。
Q なるほど。しかし、それは昼の話ですな。夜だと話は別でしょう。部屋の明かりも街灯もなかったわけですから。
A 月明かりですよ。月の明かりがしっかり被告人の顔を映し出していました。
Q 二十メートルの距離で月明かりですか。たしかにあなたのような視力のいい人なら見えるかもしれませんな。
A ええ、見えますとも。
Q もう一度確認しますが、あなたが目撃したのは昨年×月×日の午後九時。たしかそう証言されましたね?
A 間違いありません。
Q (一冊の本を取り上げ、証人に見せながら) これは何だかご存じですか?
A 年鑑のようですが……。
Q おっしゃる通り。この昨年の年鑑の×月×日のところに天気の情報が記載されているのです。「×月×日午後九時、月は欠けており、闇夜だった」とね。
A ……
Q 以上で、反対尋問を終わります。

いつもの

テレビの『笑点』の大喜利で司会者がお題を出す。お題によっては出演者に小道具が配られることがある。司会者が「山田君、例のものを持って来てください」と言うと、山田君が「かしこまりました」と返事して小道具を配る。小道具の名前を言ってもよさそうだが、「例のもの」と言う。例のものとは何か。それは両者で事前に了解済みである。仕事上でも「例の件ですが……」と持ち出された相手は何の件かわかっている。見知らぬ相手に「すみません、例の件でお尋ねしたいんですが」と言っても通じない。

「例の」の代わりに「いつもの」と言える場合がある。「いつもの何々」と言えば、お互いにわかっている「もの・こと・場所」などを表わす。仲間内で「いつもの」で通じるのは、何を意味するかを取り決めているからである。あるいは、何度もみんなが使ってきた結果、暗黙裡に了解されているからである。ところで、「いつも」は繰り返されるという点でマンネリズムに違いない。変わり映えしないというニュアンスがある。他方、安心感があり、変わらぬよさという意味にもなりえる。


オフィスから近い場所で待ち合わせることになった。喫茶店Aである。相手の彼とはよくそこに行った。稀にそこ以外の喫茶店Sに行くことがあったが、年に一度あるかないかだ。「じゃあ、いつもの喫茶店で」と伝え、念のために「角の店」と付け加えておいた。いつものとは喫茶店Aである。十数分待っても彼は来ない。携帯に電話した。めったに行かない方の喫茶店Sの前で待っていると言う。「いつものと言えばそこじゃないし、だいいちそこは角の店ではないよ」と言いながら、念には念を入れて固有名詞で伝えなければならない相手だったと反省した。

長ったらしい名前や言わずもがなのことを同質性の高いグループ内では省略する。ブレンドコーヒーとメープルシロップたっぷりのホットケーキを毎朝2枚注文する人は、「おはよう、いつものね」で済ませる。新しいことばでネーミングするまでもなく、意味が共有されているのなら、もの・こと・場所を具体的に特定せずに「いつもの」で十分に伝わるのである。

「今度の忘年会は何々町のいつもの場所」と十数名に声掛けしたところ、全員が所定の日時にそこにやって来たら、大いに感心してしまう。このグループはかなりツーカーの仲が深く、共通言語が定着していると思われる。

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ところが、同質性の高さは必ずしもいいことづくめではない。「わかっているつもり」になると、わざわざ検証したり深読みしたりしないから、意味を左から右へと流してしまうことになりかねない。『いつもの場所とこ』という居酒屋がある。ここがいつも飲み食いする店であれ、初めて利用する店であれ、ことば不足の説明は誤解を招く。日時の次に、ぽつんと「場所:いつもの場所とこ」とだけ書いて、はたして案内状を読んで何人が判読できるだろうか。

2016年の年賀状

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かつてカルタ遊びは正月の風物詩の一つとして人気があった。百人一首にいろはカルタ。庶民は特に後者に親しみ、「犬も歩けば棒に当たる」などの読み上げに反応してはカルタ取りに興じた。

古今東西、一枚一枚のカルタに印された文言は処世訓でもあった。生きる上での教訓には二様あって、一つは善き言行のすすめ、いま一つは悪しき言行の戒めである。目上の人間から諭されると素直には聞きづらい道徳色の強い諺や教えも、ゲームとして親しんでいるうちにすっと頭に入り覚えたのだろう。

さて、企画を志す者の心得集を考えていた折り、ふといろはカルタが浮かんだ。正月に間に合うよう執筆編集に努め、遊び感覚を備えたわが国初の『いろはカルタ発想辞典』がついに完成した。知的作業や構想に悩む方々のヒントになれば幸いである。 


