気象庁によれば、今年は秋が短かったそうだ。職員全員が肌身で感じたはずもなく、あくまでも数字上の判断に違いない。10月上旬までは夏を引きずるような余熱があり、10月下旬に冬を予感させる兆しが観測された。風土の四季を誇らしく思うのが日本人。しかし、不幸にして、今年は秋を存分に堪能できなかったことになる。夏から冬へと気候は急変した。何とも慌ただしい話である。
急変はデジタル的である。デジタルは「0か1」、変化前と変化後の中間がない。あやもない。瞬時に切れ目が入る。急変、一変、豹変、激変など、いずれの表現にもゆるやかな時間の経過は実感できない。ある季節がゆるやかにフェードアウトし、別の季節がゆるやかにフェードインしてこその四季である。消えるほうと現れるほうとの境界に「ゆらぎ」が生まれ重なり合う。途切れのない時の流れを認識するために、春、夏、秋、冬というラベルを付けた。しかし、あまりにもゆるやかなので、この風土ではさらにラベルを細分化した。二十四節気という分節である。アナログ的変化の便宜上の微分と言っていい。
分節せずに「木」と呼ぶだけでもよかった。しかし、木は木という一つの概念だけに留まらず、根、幹、枝、小枝、葉と部分に分けられた。厳密に言えば、もっと細かいラベルが付いている。人は自分を取り巻く世界の諸々に便宜上の境界を想定する。ラベルはことばだ。モノを分けたのではなく、ことばで分節して理解しているのである。
その時々の思いつきで自然や時間や概念を細かく分けた。分節は風土や文化圏の中で恣意的におこなわれた。最初に普遍的な法則ありきならば、分節のしかたやことばのラベルは風土や文化をまたいで共通のはずである。しかし、言語が違い、それぞれの言語で指し示す対象の間にズレが生まれた。
「雪」という大きな概念だけで十分に伝え合うことができる砂漠の風土文化がある一方で、初雪、白雪、細雪、残雪、粉雪、ぼたん雪などと何十もの小さなラベルを付けないと気が済まないわが風土文化がある。イヌイットの雪のラベルはさらに細かく分節されているという。
先日、回転ずしに行った。外国人で賑わっていた。目の前を流れる皿と皿の間に立て札があり、そこに“Yellow Tail”の文字を見つけた。イエローテイル(黄色い尻尾)に併記されている日本語は「ハマチ」。英語が分かるとして、はたしてどれだけの人が現物のハマチを連想できるだろうか。ハマチは出世魚の家系である。ツバス→ハマチ→メジロ→ブリと出世する(関東ではワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ)。釣りマニアだった父などは見事に判別していた。いや、経験によって魚の大きさと魚名を照合することができたと言うべきか。
ちなみに、出世魚などという概念はわが国に固有である。そんな概念がない文化圏の人々に伝えようとすれば、“fish that are called by different names as they grow old”と苦し紛れの英語で説明をすることになる。直訳すると、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる魚」。一部の外国人は、「ハマチ」ではなく、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる黄色い尻尾の魚」を食べさせられることになる。分節は風土文化圏ごとに編み出される大きな概念の小分け作業であり、ことばによるラベル化にほかならない。そして恣意的であるがゆえに、なぜそうなったのかを分析することはほとんど不可能なのである。