  一を知って十を考えよ
一を聞いて十を知るでは不十分。考えに到らぬ知は功が少ない。

  論も証拠も
証拠に論拠が伴わなければ、手抜きしている印象が強くなる。

  話し上手が聞き上手
聞き上手だけでは場はもたない。

  逃げては事は片付かない
整理整頓や問題解決は保守とは無縁の、攻める闘いである。

  惚れたテーマに三度は挑め
何事も回を重ねてよくなるもの。諦める前に三回試してみよう。

  ペンはキーボードより強し
文字盤を叩いても頭への刺激は小さい。書けば脳が鋭く響く。

  当意即妙がほんとうの力
想定外の事情が生じれば、備えあっても憂うことがある。

  地をよく見て図を描く
図の上手下手は前提や条件に合っているかどうかで決まる。

  理屈が付いてこその値打ち
ぽつんと置かれただけのモノは価値を自ら語ることができない。

  ヌーヴォー万能にあらず
新しさが常にいいわけではない。

  類は集まってバカになる
同類・同質は進化に逆行する。

 (……)

  わが主観に溺れるなかれ
客観でなく主観で考えていい。ただ、絶対としてはいけない。

  カタカナ語に偏見持つな
大量の外国語がカタカナ日本語になった。使わねば不便である。

  よく語りよく書けて一人前
プロフェッショナルはアウトプット型言語行動を顕在化させる。

  棚から出さぬ本はレンガ
読まぬ本はかさばって高くつく。

  礼儀過ぎて誠意足りぬ
社交辞令人間は心ここにあらず、仕事のできる者もあまりいない。

  それあれこれでごまかすな
危機管理するなら代名詞追放。

 つまらぬ空想もネタになる
たいていのグッドアイデアは元々小馬鹿にされた経緯をもつ。

 猫の手よりも自分の脳みそ
猫は傍にいない時があるが、脳みそはいつも頭の中にあるはず。

 習って慣れれば習慣となる
習うのは一瞬、だが慣れるには年単位の歳月を要する。

 楽と苦はワンセット
楽の後に苦でもなく苦の後に楽でもなく、二つは表裏一体。

  無理と道理は紙一重
たった一枚の紙で無理な話も道理あるシナリオに変わる。

  売り言葉に誠意を込めよ
買い手にホンネで約束し、その約束を果たすことが信用を得る。

ゐ  (……)

  ノーの数だけ精度が上がる
ノーは検証やチェックの別名。

  思いを言葉にする一工夫
ピンポイントの表現が見つかるまでは粘り腰で考えに考え抜く。

  苦しい時の紙頼み
腕を組んでも苦悶は増すだけ。素直に紙に書いてみるのが正解。

  やればできるは甘い慰め
ここ一番頑張っても普段できている以上の成果は生まれにくい。

  待つだけの身に果報なし
果報は寝て待て? その他力精神、厚かましいにもほどがある。

  芸は仕事の自然調味料
技術や経験だけで仕事に味は出ない。芸、遊び、ユーモアも少々。

  不思議がるほどにひらめく
なぜ、どのようにという問いが立てば答え探しの眺望が広がる。

  コンセプトはひねり出す
コンセプトはどこにもない。想いを貫いてひねり出すものである。

  絵に描いた餅は脳を満たす
食べる前にイメージを浮かべる。実用に先立つ想像が必要だ。

  出る杭だから気づかれる
出ない杭は存在しないに等しい。

  開けてびっくりポンな本
手に取らなかった読まず嫌いの本に望外の掘り出しヒントあり。

  三人寄っても知恵湧かず
三人の頭数が必要と思う時点で、三人は凡人の可能性大である。

  企画に勇気と異端発想を
時代は新しい企画を待望している。前例の真似事に出番はない。

  ゆうべの思いを今朝へと繋ぐ
アイデアは睡眠中に途切れる。線にして温めて孵化したい。

  目は時に真、時に偽を見る
百聞より一見と言われるが、目は案外偏見が好きなようだ。

  ミラクル頼みは仕事の敵
コツコツするのが仕事。やっていること以上の成果は生まれない。

  知るとおこなうは大違い
知る段階に達するのは多数。知ってから先に進むのは少数。

  (……)

  他人あってこその人間関係
関係の中心に自分を置いてもいいのは神と幼児だけである。

  モラトリアムの付け回し
仕事を先送りするグズのツケはまじめな仲間が背負わされる。

  拙速は巧遅に勝る
ウマオソよりもヘタハヤ。下手でもいいから、まずは機敏な動作。

  好きは最強の動力源
いつでもどこでも自家発電。石油も原子力も太陽光もいらない。

ん  (……)


【あとがき】 すべての諺や名言に反証例があるように、ここに紹介した教えも絶対ではない。実践効果がなかったとしても、異議申し立てはご遠慮願います。

敢えて面倒な検索

週末に古書店で『ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集』を見つけた。収録図版70点、150ページの文庫サイズだから、立ち読みで済ましてもよかったが、全六冊シリーズのうちすでに『京洛四季』を読んでいた縁があって、買って帰った。『ドイツ・オーストリア』に一通り目を通した後『京洛四季』と隣り合わせに置こうと思ったら、『京洛』が見当たらない。どうでもいいのだが、いったん気になると意地になる。ありそうな場所の本棚を丹念に探したがやはり見つからない。諦めた。日を変えると、案外容易に見つかったりするものだ。

電子書籍なら検索は便利に違いない。しかし、時間のかかる面倒な本探しも読書行為の一つだと観念しているし、若い頃からの習慣だから慣れている。用語を調べたいなら、辞書よりもウェブのほうが便利なことは知っている。ウェブなら一発検索できる。しかし、探している用語の意味だけを知れば当面の目的は完了する。そこには寄り道も脱線もない。辞書ならどうか。ページをめくり探し当てた見出し語以外に、その前後の用語が自然と視覚に入る。気になれば読んでみる。無関係かもしれない用語に望外の発見があったりする。それが楽しい。効率のよい検索だけが知につながるなどとは考えない。

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アナログノートを愛用している。長所と短所がある。そのことを十分に承知した上で35年以上続けてきた。つまり、うまく長所を生かして短所に耐えてきたわけだ。仕事柄考えなければならない。単に考えるのではなく、新しいことを考えなければならない。新しさは無から有を生み出すことではなく、既知の事柄の組み合わせである。知っていることをジャンルや時系列を越えて結ぶことである。腕を組んで脳内検索してもうまくいかない。記憶をまさぐってイメージを浮かべても雲散霧消するばかりである。記憶検索は難しい。しかし、記録検索なら何とかなる。


脳は整然とした秩序ではなく、カオスを特徴としている。カオスだからこそ知のダイナミズムが生まれる。しかし、脳を直接上手にマネジメントするには天才を要する。ゆえに、凡人は記憶したものを可視化できる作業所を用意しなければならない。記憶を文字化した記録の置き場所、それがノートである。混沌とした脳の記憶をいつでもどこでも一覧できるようにしてくれる。そんな記憶の記録帳をぼくは〈脳図ノート〉と命名し表現した。ルーズリーフ式のバイブルサイズの手帳である。前世紀の終わり頃に評判になり活用する人もかなりいたが、今ではすっかり出番の少なくなった代物だ。

考えたこと、気づいたこと、知りえたことのすべてをここに記す。あちこちに分散させないので、知識や情報は一元化できている。だいたい半年分から一年分の直近の事柄を書き込んだページを綴じている。枚数にして350枚程度、両面あるから700ページ分になる。いつも傍らに置くか携行している。日々新しいページが加わるが、それだけでは単なる記録にすぎない。たいせつなのは、書いたものを読み返すことだ。〈脳図〉を繰り返し読めば、脳のカオスの中に仮想のディレクトリーやインデックスが見つかる。まるで脳にアクセスして情報を閲覧するようなものだ。こうして新旧様々の異種情報間に対角線が引かれ相互参照が促される。関連しそうなページどうしは近接させる。ページの順番はつねに流動して更新統合される。

自分の手で書いたのだから、どこに何を書いたのか、大半は覚えている。もちろん探すのに手間取るのは日常茶飯事だが、ページを繰っている過程で探している情報と無関係なページに出くわす。この偶然が偶察になり新しい知を触発してくれる。DropboxEvernoteも使っているが、それらは写真や大容量ファイルやウェブページの切り抜きを保存するため。たまに図書館のように利用することがあるが、ぼく自身のアイデアや観察や読書の抜き書きはそこには書かず、すべて〈脳図〉にしたためる。

こんな話をすると、ある人は啓発されて試してみようと言い、別の人は「やっぱり検索が不便だと思う」と言う。「この時代に、今さらノート?」と懐疑する人もいる。たしかに、アプリやソフトを使えば一元化もできるし検索もうんと楽になる。しかし、統合作業は結局自分でやるしかないのだ。仮にAIで統合できる時代が来たとしても、自分という個性的存在が編み出すアイデアが欲しいのであって、統合の省力化をしたいのではない。過去様々な知的生産の技術が生まれては消えたが、古典的なアナログノートは知の一元化と統合にめっぽう強いのである。手間暇がかかり面倒である。しかし、料理と同じで、即席よりはかなりおいしい結果になる。